7 寝耳にミミズク、忘却の雲
放課後――いつもと変わらないざわめきに埋まった教室から飛び出して、千尋の影を見つけた私は、小走りで後を追う。結局、彼氏さんの話は、タイムオーバーで告白の所しか聞けなかったんだ。どういった人で、どうやって出会ったのかとか……、今まで気にならなかった事が、とっても気になる。午後の授業はそんな事で私の頭は一杯だった。だから、好きな物語の続きが聞きたいとばかりに、千尋の背中を追いかけた。
のだけれど……。
「宮崎さん」
下駄箱へと続く下り階段の途中で、不意に呼びとめられた。
「うわっと、と」
階段を踏み外しそうになったけれど、なんとか手すりにもたれかかり、踏みとどまる。変な声が出てしまった。でも、転げ落ちてしまうよりかはましだ。ない胸をなでおろし振り返る。と、階段の踊り場に窓から差し込む逆光で顔を暗くした川たんが、グレーのスーツに身を包み、緑色のファイル片手に私を見下ろしていた。他に人はいない。
「大丈夫?」と、川たんが心配そうに階段をひとつ下り、「ごめんなさい。急に呼びとめて」と続けた。
「え、あ、はい。大丈夫です」
そう言いながら、チラリと肩越しに千尋を追ってみたけれど、もう、彼女の姿はどこかへ消えてしまっていた。
「ねえ?」
「あ、はい」
「ちょっと時間、あるかしら?」
「え?」
「あなたにとって、大切な話よ」
いったいなんだろう? 首を傾げつつも、「……はい」と、先生を見上げれば、「うん」とひとつ頷いた川たんが踵を返し、階段を昇り始める。それに私は、更に深く首を傾げた。
そして、川たんの後に続いて案内された先は、ひとつの教室。
廊下から見える光景は、普通の教室と変わらないのだけれど、入口の上に掲げられているプレートには[生徒指導室]と、達筆に描かれた文字があった。
あれ? ここって、教室なんだろうか? それにしても、まさか、ここに呼ばれる事になるとは……。溜め息だ。私、なにか悪いことしたかなぁ。
扉をくぐると、見た事もない先生が数人いた。中には一見ヤクザかと思える小太りのおじさんも……。なんだか張りつめた空気が、普通の教室と違う。まあ、それもそうなのだろうけれど、パーテーションで区切られた教室は、とてもせまく感じる。
そんな中を、川たんは縫うようにして進み、一番奥の机に陣取る人物に声をかけた。その人は「老師」と、つい口から飛び出してしまうくらい、その言葉が似合う外見のおじいちゃんだ。一瞬、老師の細い目がこちらに向いた。あ、聞こえたかな? 目線をはずして誤魔化す。
それにしても、汚い部屋だ。プリントやらファイルやらが、机の上に散乱しているし、壁には予定表をはじめとするプリントが、重なる様にマグネットやら画鋲でとめられている。男臭い。と言うのかな? こんな雰囲気。お兄ちゃんの部屋とは正反対。
「宮崎さん」
「はい」
川たんに呼ばれ、逸らしていた視線を戻せば、「こっち」と先生が指差す先に、ひとつの区画――パーテンションで区切られた小さな部屋があった。
入口に掛けられていた[空室]の札をひっくり返し、川たんはそこへ私に入るようにと手ぶりで促す。私は、周囲を一瞥し、いくつかの視線が向いている事に肩をすぼめ、そそくさと中へ入った。
中には小さな机と、椅子がふたつ。他には何もない。四畳くらいの部屋。その周囲は全て、パーテーションの灰色の壁だ。
「奥に掛けて」
川たんに言われた通り、私は奥の椅子に腰かけた。持っていたカバンは、脇に置く。
「さてと――」
そう言いながら川たんは、ふう、と息を吐き出し、一度髪をかきあげ、ずれた眼鏡を押しこんだ。それから、ファイルを机の上に整えると、私の目を静かに見据える。
「宮崎さん」
「はい」
普段と違う声だった。音響なのかわからなかったけれど、私の何かを狙った鋭い声だ。反射的に私は畏まって、背筋を正してしまう。
その姿を見てか、川たんの表情が緩んだ。
「ごめんなさいね。こんな場所しか用意できなかったの。もしかして、警戒してる?」
「へ? え、あ。はい。」
「まあ、当然よね。生徒指導室ってなんだか警察みたいでしょ。さしずめここは取調室ってところかしら」
ああ、そうか。“そういった目的”で私は呼ばれた訳じゃないんだ。肩の力が抜ける。そうだよね。最近は夜遊びもしていないし、授業中に爆睡することも数えるほどにしかない。出席日数だって問題ないはずだし、少し前にあった春休み明けの実力テストだって、良くはなかったけれど、悪くもなかったはずだ。
あれ? それじゃあ、私はどうして川たんに呼ばれたんだろう?
「そんな取調室だけど、力抜いて。でも、気を抜いちゃダメよ。結構、真面目な話だから」
そう川たんは、ファイルを開いて、私の前でくるりと回す。それに目線を落とせば、私の名前と顔写真がこちらを見ていた。他にも、いくつかの項目が書かれている。今までのテスト結果が並んでいるのには、頭が痛くなった。だけど、川たんが視界の脇から指差してきたのは、何も書かれていない項目。題目を見ると、“希望進路”の四文字が寂しそうにしていた。
「ねえ、宮崎さん。この前の進路調査票、まだ、提出していないでしょ?」
「ほぉ、え?」
進路調査票? あれ? そんなものあったっけ?
私の声が原因か、それとも表情かな。まあ、それはどちらでもいいとして、川たんが深い溜め息をついた。
「宮崎さん。あなただけが提出していないのよ。本当だったら来週から進路指導面談が始まるんだけど、予定が組めなくって、ね。待っていても仕方ないから、呼び出したわけ……なんだけど、まさか、忘れてたりはしないわよね」
ピンポーン。正解。だはは、すっかり、さっぱり、微塵も残さず。です。
「すいません。完全に失念しておりました」
「え、と、それは提出期限を? まさか、調査票の事?」
「存在自体をです。はい」
川たんの眉がピクリと動いた。白い肌のコメカミに、青筋が浮き上がっている。女神川たんの笑顔は三度までだ。これを過ぎれば、女神は鬼神に変貌する。あくまで噂だったのだけれど、あれを見てしまうと、可能性としては、否定できないよね。こ、言葉は選ぼう。
「もういまさら、どうして? とは聞かないわ。代わりに、直接あなたから聞こうかしら。――宮崎さん。これからの進路……、どう考えているの?」
空気が更に張りつめた。私を見る川たんの目が、視線を逸らさない。私はそれから逃げられない。例え逃げるを選択した所で、“しかし回り込まれてしまった”と言葉が追加されるだけで、状況は悪化の一途をたどるだろう。
溜め息も零せない。
“これからの進路、どう考えているの?”
うう、何も考えていません。なんて、言えるはずもないよぉ。