国際化へ
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2000年に入りまず変わった事とは外国産競走馬の出走条件の緩和が挙げられると思います。それまでも外国産馬は多くいましたが、日本競馬界のしきたりと言いますか思惑と言いますか良くも悪くも「日本産馬至上主義」な時代で、日本国内でのレース出走条件等は厳しく管理されていました。
しかし海外へ遠征に出て好走する競走馬たちを見ると、そんなレベルの高い競走馬と共に切磋琢磨しなければ国内産馬のレベルも上がっていかない。そんな意見もちらほらと聞かれるようになってきていました。そしてついに外国産馬の天皇賞出走可能 (2頭まで)という限定的ではありますが緩和されます。
同年5月6日に関口房朗氏が日本人オーナーとしてケンタッキーダービー初制覇の快挙を成し遂げます。関口房朗氏は株式会社メイテックの創業者で競走馬に付ける冠名は「房朗が一番」を意味する事でも知られています。しかも当時セレクトセールでは高額で落札をおこなう常連だったという事で時代を築いた一人と言えるのではないでしょうか。馬主としては1996年の日本ダービーをフサイチコンコルドで優勝。ダービー馬のオーナーにもなっています。
記述してある通り、1998年にキーンランド・ジュライセールで400万ドル(当時レートで約5億5000万円)で落札したのがミスタープロスぺクター直仔のフサイチペガサスで、5戦4勝にて臨んだケンタッキーダービーを1番人気に応え制しました。
アジア人として初の米国ダービーオーナーとなった。このフサイチコンコルドは引退後にクールモアスタッドに種牡馬の権利を80億円越えで売却したと報道されました。
因みにこの関口氏の競走馬には、当時雑誌にて競走馬の名称を公募するという企画がありまして、数多くの応募があり、その中からつけられた競走馬が無事に引退まで走り終えたというエピソードもあります。
更に同年、アグネスワールドが英スプリントG1ジュライCを優勝。日本調教馬として初の英G1制覇となった。アグネスワールドは外国産馬、国内の実績はスプリンターズS2着2回、CBC賞-G2など。前年に仏スプリントG1アベイ・ド・ロンシャン賞を優勝しており、海外での2つ目のタイトルとなった。通算中央15戦5勝、地方1戦1勝、仏英米で4戦2勝しています。
この年は国内でも話題性が多い競走馬たちがいまして、その中の一頭テイエムオペラオーが国内古馬中長距離G1全制覇という偉業を成し遂げています。現代でいうところの古馬三冠 (自分だけが呼称していますが)の先駆けではないでしょうか。
翌、2001年より馬齢表記の満年齢へ変更がなされます。この変更は国際表記に合わせることによる数え年と満年齢との表記の誤解を防ぐため。この考え方 (年齢の数え方)は現在でも存在していますよね。東アジア諸国では古くから数え年が用いられてきたもので、日本では1902年の法律で満年齢を使用することとしたが、一般に普及するのは戦後になってからです。
例:旧4歳馬は新3歳馬。旧表記時は3歳でのデビューでしたが新表記からは2歳からデビューなど。
同年より外国産馬のダービー出走可能(2頭まで)となりました。この条件もまた細かい規定がありまして、ダービートライアル戦に出走し尚且つ勝つ、または上位に入ることが前提条件となっていました。そして出走登録時に篩にかけられる仕組みです。上手く条件が説明できていませんが、「あぁ、トライアルに勝たないとでられなかったんだぁ」的な考えで大丈夫です。もちろんダービーに出走登録していないと出られません。
同年の2001年10月31日、地方競馬にて祭典的レースの第1回 JBCクラシックが開催されました。元々このJBCクラシックは米国BCに倣ならい、地方競馬場の持ち回りでの開催が計画されていました。
翌年、2002年ファンを悩ます馬単・3連複 の発売開始。
2003年に安藤勝己氏が地方出身騎手としてはじめて中央競馬に移籍を果たしました。野球やサッカーなどの移籍とは違い、騎手の場合はJRAの試験をパスしなければ移籍はできません。
同年、全レースが全国発売対象になりました。それまでは開催競馬場では全レース、場外販売所やオッズパークなどでは重賞競走のみの販売でした。
2003年6月1日、ミルコ・デムーロ騎手騎乗のネオユニヴァースが第70回のダービーを優勝し、外国人騎手によるダービー初制覇が成し遂げられました。
参考資料
図書
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
雑誌
週間競馬ブック
週間競馬エイト
勝馬
優駿
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)
JRA-VAN




