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僕は自殺をあきらめた  作者: 安藤ナツ


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2/7

 僕が自殺に選んだのは墓標ビルだった。

 最近になって見る機会の多くなった室内墓地のことではなく、駅から十分程歩いた場所にある大型マンションを、地元の中学生達はそう呼んでいた。立地が悪いわけでもないのに何故か人が入らなくて、オーナーが首を吊って死んだと言う噂と、長細いコンクリート色のビル自体が墓石のように見えることが由来だった。

 飛び降り自殺をしようとした僕がその場所を選んだのは、まあ、名前に釣られたところが大きい。そうでなくとも、既に人が自殺したビルだと考えると、なんだか自殺がしやすいように思えたのだ。

 だってそうだろ? 何だって先行者がいるなら、人の真似をしたくなるものだ。誰だって失敗はしたくない。自殺に思い至ったのだって、一週間前に見たニュースの報道が発端だったように思う。小学五年生の男子が虐めを苦に入水自殺をしたと言うニュースを見て、僕は初めて自殺と言う考えに至ったのだから。

 いっそのこと、自殺報道を一切やめたとしたら、自殺は減るんじゃあないだろうか? 確か、星新一の小説に似たような話があった気もするけれど、今はそんな考察に意味はない。

 叔母にばれない様に家を抜け出し、ラジオ体操よりも早い時間に墓標ビルの屋上へと侵入した。屋上は家庭菜園所のような役割をはたしているらしく、三畳分程度の面積をした花壇とも畑とも言うべき土が敷かれたスペースが幾つもあった。

 それらの横を抜けて、僕は二メートル近い金網が張られたフェンスを乗り越える。ネズミ返しのようになっていたけれど、本気で死のうと考えている人間にとって、それは大していみのある物ではない。殺意を抑えるには、軟過ぎた。

 フェンスの向こう側は、三十センチもスペースはない。そんな不安定な場所で、十三階建て(不吉だ)分の高さの下に確固とたる地面があると言うのは、率直に言って怖かった。風も強いし、それとは関係なく足が震える。嗚呼、これから死ぬんだ。そんなことを思うには十分な距離だった。

 錆が浮くフェンスに肉が食い込む程にしっかりと掴み、僕は恐る恐る下を確認する。自分が落ちる地面、つまりは僕を殺す地面の野郎のことを睨み付ける。母なる大地とは言うけれど、アスファルトに覆われた地面からは母性のような物は一切感じられない。

「ん?」

 と、実際に声を出したかどうかは覚えがない。が、僕の目は人影を一つ見つけた。

 結論から言ってしまえば、それが盃嵐を初めて体験した瞬間だ。

 見つけただけで『体験』だなんて表現するのは、少々大袈裟と言うか、おかしな気もするが、あれははっきりと体験だった。

 黒々とした獅子の鬣のような髪の毛の一本一本の力強さを。

 黒いタンクトップから伸びる腕のしなやかさを。

 威風堂々と世界を自分の物だと主張するように長い脚で闊歩する様子を。

 盃嵐を、僕は見てしまったのだ。

 その瞬間、僕の身体はぐっと嵐の方へと引き寄せられのを感じる。

 存在が空間を歪める力。重力。僕の身体を引っ張ったのは、盃嵐が持つ重力だった。

 勿論、個人がそこまで強力な重力を持つことなんてありえない。が、盃嵐を見ている間、僕はフェンスが歪んで激しく軋む程強く握り締め、必死にビルの屋上から落ちない様に歯を食い縛っていなければならなかった。

 肺は意味不明に酸素を求めて動き、心臓の鼓動は留まることを知らず、激しい血流が血管を削るように流れる。

 あと一秒でも長く見ていたら、僕の心臓が張り裂けるか、地面へと落下していただろう。

 自らの意思では逃れることができない、圧倒的なその重力から逃れるきっかけをくれたのは、他ならぬ盃嵐だった。彼は不意に足を止めて、視線を上げたのだ。

 そして、その漆黒の意思を秘めた瞳を見てしまった。そして、見られてしまった。

 瞬間、僕は弾ける様に飛び退った。本能的な動きだった。

 身体をぶつけたフェンスに縋るようにして、僕は呼吸を整える。

 あれは、なんだったのだろう? と、混乱する頭で必死に考えた。あんな存在が人であって言い訳がない。見間違いだ、幻だと、自分に言い聞かせながら、僕は深淵を覗く気持ちで再びビルの屋上から地面を見下ろす。

 人影はなくなっていた。目を離していた時間は五秒もなかったから、やっぱり幻だったんだ。盃嵐を体験しても、盃嵐を知らない僕は、そんな風に直前の現象を理解することにした。

 そして、直ぐに自分が如何に世界を知らない愚かな存在であったかと思い知ることになる。


「へぇ。結構、良い眺めじゃあないか」


 僕の隣に座る盃嵐が、極々自然にそんな風に話しかけてきたのだから。


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