落ちていく雫が涙だと知らず。
※鬱々しい上に、微かな艶があります。苦手な方はUターンをお願いします。
「え…………?」
自分の声がひどく遠く聞こえた。
手にしていた首飾りが指先から零れ落ちて、深い赤の絨毯に沈む。毛足が長く、手触りのいいそれは父が旅先で気に入り、値段も見ずに購入したものだった。
そして、取り落とした首飾りはそんな父から一番近い誕生日に贈られた品の一つ。
上手く繕えない表情のまま、言葉を発した彼を見つめる。
「いま、何と言ったの?」
ノックの音と、彼の声に応えたのは、父の帰宅に合わせて装いを選んでいる最中だった。ちょうどいいと、袖を通そうとしているドレスとこの首飾りは似合うかどうかを尋ねようと思っていた。1年ぶりに帰宅する父を迎えるのだから、この首飾りは外せない。
けれど、入室した執事服に身を包んだ彼が告げた言葉が理解できなかった。
星のない夜空を思わせる黒髪の下、彼の瞳が私を確かに射抜く。黒檀の瞳と、父は彼をそう称していたことを思い出す。
「ですから、お嬢様。貴女の父君はたったいまお亡くなりになりました」
「ガヴェル、貴方の言っていることが理解できないわ……お父様は昨日、私に手紙を寄越したのよ? 明日には家に帰れると、そう確かに書いてあったのを貴方も確認したでしょう?」
一つ何かを口にするたびに、取り返しのつかない何かから目を逸らしている。その違和感に気づいているはずなのに、痺れた思考を無視して私の舌はよく回る。
「えぇ、昨日、お嬢様と確認いたしました」
「でしょう? 父上のことだから、チャイムを鳴らさずに私を驚かせようとしてこっそり屋敷に帰ってくると思うの」
「えぇ、そうでしょうね。いつも旦那様はそのようにします」
「だから、ねぇ、何かの手違いだと思うのよ」
首飾りを拾うこともできないくせに、私は彼に向かって微笑みかける。彼はそれに応えずに、ただ無機質な瞳を私に向けるばかりだった。
「残念ながら、お嬢様。手違いではありません。旦那様は確かにお亡くなりになりました」
「ガヴェル、どうして貴方がそんなことを知ることができるの? 父上はまだ帰ってきてもいないのに」
ふと、私は唐突に気づく。いまは夕暮れだから、本来であればメイドたちが晩餐の準備に動き回っている時間帯だ。それなのに、廊下はおろか屋敷の中に人が動いている気配がない。
「ねぇ、ガヴェル。なんだか、おかしいわ」
「いいえ、お嬢様。おかしいことなど一つもありませんよ」
「だって、廊下から何の気配もないのよ。マリーはどうしたの? いつもなら、晩餐のメニューを誰より先に私におしゃべりにくるのよ?」
私かガヴェルが生み出す以外、しんと、静まり返る屋敷に、背筋にぞくりと静寂が爪を立てる。微かに震えだす肩を自分でそっと抱きしめる。
ガヴェルは、ふっと目を伏せるとこちらに歩を進め、落ちた首飾りを拾わんと手を伸ばす。
「お嬢さま、旦那様は実は先ほど帰っていらっしゃいました」
「――――え?」
完全に首飾りに向いていた意識が、すぐ目の前のガヴェルに移る。すっと差し出された首飾りの向こうに、ひどく冷めた瞳があった。
「先ほど、お嬢様が言った通り、旦那様はこっそり裏口からお戻りになりました」
「あぁ……そうなの」
安堵のままに息を吐く。父が帰宅したのなら、ドレス選びは後回しにして、首飾りだけでもつけて、出迎えなければ。彼の手から首飾りを受け取ろうと手を伸ばす。
けれど、その指先が首飾りに触れる前にそれは、彼の掌に握りこまれる。
「どうして、安心したように笑うのですか」
「どうしてって……だって、父上は帰ってきたのでしょう? つまり生きていらっしゃるのよね。それなら、貴方の先の言葉は冗談だったってことでしょう。それもものすごくたちの悪い」
わかりやすい非難を含ませた言葉に、この部屋に入って初めて彼はわずかに眉を動かした。けれど、それも瞬く間に消え失せて、彼はまた作り物めいた無表情で告げる。
「ですから、旦那様はお亡くなりになりましたとさっきから言っているでしょう」
「ガヴェル、いくら長年この屋敷に仕えている貴方でも言っていい冗談とそうでないものがあるわ。いま撤回すれば、父上にはこのことは秘密にするわ」
私はそう言い切っても、反応を返さない彼にしびれを切らし、その脇を抜けてドアに向かう。ここで彼と話しても埒が明かない。
それにしても、なぜ彼はこんな大切な日にわざわざ嘘を言いに来たのだろう。もしかしたら、この後に控えることが彼の気をいつもとは違う形で狂わせているのかもしれない。
「あと、ガヴェル、父上に話をするのは――――」
耳が焼けたと、思った。遅れて知覚した発砲音に、指先までが石のように硬直した。唯一、動かすことができたのは眼球のみで、それでさえ現状を正しく把握することができずに、大きく見開かれるだけ。
