喫茶店 春
傘に大粒の雨が打ち付けている。
どんよりと灰色がかった空は、沙也香の気持ちを暗くするばかりだった。
手には小さな紙切れ一枚。母の兄である嘉賀憲司が経営している喫茶店、「春」の住所が書かれている。母に頼んで書いてもらったものだ。朝8時位から住所を辿り、12時ごろにやっと目的地に着いたのだ。電車やバスと、かなり沙也加が住んでいる場所とは離れたところにあるようだ。
沙也香は今、喫茶店「春」の目の前にいるのだが、なかなか店へ入れずにいた。
店の外見はかなりこじんまりとしていて、玄関の扉は木でできている。扉の中央にステンドグラスがはめてあり、壁全体はレンガ。そして、地面から生えた青々としたつるがレンガを包むようにして壁を覆っていた。大きな窓が一つあるものの、つるで大半が隠されておりあまり目立たなくなっている。
ドアの横には「喫茶店 春」の看板があるが、だいぶ色あせているようにみえる。
「行動しなきゃ、始まらないよね。なにも。」
沙也香は、もう一度紙に書いてある住所を確認してから入り口の取っ手をつかんだ。ドアには「OPEN」と書かれた板がぶら下がっている。
沙也香は、恐るおそるドアの取っ手を自分の方に引っ張った。
ギィー_______________。
ずっしりした、重みが沙也加の腕に伝わった。かなり、頑丈なドアのようだ。片手から両手に変え、人が通れるくらいまでドアを開けると体をするりと中へ忍ばせる。沙也加の背後で重そうな木の扉がゆっくりと内側に閉じ始めた。
チリン チリン
扉の上の方から鈴の音がしたので不思議に思って上を向くと、角に金色に光った小さなベルが付いていた。
「.....ドアベル?」
そうして、喫茶店「春」の中に一歩を踏み出した。
改めて見ると、店内は落ち着いたオレンジ色の光に包まれ、コーヒーのいい香りが立ち込めていた。
床は赤いワイン色で、壁はほのかなクリーム色。天井には、おしゃれな傘がかぶたライトが4つ付いていた。
また、マスターと向き合えるカウンター席が4席。4人掛けの丸テーブルが3つ。そして、隅の方に四角い2人掛けのテーブルが2つと、20人位は座れるようになっていた。
だが、客は1人もおらず、ましてやマスターもいない。店内に流れるクラッシックの音楽だけがゆったりと時を刻んでいた。
「えっと..........」
店内に誰もいないことに驚き、呆然としていた沙也香は、気を取り直しとりあえずマスターを呼んで見ることした。
「あのっ....すみませーん!誰かいませんかー⁇」
ひとまず呼んでみたものの、返事が返ってこない。
声が小さすぎたか?そう思った沙也香は、もう一度大きな声で呼ぼうとする。
「あのっ!すみま........」
さっきよりも大きな声で叫んだ沙也香だったが、奥の部屋から人の気配を感じ、おじさん?と呟いた。そして、店内の奥を覗いてみる。
「...あれっ?」
誰もいない.....。
一人で首を傾げていると、入り口のドアが ギシッと音を立て、ドアベルがチリンチリンと店内に鳴り響いた。
「おや?お客さんかな?」
ほわんとした声が沙也香の耳に届いた。くるりと後ろを向くと、そこには優しそうな男性が立っていた。手には重そうなビニール袋を持っている。
身長が156センチの沙也香と比べると、頭一つ分はある背の高さ。175センチ位はありそうだ。
にっこりと微笑んだその男性は、お母さんが言っていた厳しそうなおじさんには見えなかった。ましてや、おじさんの歳は50代後半と聞いていたのだ。こんなに若い人が、マスターなのかすらわからない。
「あ、えっと、その....」
沙也加は言葉に詰まった。
会ってすぐに、「あなたは何歳ですか?」と聞くのは失礼だし、「マスター」というのも気が引けた。とは言っても、なにも言わなきゃわからないと思ったので「失礼ですが、ここのマスターはどこにいらっしゃいますか?」と沙也加にしては丁寧な口調で訪ねた。
男性は、沙也加の質問に顔をしかめ、わずかに首をかしげた。そして、
「僕がマスターだよ?」
と、口を開いた。
「は.....................」
沙也加は、口をあんぐりとあけたまま、固まってしまった。
おかしい。この人は、本当にわたしの母の兄なのだろうか。いや、見た目的に、おかしい......。
「え?どうかしたの?......お客さんだよね⁇」
固まってしまっていたわたしを見て、男性が手をあわあわと動かしている。
客....じゃないけど、今はそう言っておく方が良いようだ。
「あっ、はい。そ、そうです。」
なんとか、苦笑いで頷く。
「そうだよね!ごめんね。今ちょっと出かけてて」
男性は、ホッとしたように息をついて、「どうぞ」とわたしを店の奥へと案内した。わたしも、後を追っていき指定された窓側の席に腰を下ろす。
「お飲み物は何になさいます⁇」
木のテーブルの端に置かれた小さなメニュー表に目をやる。
「ホットコーヒー。一つ。」
「かしこまりました。」
短く返事をした男性は、カウンターに戻っていきコーヒーの準備を始めた。コーヒー豆のいい香りがしたと思ったら、その1分後にはわたしの目の前にホットコーヒーが注がれたマグカップが置かれていた。早い。無駄な動きをなくし、手早く、かつ丁寧に入れられたホットコーヒーは、少し苦くて、とても上品な味わいだった。
「おいしい....」
ホロリとこぼれた本音だった。
「ありがとうございます。」
わたしの呟きを聞いていたのか、にっこりと笑った男性は、わたしの目の前にクッキーが乗ったお皿をおいた。
「え、あの、クッキー注文してませんけど...⁇」
そういいながら、目の前のクッキーからはいい匂いがただよい、つい手を伸ばしたくなってしまう。
「いいんですよ。サービスです。」
そう微笑んだ、男性...マスターは、ぺこりと頭を下げてカウンターへ戻ってしまった。
「ありがとうございます......。」
そして、クッキーに手を伸ばす。
焼いたばかりの温かさが残る甘いクッキーは、少し苦いアイスコーヒーと相性がバッチリだ。
口をモゴモゴと動かしながら、マスターの方に目をやる。
食器を拭いているようだが、店内にかかってるクラッシックの音楽にあわせて体がリズムをとっている。
(なんか揺れてるし.....)
