出る杭はなんとやら
まだまだ始まらない( ノД`)シクシク…
東京競馬会の成功に続けと日本各地で公認競馬を開催しようとする動きが起こり始めます。
ソレにより社団法人の設立申請が相次いで、東京競馬会の役員は準備不足による混乱を危惧し認可は慎重に行うように進言したが認可を乱発いちゃいます。
この辺りの事は詳しくは分からないのですが、軍馬育成と共に国に入る金額が莫大になるためにある程度の軍備拡張資金目当てではないかと推測はできますが、いかんせん資料的にそんなに詳細が書かれているわけではないので私個人の憶測の域を出ません。
これを受けて翌1907年(明治40年)と1908年(明治41年)には札幌・函館・川崎・板橋・目黒・松戸・藤枝・新潟・京都・鳴尾(鳴尾東浜と鳴尾西浜の2つも含む)・小倉・宮崎に競馬施行を目的とする社団法人が相次いで誕生しました。
(なお栃木県小山にも公認が与えられたのですが、直後に馬券が禁止されて開催実現はししませんでした)
先行する横浜、池上にこれらを加えて1908年(明治41年)には全国で15か所の競馬場で競馬が行われるようになります。
政府は馬券発売による風紀の乱れを心配し、入場料、馬券とも高額に設定させた。
高額な入場料を払えるのは上流階級に限るだろうという目論見と、したがって競馬場は上品な場になるだろうと考えたのでした。
社交場的な意味合いを含めたためではないかとも思いますが。
しかしそうした団体では競馬運営を熟知した者が不足し、一部では営利主義に走るものも出て馬券の配当金の計算がおかしいとか八百長といった騒動が連日頻発、紳士淑女を集め上品な場になるはずの競馬はあっという間にや〇ざ者が出入りする柄の悪い場所へと成り下がっていきました。そのため、競馬排斥論が世論の中心となってしまったのです。
当時の馬券の発売は前述のように政府の黙許に拠っており法的根拠はありません。
各競馬倶楽部に政府の馬政官が派遣され監督をしていた。1908年(明治41年)9月、馬券禁止の強硬派であった時の大臣が神戸地裁検事に命じ馬政局に無断で鳴尾競馬の馬券販売主任者を賭博容疑で検挙。ついに逮捕者が出てしまった事で世論はこれを支持し、新聞は競馬撲滅論を書きたてます。
驚いた競馬関係者は首相に直々にあたって政府の方針を問いただし一度は競馬開催と馬券発売の黙許継続の確認を得ましたが、10月5日になって突如馬券発行禁止の閣令が発せられました。
ここまで東京競馬会の認可より僅か2年の出来事。
この競馬が開催されていた僅か2年を馬券黙許時代という名称でよばれています。
※これは競馬史にもしっかりと掲載されています。
参考資料
図書
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)