光射す方へ
いすずは物心ついたときから、ひとり遊びが好きである。
言葉を覚えてからは、ひとりでストーリーをつくって喜んでいた。
中高生のころは、紫式部に憧れた(いまは清少納言派である)。
大学受験から大学の時代は、ほぼ使える時間を創作に投下した(したがって、余技で受験し、余技で卒業していったことになる。留年する前は、それでも2回ほど、奨学生の打診が来た)。ほぼ、物語を考える以外の生活が余技である。
そうはいっても、創作の種は日常の、ひととの交流ではぐくまれていることが今日のピアノの練習中の考え事で判明した。ショパンのピアノ協奏曲やアンプロンプチュ、ソナタ、ワルツ、ベートーヴェンのテンペストなどを弾きつつ、頭の中は妄想タイムである。とはいっても、ずっとこんな調子の書き言葉の、音声が流れてくる。ずっと小説をつむいでいるのとおなじである。そのなかでいろいろに分析し、推敲し、そして、実際に座って書くことになる。フローとなんとやらの時間であろうか。フローにあたるピアノの時間は、のちの創作のためにも欠かせないのであるが、考え事をしつつ高度なスコアに挑戦するという、一見無謀なことにトライする意味はいまだに考えあぐねている。
スコアはスコアとして、きわめるべきだ。感情表現とか、この曲を書いたショパンの当時の気持ちとか、情景とか、恋の模様とか。音符に込められた想いもあるだろう。指は動くが、もっとしなやかに、軽快に、そして、繊細に打たねばならないとピアノの講師が言っていたことを思い返す。しかし、我を忘れてがんがん弾くか、物思いにふけったまま、怠惰に慣性に弾くだけである。
今日もそういう意味では、ちゃんとした練習をしかねた。アンプロンプチュはまだ曲想をつかんでいないに等しいが、さらにそれにくわえ、今日は音がばらばらになっていた。連携を取るべきトレモロが崩壊している。聞き苦しいが、それも思考に絡め取られる。小説家はピアニストになれないな、とふと思った。どちらに自分がなりたいと憧れているか、いまだ判然としないが。どちらも無理なのかもしれないが……
他の人の作品を読み、抱腹絶倒しながら、こういう、たわいのない、そして明るい内容の、人生を自分は選んでこなかったことに気付いた。自分の好む時間は、英語バリバリの洋楽にあわせてダンスしているか、しっとしたピアノ曲やライブ演奏などで、クラシックを堪能しているかである。そう、ほぼ、小説を今は読まないのだ。昨日も、よまなくなったかつての愛読の文庫本を数十冊、段ボール箱に入れて押し入れに押し込めた。タイムカプセル行きである。捨てるには忍びない。過去の、あるいは現在の語彙や感情を形成したあとの、燠である。燠というものは燃え残りであって、火はつかないらしい。埋み火、という言葉もあって、たしか燠に種火を継ぎ足したのか、燃えさしをうずめたのでないかと思うが、どちらにせよ囲炉裏の時代の言葉だ。そういう古い、民家で根付く言葉は結構好きである。
埋み火はけっこう、艶っぽい小説の題名にもなっているが、そういう、艶ごとの内容が書けたためしはない。そういう感情に入り込むのが苦手である。理知派の小説とか、こういう、ぐだぐだした回想系が好むものであるが、どちらかというとストイックでハードボイルドな展開が好きである。そして、ちょこっと、理想の女性と、理想の恋をしていると嬉しかったりする。そういうのにあてはまる現代小説家は、すくなく、おおくみつもって3,4人くらいしか知らない。村上春樹はとうぜん入らない。(読まない)。英語の勉強にはなるのだが……
思い出すところでは、市川拓司、米澤穂信、一部の作品の佐伯一麦あたりがそうであろうか。あとひとりしっているが、プラタナスの街路のパリを描いたところから始まる日本人画家の群像を描いた秀作で、これほどの作品で名が売れないのがおかしい、という、悲劇の代名詞になっている方のようである。(わたしよりはたぶん、ひとまわり、もうすこしか、ふたまわりくらいか、上の方のはずである。)
そうそう、いつもわすれているが、片山恭一のいくつかの、エッセイのような作品、わたしは論考のような雑誌を持っているが、それに寄せた(番組で放送したものだが)、森有正論が好きである。ピアノを弾いていて、ワルツや、アンプロンプチュになると、よく、ノートルダムの寺院の景色を思い出す。ノートルダムでいきることを哲学した森。オルガンをよくしたらしい。シュバイツァーや、森、そして佐藤多佳子の小説”聖夜”の高校生の主人公と、自分の好むいきざまには、いつもバッハのオルガンがある。なぜなのかは知らない。自分はバッハはまだ、人生で初めて弾きはじめているところだ。まっすぐでおだやかで謹厳で、理性を崩すところのないバッハ。たしか、大学の終りに出会ったTもバッハのカンタータやフーガが好きだといった。そのころは、CDで聞いたことがあるね、くらいしか返せなかった。
深くしみいる言葉がある。そういう言葉を道しるべに、今日の日々を過ごしている。
いすずは人生で深くかかわった人間は少ないかもしれないが、そして、彼らにとっては、ごくあわい淡彩画でしかない出来事であろうが、いすずはそれのことを深くとらえて自分の中に種をまき、自分のこころになにかを育ててきたのだと思う。土を換え、水を遣り、ひかりをあてるように。
T,S,Sくん、その他の人々。
みんなに顔向けできない自分ではありたくない。でも、自分を偽りたくもない。
ゆっくりしたカメか、かたつむりのような歩み。
いろいろ、青春時代にかけられた、友人たちからの言葉がいまもなぜか、よく浮かんでくるのだが、あのころは笑って過ごしていた。
普通の生活の幸せを手放した今。
ひとりで考える時間はたくさんある。
このままだれとも交わらないで朽ちていくのかもしれない。
それでもいい。
自分に愧じない自分でいたい。
自分の決めた、なすべきことをしていたい。
そのためには、やはり、感じることーなにかを想うことだ。
そしてその方向へ進まなくてはならない。
光射す方へ。
いすずのぬるくなったジャスミンティーのカップを彼女は取り、マーガレットの写真のガラスにさした花のカレンダーを見ながら、ほっとした。