海
粉々にした真珠を敷き詰めたような白い砂浜の向こうには、翡翠色に透き通った海が広がっている。高台にある私たちの小さな家からは、そんな美しい浜辺を見下ろすことができた。お日様が登り、影の色が濃くなる時間帯になると、私たちは決まって砂浜へと降りていって、海と砂浜との境目を一列になって歩いていく。小さな子供二人分の足跡を残しながら、私たちは砂浜を歩き続ける。陽の光をたくさん吸った砂は、肌寒い季節でもほんのりと暖かくて、裸足で歩くと足の裏から心地よい温もりが伝わってくる。時々、少しだけ背の高い波が私たちの素足を濡らし、私たちの足跡を消していった。そのたびに前を歩くアリイは立ち止まり、私の方へと振り返る。そして私たちは、指し示したように一緒に笑い合う。二人の笑い声が波の音に混じって、溶けていった。
砂浜を歩いていると時々、波に打ち上げられた人の死体が見つかる。死体を見つけたら、アリイが砂浜の近くに置いている一輪車を持ってきて、二人がかりでその死体を一輪車の荷台へと乗せる。それから私たちは、少し離れた岬に建っている研究所へと死体を運んでいく。私たちはまだまだ子供で力は弱い。アリイは男の子で私よりもちょっとだけ力持ちだけど、大人の死体だとどうしても重たくって、途中で何度も休憩を挟まなくちゃいけない。それでも私たちは、長い時間をかけて、岬の上の研究所に死体を運んでいく。そして、ようやく研究所に辿り着いた私たちを、受付で働くナオさんはお疲れ様と言って出迎えてくれる。それからナオさんは、内緒だよと笑いながら、こっそり研究所の人たちにしか支給されないココナッツジュースを飲ませてくれる。その間にナオさんは内線をかけて、カイマナさんを呼ぶ。カイマナさんは研究所で働く背の高い男の人で、私たちが砂浜から運んできた死体を買い取ってくれる人。よく来たね。カイマナさんは寝癖がついた髪を恥ずかしそうに右手で誤魔化しながら、いつだって優しく歓迎してくれた。
研究所では、死んだ人間を使って、人間を殺すための化学兵器を作ってるんだって。
私よりもずっと前からこの場所に住んでいるアリイが、少し前にそう教えてくれた。人間は放っておいてもいつか死んじゃうのに、どうしてわざわざそんなものを作るんだろう。その話を初めて聞いた時、私はそんなことを思った。でも、私はこの研究所のことは嫌いじゃない。ナオさんとカイマナさんはいつも私たちに優しくしてくれるし、砂浜に負けないくらいに真っ白に塗られた研究所の壁は、澄んだ空の青によく映えて綺麗。研究所がある岬から海を眺めると、ずっと遠くの水平線で、空と海が一筋の青い線になって溶け合っているのが見える。時々私たちは岬の真下にある砂浜で綺麗な虹色模様の貝殻を探して遊ぶ。凸凹した貝殻を太陽に透かして見ると、色んな色彩の光が貝殻の中で反射して、万華鏡を覗いているようだった。日が暮れる前には私たちのポケットは貝殻でいっぱいになっていて、仕事終わりのナオさんに帰りなさいと諭されて、ようやくお家へと戻る。疲れて家に帰った私たちは、小さなベッドで身を寄せ合って眠る。先に眠るのはいつだってアリイで、私はアリイの寝顔を見つめながら眠りにつく。
眠る時はいつだって、波の音がする。それはまるで、生まれてくる前にずっと聞かされていた子守唄みたいだった。
私たちが住む場所では時々雨が降る。私は雨が嫌いではない。研究所に遊びに行けない代わりに、私たちは家の中でラジオを聴く。ノイズ混じりの音声が、雨粒が屋根にぶつかって弾ける音と混じる。ゴミ捨て場から拾ってきたラジオはお店で売っているような最新式ではないけど、今日みたいな雨の日に退屈を紛らわしてくれる素敵な宝物。流れてくる放送は大体が戦争に関することだったけど、こうして私とアリイ以外の人の声を聞いているだけで、不思議と孤独は和らいでいく。
