新設と開催と
加速する近代化に向けてレースの内容などが考慮されて行きます。
ではここで少しレースの歴史(第二次世界大戦前後)を振り返ってみましょう。
※私自身が記憶している限りなので、抜け等があるかもしれませんがその辺はご容赦ください。
1937年12月7日 第1回 帝室御賞典(のちの天皇賞)開催。この当時はまだ天皇賞とは呼ばれていません。1905年に横浜の日本レースクラブが明治天皇から菊花御紋付銀製花盛器を下賜されました。それを基に「The Emperor’s Cup」を創設。
翌年に東京競馬倶楽部に、その後も各地の競馬倶楽部に御賞典が下賜され、帝室御賞典競走として施行されています。
日本競馬会の設立を機に各地の帝室御賞典競走をとりまとめ、春は阪神で秋は東京で開催と年二回開催されることに。これが近代まで続く天皇賞(春・秋)の原型です。
なお天皇下賜の賞品が最初に授与された競走は1880年6月9日に横浜競馬場で行われた「The Mikado’s Vase」という名冠のついたレースで、天皇賞の呼称となるのは1947年秋から使用されることになります。
帝室御賞典(のちの天皇賞)開催の翌年、1938年11月23日 第1回 阪神優駿牝馬が新規開設。1943~1945年まで京都、1946年からは東京で開催となります。そして東京で行われるようになると冠名に付いた「阪神」が無くなり今の名称「優駿牝馬」でオークスと表現されるようになりました。
同年1938年12月11日第1回 京都農林省賞典四歳呼馬(菊花賞)を新設開催。1947年までは全記載の名称で開催され、1948年より菊花賞という名称に変更されました。
因みに日本競馬の最高峰である日本優駿(日本ダービー)と共に皐月賞・菊花賞をあわせて三冠と呼称しますが、起源は英国競馬である英国2000ギニー・英国ダービー・英国セントレンジャーを模したものであり、距離が皐月賞だけ違いますがレース体制等は英国流にしているのです。
1939年第1回 中山四歳牝馬特別(桜花賞)開催。第1回は中山芝1800mでの開催。1947年に桜花賞に改称し京都の1600mで開催されるようになります。
前述三冠戦の2レースに遅れる事、1939年4月29日第1回 横浜農林省賞典四歳呼馬(のちの皐月賞)が新設されます。第1回は横浜競馬場で芝1850mで開催。その後いろいろありまして現在の中山芝2000mの形式になったのは1950年からです。
そして時代は戦争へと向かう流れへと傾いていきます。
1941年 セントライトが初の三冠を達成!! このセントライトは小岩井農場生産馬。父馬は英国のクラシックホースとして初めて輸入されたダイオライトで、母馬も英国からの輸入馬フリッパンシー。通算12戦9勝。菊花賞の前哨戦は68kgの斤量を背負い2着に敗れているんです。
今から遡る事1943年6月6日 クリフジがダービー制覇しました。
このクリフジは下総御料牧場生産で、セリでは当時のダービー1着賞金の4倍の値(4万円)で落札された期待馬です。11戦全勝、うち7戦で着差10馬身以上をつけた圧倒的強者。ダービーは大きく出遅れての6馬身差、オークスは10馬身差、菊花賞は大差の変則三冠。
そして近代ではクリフジの次に牝馬でダービーを制するのは64年後のウオッカです。騎乗した四位騎手と共に一躍有名になりましたよね。
私個人的にはライバル牝馬ダイワスカーレットとの勝負も見たかったですけど……。
1949年12月3日 第1回 朝日杯3歳ステークスが開催。現・朝日杯FS。関東の2歳王者決定戦として開催しており近代の開催までは関東所属馬にとっての王者決定戦でした。朝日新聞社がスポンサーになったのを契機に、他の新聞社の社杯が次々と新設されていきます。当時は新聞社が付くことは珍しい事じゃありませんでした。
現行の開催でも新聞社がレース名に冠しているモノがありますしね。
同年の1949年12月18日第1回 阪神3歳ステークスが開催。こちらは現・阪神JFです。関西の2歳王者決定戦として王者を決める激戦を繰り広げました。
この上記2レースは牡馬牝馬に限定せず、どちらの性別でも出走が可能でした。
遅れる事、1951年7月1日 第1回 安田賞(安田記念)。冠の安田とは、競馬法制定に尽力したり東京優駿(日本ダービー)の創設などに功績のあった、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門氏に由来しています。
参考資料
書籍・文献
岩崎徹 『馬産地80話』 北海道大学出版社 著者 岩崎徹
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)