タイパ世代
会議室の蛍光灯は、どうしてこうも白々しいのだろうと思う。
冷たい光が机に反射して、顔を上げた同僚たちの肌をやけに平たく見せる。
紙の資料が擦れる音と、誰かのため息。
そのすべてが、もはや儀式のように繰り返されている気がした。
──これ、対面でやる意味あるのかな。
心の中でつぶやく。
言葉には出さない。出したところで、「まあ、そういう意見もあるけどさ」と軽く笑われるだけだと分かっているから。
上司がレーザーポインターを動かしながら、「ここが大事です」と言う。
スクリーンに映っているのは、何度も見た同じグラフ。
毎週、数字の形だけが少しずつ変わって、色のトーンが違うだけの報告資料。
スマートフォンをポケットの中で指先が探る。
あの小さな画面ひとつで、世界中の誰とでも話せる。
メッセージを送れば、相手がどこにいようとすぐに返ってくる。
なのに、ここでは「資料を印刷しておいて」「次回の会議は来週の午後で」なんて、まるで昭和の延長みたいな言葉が飛び交っている。
紙と声。
目の前にある人の顔。
それが“信頼”なのだと、誰かが言っていた。
でも、その信頼はほんとうに“会うこと”に宿っているのだろうか。
ただ、慣れ親しんだ形式にしがみついているだけじゃないのか。
「こういうの、全部LINEでできるのにな」
口の中で小さくつぶやいた声は、自分にしか聞こえない。
LINEのグループを作って、議題を投げれば、誰かがすぐに意見を返してくれる。
スタンプ一つで、肯定も否定も、空気の軽い調整もできる。
「了解です」「それいいと思います」それで会話は成立する。
文面は残る。あとで見返せば誰が何を言ったか一目で分かる。
記憶に頼る必要もない。
けれど今、ここに座っている自分は、誰かの顔色を読みながら、曖昧な相槌を打っている。
沈黙が続けば、妙な圧力が漂う。
意見を求められれば、咄嗟に“無難なこと”を言う。
「やっぱり対面で話すと違うね」
会議が終わったあと、上司が満足そうに言った。
その“違う”の中身を、誰も問わない。
ただそういうものとして受け入れる。
その方が、きっと楽なのだろう。
廊下に出ると、窓の外に午後の光が差していた。
スマホの画面には、別部署からの連絡。
「明日の打ち合わせ、Teamsでお願いします」
その一文を見て、少しだけほっとする。
対面ではなく、画面越しの声でいい。
顔の表情や呼吸のタイミングに気を遣わなくていい。
マイク越しに伝わる“間”には、ほんの少しの余裕がある。
言葉を選ぶ時間が、そこにはある。
でも、もしそれすらも、誰かには「冷たい」と感じられるのだとしたら?
エレベーターの鏡に映る自分を見ながら思う。
便利になったはずなのに、なぜか疲れだけは増えている。
会わなくてもいい時代になっても、「会うこと」がいまだに特別な意味を持たされている。
「顔を合わせるのが大事」と言われるたび、心のどこかがざらつく。
それは、本音を言えば“会いたくない”という気持ちを正当化できないからかもしれない。
人と距離を置くことが、まるで悪のように語られる。
けれど、本当に必要なのは“形式”ではなく“意志”なのではないか。
オンラインだろうと、対面だろうと、伝えようとする意志さえあれば、そこに温度は生まれる。
顔を合わせても、心が離れていれば、それはただの沈黙だ。
画面越しでも、言葉に心が宿っていれば、そこに会話はある。
駅に向かう人の群れの中で、スマホの画面を見つめる。
「今日の会議どうだった?」と同期からメッセージが届いていた。
「いつも通り、意味はなかったよ」と打とうとして、指を止める。
“意味”という言葉が、少し重たく感じたから。
結局、人は自分で“意味”を見つけるしかないのだろう。
対面の会議にも、無駄な時間の中にも、もしかしたら何かの断片が潜んでいるのかもしれない。
送信欄に「まあ、普通」とだけ打ち込んで送る。
電車がホームに入ってくる音がして、風が顔をかすめた。
窓に映る自分の顔を見つめながら、思う。
今という時代は、きっと“距離の再定義”の中にある。
近すぎても苦しく、遠すぎても寂しい。
だから人は、今日もまた、どこかで「会議」という名の居場所を探しているのかもしれない。




