16 迷走三重奏 下
千尋を見送った手を、掛け布団に乗せる。はあ、静かだ。と思った時、保健室の扉が開く音がした。早すぎ千尋。ボルトもびっくり世界記録。と、思ったけれど、違った。保健室に入って来たのは、陣内誠司だ。
彼は、私のベッドに歩み寄ると、一度私の顔を見て、口元を緩めた。
「大丈夫そうだな?」
そう言いながら、彼はこちらにペットボトルを差し出してくれた。それに、私はゆっくり上体を起こす。
「もう、授業終わったの?」
「ああ、もう放課後。ほら、水」
再度伸ばされた腕。もうそんな時間のかと思いながら、私はペットボトルを受け取った。冷やりとする。それが火照った掌の中でキラリと光った。
「あ、ありがと」
冷たくて気持がいい。もう片方の手も添えた。そんな私に陣内誠司は眉をひそめる。
「飲まないの?」
「ううん。もう少しだけ、持ってる」
それに「ふ~ん」と喉を鳴らした陣内誠司は、一度息を吐き出すと、軽く手を挙げた。
「そう。じゃあ、僕はこれで……」
踵を返そうとする。それを私は呼びとめた。
「ちょっと待って」
「何?」
確認したい事があった。それは、私が倒れた時の記憶――そこには、彼がいたはずだ。
「私を助けてくれたのは、陣内君?」
「違うよ。僕じゃない」
「え? 違うの?」
お礼を言わなければと思っていたのに、違うの?
「だったら、誰?」
「知らないよ。僕は君が熱を出して倒れたって聞いたから……」
と、そこで彼の言葉が濁る。視線がそっぽを向いた。継ぎ足されない言葉を、私はからかう様に付け足す。
「お見舞いに来てくれたんだ」
掌で輝く水へ視線を落とし、私は小さく笑う。
「はは、ありがと」
私が最後に見た陣内誠司の眼鏡――あれは幻想だったのかな。私が無理して学校に来た理由。それが、無意識に具現化されたのかもしれない。
「ねえ、ひとつお願いがあるんだけど」
「何?」
「私の小説――読んでくれないかな?」
“小説”と言う単語に陣内誠司に眉がピクリと動いた。
「あれ、もう心変わり?」
「ちょっとね。わからなくなったんだ。私の書いた小説が、面白いのかどうなのかって……」
そう零れた私の心。陣内誠司はひとつ頷くと、笑いながら言った。
「小説を書いてると、誰でもある事だよ」
「でもさ……」
本当にわからなくなってしまったんだ。小説を書く面白さも、楽しさも、そう言った物全てが……。
理由を知りたい。原因を知りたい。価値を知りたい。
「いいよ。読ませてよ。僕の感想でいいなら聞かせてあげられる」
そう言いながら、陣内誠司はパイプ椅子を持ち出し、ベッドの脇に腰掛けた。
「で、その小説――原稿はどこ?」
その言葉に私は携帯を探す。でも制服のポケットには入っていなかった。教室に置いてある鞄の中だ。
「今は、ないの」
「そう、じゃあ、休み明けの月曜日、放課後図書室にいるから……」
「でも……」
できるだけ早く読んで欲しい。聞かせて欲しい。そうでないと私の心はそれまで、このままの様な気がする。
「わかった。僕は明日、市立図書館にいるから、もし、体調が良くなったら持っておいでよ」
そう言いながら立ち上がる陣内誠司。
待って。違う。携帯電話さえあれば、読んでもらえるのに。
「陣内君」と声に出した所で、保健室の扉が開いた。
「瑞穂ぉ。アクエリオン買ってきたよ」
千尋だった。それに気が付いてか、陣内誠司はジェスチャーで“じゃあ”と告げると、何もなかった様に、千尋と擦れ違う。意外な来訪者へ彼女の視線が向いている隙をみて、私はお見舞い品を後ろ手に、枕の下へと隠した。
「ありがとう。千尋」
「はい、アクエリオン」
差し出された青いペットボトル。それを受け取る頃に、扉が閉まる音がした。
「ねえ、瑞穂。さっきまでいたの、同じクラスの子じゃなかった?」
「うん。同じクラスの陣内誠司。保健室の先生に用があったんだって……」
嘘をついた。なんだか千尋に後ろめたかったから、咄嗟に出てしまった。
「ふ~ん」と千尋が私の目を見る。
「な、何?」
「ううん。何でもない」
そう言って笑う千尋。私、何か変な事言っただろうか?
「と、それより瑞穂のお兄さんが迎えに来てたよ。先生に案内されて瑞穂の荷物を持ってくるって」
「え? どうして? 誰か連絡したのかな?」
「そりゃあするでしょ。学校で倒れちゃったら……」
「そりゃあ、そうだけど……」
嫌な予感しかしない。
そして、予感は的中した。
「瑞穂ぉ! 今すぐブラックジャックに診てもらう。お兄ちゃんはいくらでも出すぞぉ!」
黒いスーツと外套――自分でそれに似た格好をしているお兄ちゃんが、目一杯叫んだ。それに私も叫ぶ。
「まず、自分の頭を診てもらえ!」
保健室まで案内してくれたクールビューティ川たん含め、その場にいた全員が引いてしまったのは、書くに値しないかもしれない。