硝煙を揺らめかせる、黒光りするそれはまっすぐと私に向けられていた。それを握る彼の手に、思考がぐちゃぐちゃになる。
「ど、うして……?」
「どうして、か。確かに貴女はそう問うしか選択肢がありませんね」
かつん、と彼の靴底が床を叩く。一定のリズムを刻むそれは、次第に早くなっていく。
「私です。私がお戻りになった旦那様をこれを使って喋れなくさせました」
「ガヴェル、貴方、何言って――――」
「ガヴェル」
彼は飴玉を転がすような自然さで、自分の名をつまらなそうに復唱した。
「ガヴェルなんて使用人は20年前にとっくに死んでますよ。俺はそいつの名前を借りて、この屋敷に入り込んだにすぎません」
なんと言っていいのか、わからなかった。後ろ手にドアノブを探せば、熱風がまた耳を掠め、発砲音が部屋の空気を切り裂いた。
「逃げたいですか、逃げたいですよね。でも、あと少し付き合ってください。貴女に聞いてほしいことがまだあるんです」
彼は左手に銃をぶら下げたまま、私のすぐ前まで歩を進める。見上げればすぐそこに彼の顔があるところまでくると、彼は正面から腕を回して私に首飾りを付けた。
「よくお似合いです」
「父上を、撃ったの……?」
ようやく、思考が言葉を結ぶ。震えだす唇に、彼が薄く微笑みを浮かべた。
「えぇ、ようやく理解しましたか。俺が旦那様を殺しました」
「なぜ……どうして、貴方がそんなことする理由なんて」
「ないとお思いですよね。貴女は何も知らない。貴女の父がどれだけの犠牲の上で、笑っているか。貴女を抱きしめ、慈しむその手がどれほど血で染まっているか」
酷薄な微笑のまま、口調は冷たい熱をおびて鋭くなっていく。
「私の家族も、その数多ある犠牲のひとつです。けれど、俺はこの家に拾われることとなりました。なんて皮肉でしょうか。そして、貴女に会ってその思いは飽和しました」
「え…………?」
呆けたように見上げれば、彼の瞳が暗く濁った。わななく唇は色を失い、かすれた声で吐き捨てる。
「愛され、与えれるものを当然のように甘受し、清らかなまま育った子供、それが貴女だ。最も汚い人間に育てられたものの癖に」
降り注ぐ剥き出しの憎悪に、指先が冷たくなっていく。彼の声が、瞳が、すべてが自分を激しく憎んでいることを、自覚して吐きそうになった。
「それなら」
声が情けないくらい震えた。喉に迫り上げる息苦しさを抑え込んで、そこにひとかけらでも、憎しみ以外の何かを見出そうと縋るように彼の瞳の奥を覗きこむ。
「どうして、愛しているなんて言ったの」
掴まれた腕の熱を、耳朶に触れた吐息の切なさを、告げられた言葉の激しさを、昨日のことのように覚えているのに。求めるように縋る指先を受け入れて、世界一幸せだと泣きそうになった私を、彼はどんな気持ちで見下ろしていたのだろう。
父が戻り次第、このことを打ちあけようと、約束した朝。彼はどんな顔をしていたか、私にははっきりとは思い出せない。それでも、微笑んでいてくれたというその記憶さえも嘘だったのか。
責めるような私の言葉に、彼は一瞬だけ息を止めて、無意識に頬に伸ばした私の手を払い落とした。汚らわしいものを振り払うようなその強さに、目頭が熱くなる。
「殺して頂戴よ」
思うより先に言葉が溢れた。彼の左手を掴んで自分の頤に銃口を押し付ける。
もうわかっている。彼が朝、私のためにと針を落としたレコードに私が聞き惚れている間に、悲鳴も銃声も全て溶けてしまったのだろう。
廊下の絨毯にはきっといくつもの赤がしみ込んで、もう黒く染まっているのかもしれない。
「私で最後なんでしょう、それならもう殺してよ。もう十分でしょう? 終わりにしてよ……!」
動かない彼の指先に自分のものを重ね、引き金を引こうとすれば、拳銃は彼の力で壁に投げつけられた。
そして、瞬く間に床に押し倒された。
彼の手によって、床に縫いとめられた手首が痛みで軋む。
涙が、滲んだ。
私は、彼のその骨張った大きな手が好きだった。不器用で、けれど誰より私に優しいその手が、時折触れることをためらうように震えることを知っていた。だから、そんな時、自分からその手に頬を寄せる瞬間、ひどく満たされた気持ちになった。
自分は愛されているのだと、自分は彼を愛しているのだと、そんな――――そんな夢を見ていた。
こちらを見下ろす暗く澱んだ彼の瞳を、私は笑った。
もう戻らない時間を、崩れ去ったぬくもりを、引き裂くように、私は笑った。
「欲と言うなら勝手にして。けれど、これを愛と言うことだけは絶対に許さないわ」
目の淵から、零れるものは綺麗なものでは決してないのに、その慰めのような温かさが許せなかった。落ちていく雫が涙だと知らずに、そうして彼は私のドレスを引き裂いた。
お題「落ちていく雫が涙だと知らず」