8 それはどうかと聞かれても……
「失礼します」
そう頭を下げて、私は廊下に出た。ちらりと見上げた生徒指導室の文字。その視線と一緒に大きな溜め息を下に向けた。右手に持った空欄の進路調査票。明日必ず持ってくるようにと川たんに再三釘を刺されながらも、猶予をもらったのだ。
第一希望と第二希望。それと将来どういった職業に就きたいか、とか、簡潔にでいいからと言われたけれど、簡潔に書こうにもその元がわからないんだから、今はちょっと書けそうにない。
どうしようかな?
目線をキョロキョロと、何か、誰か、何でもいいから考えるきっかけが欲しかった。でも、生徒指導室の前、廊下じゃ、窓と見慣れた景色しかない。生徒の話声もなく、窓から見える景色も雑草が生える裏庭というか、うっそうとした学校の死角みたいな所だ。日陰になっていて、不良がたまってタバコを吸っているイメージ。あ、だけど、生徒指導室のすぐ前で、目につくから、不良はたまらないんだけど。
ああ、何だか思考が変な所へ流れて行く……。
ここじゃなんにも思い浮かばない。どこか違う所に行こう。
ってどこへ行こうか……。そう思いながら私は学校の中を彷徨っていた。途中目に付いた自動販売機で、とりあえずカフェオレを買って飲んだ。自動販売機の隣にあるベンチへ腰掛けながら、何がしたい訳でもないのに、行き交う学生を目で追った――楽しく談笑しながら通り過ぎるカップル。慌ただしく走っていたバスケットボール部員。肩まで組んで馬鹿笑いを見せた男子ふたり。イヤホンから流れる音楽を鼻歌に変えて歌う女生徒――私へ一瞥を向けながらも何も言わず、表情も変えずに、みんな通り過ぎて行った。
別に、構って欲しい訳じゃない。だけどその度に、なんだか居心地が悪くなる。少し残してカフェオレの缶を捨てた。
再び歩き出す。でも、やっぱり行く当てはない。
別に行きたい所もない。教室に戻る理由もないし、千尋はもう塾だろう。
他の人は進路の事をどう考えているんだろう? 千尋は、お医者さんになるって言ってた。だから、それに準じて学校も選ぶんだろうし……。明確な目標が見えている。それがあるから真っ直ぐそこへと向かう道筋が引けているんだ。それを羨ましいと思う。だけど、私には何も見えない。俯き加減の視線を前に向けても、見える景色は変わらない。どこかへ続く廊下がその先を暗く影で隠している。向こうからきたギターケースを背負う女子ふたりと擦れ違う際、私はまた視線を伏せた。それでも聞こえる彼女たちの声。文化祭の演目について語っていようだった。
トボトボと進む自分の爪先が、色々とフラフラしている。どこへ行きたい訳じゃない。何か明確な目的がないから、結局足を動かしていても、その場で足踏みしているのと同じなのかもしれない。時折廊下ですれ違った他のクラスメイトたちも、同じ空間にいるだけで、千尋と同じように足を前に動かして、どんどん前へ進んでいるのかもしれない……。
もしかして、私独りだけ、置いてけ堀なのかなぁ。
そう考えると、無性に寂しくなった。人がたくさんいるこの世界で、もしかして自分は独りぼっちなんじゃないかって、思えてしまう。
苦しい。
何とも言い表せないモヤモヤとして、心が煽られる感覚。どうしたらいいのかわからない。
もう帰ろう。家に帰ろう。
そう思って踵を返した時、今いる場所が図書室の前だと気が付いた。
脳裏に浮かぶ陣内誠司の顔。無表情に辞書に囲まれ、原稿用紙に目を落とす姿。この扉の向こうに彼がいるかもしれない。ううん。たぶんいると思う。
そう考えた時にもう、私は、扉へ手を掛け開けていた。
そこには、やっぱり彼がいた。思い浮かべた通りの姿で、いつもの場所で、陣内誠司は小説を書いていた。
その姿になんだかほっとした。変わらない彼の姿。それで心が軽くなった気がする。半ばスキップのように近づき、陣内誠司の対面に腰掛けた。そして、いつもの言葉を投げかける。
「捗ってる?」
そう覗きこんでも、彼の筆は止まらずに、視線は原稿用紙へ一直線と言った感じだ。まあ、それが答えなのかと、私は口に空気を含み、ぶうと唇を鳴らす。それが思いのほか静かな室内に響く。それに慌てて周囲を見たけれど、こちらへ視線を向ける人は誰もいなかった。
あ、危なかった。あの音――おならと勘違いされてもおかしくなかったよね。ホント……。もしこれが教室だったらと思うと、なんだかとっても恥ずかしい。あんなの、誤解でも生んだ日にゃ、大変なんだよね。ホントに! 言っときますけど、女の子は徹底的にそういった事柄には気をつけてるんですから。ちょっと前のたとえで言うなら、“アイドルはおならしない”くらいの……。あれ? ちょっと違うかな? ま、根本的に私はアイドルなんてガラじゃありませんけどねぇ。って、自虐。
そ、そんな事は置いといて――よかった。と一息ついて、視線を正面へ。すると、陣内誠司がこちらを睨んでる。
げ、まさか勘違いしちゃった?
「あ、あれは違うのよ。おならじゃないの。ほらほら、こうやって――」
頬を膨らませ、もう一度、ぶうと鳴らす。
「ほらね。これがさっきの正体だから」
なんとか誤解を免れるため慌てて説明する私に、陣内誠司は表情を変えず、空気を切り裂くようにひとつ息を吐いた。
「もうすぐ一区切りだから、それまで静かにしててくれる」
「え、あ、うん。ごめん……」
そう言って私が目線を落とすと同時、視界の端で、彼の筆が再び動き出していた。静寂が戻る図書室。線を引き、文字を書くペン。それら文章が綴られて行く原稿用紙。それを見ていると、少し胸が苦しかった。
なんだか私、ひとりで馬鹿みたいだ……。