『────空襲があったオーバニ市では、市民による救助活動が現在も続けられており、軍の発表によると死者数は昨日から6人増えて18 人、負傷者数は200人以上とされています。また、現地では現在12名の人々が未だ行方不明のままとなっています。現在行方不明となっている方々は、次の通りです。カリア・アカナさん、54歳女性。カリア・アオさん、23歳女性。カリア・ヒデュさん、19歳男性。ハオア・グランデさん、43歳男性。オオサキ・トシゴさん、67歳男性。オオサキ・リオナさん、32歳男性。ロークア・リコさん、22歳女性。カプル・ヒューゴさん、32歳男性。カプル・マイクさん、31歳男性。カプル・リーノちゃん、7歳女の子。カプル・イオくん、5歳男の子。マヒアイ・ライキさん、55歳男性。また、現在我が国軍が占領に成功した敵国オービア地域では、民間人に扮した敵獄兵士の掃討作戦を開始しており、そこでは我が軍が長年にわたって研究を続けてきた化学兵器の使用が────』
以前は色んな放送が流れていたラジオのチャンネルは一つずつ消えていって、音楽や明日のお天気の話よりも戦争に関するニュースの時間が多くなっていく。ラジオで流れてくる戦争の話は私たちがいる場所よりもずっと遠い場所の話だけど、それでもこの世界のどこかで誰かが死んでしまったという話を聞くと悲しい気持ちになる。なんで悲しい気持ちになるんだろうと考えてみたら、それはきっと死んでしまった人が生き返ることは決してなくて、その人たちはこれからもずっと死んだままでいるからなんだと私は思った。ずっと死んだままでいる人とはもう二度と会うことはできない。そのことを考えるとなんだか胸の中がきゅーっと締め付けられる。
「娘がずっと前に使っていたものなんだけどさ、いるかな?」
ある日、研究室に死体を持って行った時、カイマナさんが私に小さなカメラをくれた。ありがとうと私がお礼を言うと、どういたしましてとカイマナさんが嬉しそうに笑った。そんなカイマナさんの表情を見て、カイマナさんは私にカメラをあげた側なのに、どうしてそんなに嬉しそうな顔をするのと私は尋ねる。するとカイマナさんは、またさらに楽しそうに笑って、大人になったらわかるよと私の頭を優しく撫でてくれた。
撮れる枚数には限りがあるから、本当に大好きなものだけ撮るといいよ。カイマナさんがそう教えてくれたから、私は大好きなカイマナさんとナオさんを写真に撮った。カメラはその場で写真を現像してくれるタイプのもので、1分もしないうちに、二人が穏やかな表情で笑っている写真ができあがる。私が浮かび上がってくる写真を見ていると、少しだけ強い風が吹いて、写真が手から離れていく。アリイとカイマナさんが風に飛ばされていく写真を追いかける。だけど、運動不足だったカイマナさんは、足がもつれて転んでしまい、あららとナオさんが笑いながら駆け寄っていく。捕まえた! アリイが飛ばされて行った写真を高々と振り上げ、よく通る声が青い空へと吸い込まれていく。アリイが右手に掴んだ写真が陽の光を反射して、小さく瞬いた。
岬に建つ研究所に、王室の紋章が貼られた沢山の車がやってきたのは、ラジオから戦争に負けたというニュースが流れてから、三日後のことだった。私たちは研究所から離れた場所からその様子を眺めていると、中から沢山の職員がそれぞれに荷物を持って外へと出てきて、慌ただしく研究所の前に停まっていた車へと乗り込んでいくのが見えた。ナオさんとカイマナさんがその中にいたのかはわからない。だけど、しばらくしたら研究所から出てくる人がいなくなり、車が一台、また一台と研究所から走り去っていく。そして、それと入れ替わるように、研究所のあらゆる窓から黒灰色の煙が漏れ出していくのが見えた。煙は瞬きする間にどんどんと勢いをましていき、次第に煙の中からも目が覚めるような鮮やかな色をした炎が噴き出していく。
