移り行く時代
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1987年、それまでの発走時に使用していたファンファーレを一新し現在の楽曲になりました。東日本G1の作曲者はすぎやまこういち氏(代表曲・『ドラゴンクエスト』など)、西日本G1の作曲者は宮川泰氏(代表曲・ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』など)。
1987年3月1日、騎手界にスターが舞い降ります。武豊氏がデビューしたのです。祖父は馬主協会元会長、父は元騎手(八大競走8勝)で調教師というまさに競馬界のサラブレッド。
騎手デビュー年から69勝をあげ、2年目の菊花賞で初タイトル、3年目には全国リーディングを制した。若き天才として脚光を浴び、オグリキャップとともに競馬ブームの中心的存在として、その名は全国の競馬に関心のない層にまで知れ渡ったことで未だに根強いファンも多い。以後も第一人者として各種記録を塗り替え続ける競馬界のレジェンドです。
1987年から主催がJRAに変更される形でJRA賞(年度表彰)が開始。
そして1989年、時は平成元年。
1990年5月27日、ダービー当日、東京競馬場には19万6517名の入場者が競馬場に訪れダービー、中央競馬史上最高の入場者数になりました。因みにこの年の勝ち馬はアイネスフウジンです。
1990年12月16日、それまでG2だったスプリンターズSが格上げされ、初のスプリントG1になりました。スプリンターズSは1967年に中山競馬場芝1200mのハンデ重賞競走として創設。当時は3歳以上が出走できる唯一のスプリント重賞。グレード制導入時にG3、3年後にG2に格上げ。昇格初回はバンブーメモリーが優勝を飾って初代王者になっています。
1990年12月23日、爆発的な第二次競馬ブームを巻き起こした主役、オグリキャップがラストランを飾りました。
オグリキャップは地方競馬の笠松でデビューし12戦10勝の戦績を引っ提げ、中央に移籍。重賞を勝ち続けるがクラシック登録がなく皐月賞、ダービーには出走できませんでした。中央通算20戦12勝、主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルCS、安田記念。
G1連闘など話題には事欠かず、武豊を背に「奇跡の復活劇」を遂げたラストランの有馬記念では、ウイニングランで割れんばかりのオグリコールが鳴りやむことはありませんでした。ファンならずともその雄姿を惜しむ声が多く、近代になった今もなお何かと世間に名前が上がったりしています。
このオグリキャップですが、当時はとてつもない人気で、今では普通に売られている競走馬ぬいぐるみなどの元祖とも言われています。そのぬいぐるみを抱えて競馬場に訪れる方も多くみかけられました。人気と同時に本になったり、小説や漫画になったりと競走馬をモチーフにしたメディアミックスの先駆けといっていいかもしれません。
1991年1月から降着制度が導入されました。それまで進路妨害などがあった場合は、加害馬は一律に失格処分。しかし実際の運用は失格が頻繁に認められるのを避けるため、騎手への制裁にとどめることが多かったのです。これにより乱暴な騎乗が目立つようになり、また失格になった馬は馬券外となることから競馬界で改善が求められていたものを、基準化し制度として取り入れることになったのです。
家庭内にも競馬の波がおしよせました。1991年にファミコン版ダービースタリオン全国版発売!!
家の中で最強場を飼育、調教し、レースに出走させ勝ち負けに一喜一憂された方も多いのではないでしょうか? 現役競走馬の名前が違うという愛らしい仕様で、ライバル馬であるのにも関わらずどこか憎めないなぁと、当時の自分には思っていた記憶があります。
参考資料
図書
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
雑誌
週間競馬ブック
週間競馬エイト
勝馬
週間ファミ通
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)