苦笑いしつつも、そろそろ本題に入らなきゃ...と思っていた。
「すみません。わたし、花野沙也加といいます。ここが、母の兄である嘉賀憲司のお店だと聞いていたんですけど....」
聞いてみたものの、単刀直入に言いすぎたか、と少し反省する。
「..............あ、そうゆうことでしたか。」
少しの間があってから、返事があった。
「嘉賀さんは、このお店の初代マスターですよ。」
....はい?初代マスター?って、ことはおじさんはこのお店にいないってこと⁈
じゃあ、この人は..............
「僕は、嘉賀さんがマスターをしていた頃、無理やり弟子にしてもらったんです。だから、2代目マスターってことになりますね。」
「に、2代目っ........⁈」
驚きすぎてなんと言えばいいかわからない。
開いた口がふさがらない沙也加をみて、マスターが説明を始めた。
「嘉賀さんは今頃、全国....いや、世界を旅してると思いますよ。わたしが、正式にここのマスターになったのが2年前なので。」
「せ、世界って、どうゆう.....」
沙也加の頭の中で、理解不能の単語がぐるぐると回っている。旅、世界、2年前.....どれも、沙也加の母からは伝えられていない話だ。思わず首を傾げてしまう。
沙也加をチラリと見たマスターは、拭いていた食器を棚に置き、ゆったりとした足取りで沙也加のテーブルの向かい席に腰を下ろした。
「そうですね。世界中の喫茶店をまわる旅。みたいな感じですかね。」
まるで夢を見るかのように目を少し細めて微笑む姿に、言葉が出てこない沙也加。
「で、でわっ....わたしはどうすればいいんでしょう?」
ここまで来て、無理です。なんて断られたくない。
「それはもちろん、ここでバイトをしてもらいますよ。嘉賀さんからも、雇うよう言われてますしね。明日から来てもらいます。」
にっこりと笑ったマスターとは裏腹に、沙也加の頭の中は未だ整理できていなかった。
(雇うって事は、バイトするって事...明日から、ここで...??)
「は、い......」
半分うわの空で返事をしながらも、全く実感がない。そもそも、こんなに簡単にバイトを始めていいのだろうか。もっと、面接だとかいろいろあると思っていたのに。
「うん。じゃあ、よろしくね。明日、9時に来てくれれば良いから。」
ハッとして、気を取り直す。
「分かりました....よろしくお願いします。」
ぺこりとお辞儀をし、マスターが立ち上がったところで
「あっ」
と言葉を発した。
そして、店の奥に引っ込んで行ってしまった。
「ん?どうしたんだろ?」
不思議に思っていると、マスターが奥から姿を見せた。手には透明の袋に入った黒い布を持っている。
「はい。これ。」
差し出された袋をそっと開けて見ると、中身は黒地のエプロンだった。腰丈のエプロンで、右に一つ大きなポケットが付いている。
「エプロンですか?」
紐の部分をもって、自分の腰に当ててみる。
「うん。店にいるときはいつも付けててね。服は、それなりにちゃんとしたものだったら大丈夫だから自分で選んで良いよ。」
服は自分で選んでいいなんて....ちょっと自由だと思った反面、沙也加はここで働けるという事が嬉しくもあった。
「はい。分かりました!明日から、よろしくお願いします。」
そして、またお辞儀をする。
「でも、今日はもうちょっとゆっくりしていくといいよ。雨も強くなってきちゃったしね。」
マスターが視線を窓に向けたので外を見てみると、つるをつたって落ちていった雫がぽたぽたと音を立てていた。
店内に流れるクラッシックメドレーに耳をかたむけながら、まだ温かいコーヒーをゆっくりとすすった。