綺麗。私は燃え続ける研究所を見ながら、なぜかそう思った。翡翠色の海と澄んだ青空を背景に、空へと登っていく黒とオレンジの煙。全てが鮮やかで、水で薄めていない絵の具で描いた絵画のようだった。私とアリイは何も言わずにその風景を見つめ続ける。耳を澄ませば、波の音に混じって、火柱が爆ぜる音が聞こえてきた。
研究所はそれから何日もの間燃え続け、ある朝目覚めたら、いつの間にか火は消えていた。私とアリイは真っ黒に焦げた研究所へ訪れてみた。岬のうえには剥き出しの鉄骨と、消し炭だけが残されていて、時折風が吹いて、黒い灰が花びらのように空を舞っていく。カイマナさんとナオさんがどこに行ってしまったのかはわからない。ひょっとして死んでしまったのだろうか。私の頭にふとそんな考えが思い浮かび、泣きそうになる。アリイは、軍が証拠隠滅のために研究所を燃やしただけだから、きっと二人は無事だよと私を慰めてくれた。それでも今までみたいに好きな時に会えないことは変わらない。そのことを考えるだけで私は、とても悲しくなる。
私は研究所の焼け跡を、カイマナさんからもらったカメラで写真に収める。この景色が大好きだということでは決してなかった。ただ、今この瞬間見ている景色を写真として残しておかなくちゃいけない。そんな気がしたから。
戦争が終わって、研究所が焼け落ちて、ナオさんとカイマナさんがどこか遠く行ってしまっても、私たちの毎日は続いていく。空と海は変わらずに美しかったし、戦争中だった頃よりも頻度は落ちたけど、波打ち際には今でも人間の死体が打ち上がる。結婚式を挙げよう。ある日、アリイは私にそんなことを言った。結婚は大人にならないとできないよと私が笑って言うと、アリイは腕を組んで考え込んだ後で、結婚はまだできなくても、結婚式はできるでしょと屁理屈を返す。
結婚式は私たちのいつもの砂浜で挙げた。聞きかじりの知識しかなかったし、牧師さんもいない。結婚式というよりかは、結婚式ごっこと呼ぶ方がずっと相応しい。一通り真似っこをした後で、永遠の愛なんて大袈裟だねって二人で茶化し合い、それから海と砂浜の境界線を一列に並んで歩き出す。時々、少しだけ背の高い波に足を濡らしながら。時々、波打ち際の死体を跨ぎながら。
結局やってることはいつもと変わんないね。私が前を歩くアリイに話しかけると、アリイは振り返って、永遠の愛ってそういうもんでしょって戯けたように笑う。私も笑いながら、アリイの笑った顔をカメラでパシャリと撮る。逆光だったせいで、撮った写真は全体的に暗かった。だけど、アリイのどこか照れ臭そうな笑顔は、一枚の写真の中で太陽の光に負けないくらいに輝いているような気がした。
カメラで撮った写真は私たちの家の壁に貼るようにしていて、今では、家の中は私たちの思い出でいっぱいになっている。そして、その写真を眺めがら、私は思う。世界を構成する一つ一つはこんなにも優しくて美しいのだから、この世界は少しずつ良くなっていく。きっとね。
空は今日も青く澄んでいて、翡翠色の海はガラスのように透き通っている。机の上に置かれたラジオからは、最近放送が再開した音楽番組が流れてくる。そして、私とアリイがラジオに耳を近づけて音楽を楽しんでいると、誰かが家のドアを優しくノックする音が聞こえてくる。少しだけ間が空いた後で聞こえてくる、男性と女性の話声。聞き覚えのあるその声に、私とアリイはお互いに顔を見合わせる。
アリイが笑って、それから私も笑う。アリイがドアへと駆け寄っていく。私は代わりに、机の上に置いていたカメラを持って、ファインダーを覗き込む。指先でシャッターボタンにそっと触れ、カメラのレンズをドアの方向へと向けた。
悲しいことが一つもないわけじゃないけど、楽しいことだって一つもないわけじゃない。私は頬を緩ませながら、アリイがドアを開けるのを待つ。アリイがドアを開ける。そしてそのタイミングで、私はカメラのシャッターボタンを押した。
カメラのレンズ越しに写っていたのはもちろん、綺麗な海と空と、それから、私の大好きな三人の姿だった。