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誰かの為になれ!! 日本競馬の歴史とお馬さん達  作者: 藤谷 K介(武 頼庵)
第1部 第2章 続く道の先には近代競馬へ
13/31

待望の関東

訂正などございましたらメッセージ機能にて!!


(1)シリウスシンボリ×

   スピードシンボリ〇

   訂正しました。

 

 1969年10月5日、先輩を追いかけるようにスピードシンボリが凱旋門賞出走しました。凱旋門賞はフランス競馬最高峰です。その欧州を代表する競走に日本馬が初出走を果たしました。

前述した二頭の海外挑戦は海外グレードレースでも格が下のレース。しかもこのスピードシンボリシンボリは米国国際レースに招待されるなど実績は十分にありました。


 スピードシンボリは4歳で天皇賞春を制し、秋にはアメリカのワシントンDC国際に招待され5着。6歳時に欧州遠征に臨みキングジョージ&クイーンエリザベス(5着)、ドーヴィル大賞典(10着)、凱旋門賞(10着)と出走。勝てはしませんでしたが、日本馬の国際的位置をはかるいい判断材料になりました。

帰国初戦の有馬記念を優勝。翌年も現役を続け、宝塚記念と有馬記念を勝ったんですよね。国内通算39戦17勝しています。


 まだまだ日本競馬は世界に比べて遅れていることを痛感させられる結果になったっことでしょう。


 1971年には許可制であったものが自由化され馬の輸入自由化が始まります。内国産馬振興のため、増えると予想された持ち込み馬(海外で種付けされ日本で生まれた馬)は外国産馬と同等の扱いを受けることになり、この制限は1983年まで続く。ここでは詳しくは記述しませんが、この措置は三歳馬の式典である三冠クラシック (牡馬・牝馬)ともに出走権が与えられなかったことを意味します。

一昔前までの日本競馬はクラシック戦線は日本馬のためのモノという外聞があったのでした。


 1971年、JRAの機関紙「優駿」に主催変更され優駿賞(年度表彰)はじまります。競馬場のショップや書店などでもこの雑誌は取り扱いされているので、お馬さんが表紙の雑誌を見た事がある方もいらっしゃるのではないでしょうか?


 この1971年には世界競馬界にも新たな試みが施行されます。それが欧州で競走の格付け制度(グループ制)が創設・施行です。この制度はパターンレース(毎年同じ条件で「重ねて」行われる競走→「重賞」の由来でもある)について格付けし施行することによって競走能力を上げていくことが目的。

 競走馬の流通がひろい地域で行われるようになり、主にセリの際にその馬の父や母が残した競走成績について、そもそもどのような競走であるのかを格付けをする必要がありました。優秀な遺伝子を後世に残していくためにはその競走馬がどれほどの戦績を残しているのかという指標がもたらされたわけです。北米でも、1973年からグレード制がはじまる。


 ついにアイドルホースの誕生!!

 1973年4月15日、ハイセイコーが皐月賞を制覇します。

 ハイセイコーはファンにはご存じ第一次競馬ブームを巻き起こした国民的アイドルホースです。皐月賞の勝利で、競馬以外のメディアでも盛んに扱われるようになり、NHK杯では東京競馬場になんと16万を超える入場者が押し寄せました。


 このブームが競馬という「賭け事」から「大衆娯楽」へと見方が変わったきっかけともいわれています。

 

 実はこのハイセイコー、地方の大井競馬場でデビューし6連勝後、中央競馬へ移籍しました。つまり最初から全国的な人気だったというわけではありません。

しかし移籍当初から大きな注目を集め、弥生賞、スプリングS、皐月賞、NHK杯(この時はまだG2芝2000m)と勝ち進み、のちのスター地方競馬出身としては異例のダービーで史上最高の単勝支持率66.6%%の1番人気に支持されました。

 残念ながらダービーは3着に敗れるものの人気はむしろ高まり、アイドルホースとしての歩みを始めたのです。


 1973年6月、自動馬券発売機が運用開始。しかしもちろん窓口による手動販売も並行で運用されていました。1976年10月には現場に行かなくても勝馬投票券が買えるようにとの案が採用され、電話投票制度が運用開始されます。


 1976年11月21日、第1回 エリザベス女王杯が開設・開催されます。この冠名レースは1975年にエリザベス2世(現英国女王)が来日したことを記念し創設されました。

 このことを知っている方がどの位いらっしゃるかわかりませんが、このエリザベス女王杯の前身は牝馬限定の重賞ビクトリアカップです。ビクトリアカップも中央競馬における3歳牝馬三冠競走の最終戦に位置づけられており条件に変更はありませんでした。(牝馬クラシック三冠の最終戦的な立ち位置)


 1977年9月に自動券売機等によって起こる怪間違いを、窓口の担当者によって清算ないし買い替えることを廃止しました。


 そしてついに1978年、関東に待望の美浦トレーニングセンターが開場します。関東地区の厩舎に所属する馬の調教は、それまでは東京競馬場と中山競馬場、白井の拡張厩舎街(いまの競馬学校の所在地)でおこなわれていましたがこのトレセン開場によりその施設などが一か所集中移動することになります。


 1968年に美浦村が候補地に選定されていたのですが、栗東トレセン開場に比べ美浦開場に月日がかかったのは、一説によるとトレセン用地買収に時間を要したためといわれています。


参考資料


図書

日本競馬史   著者 日本中央競馬会総務部調査課 編



雑誌

週間競馬ブック



インターネット

Wikipedia 競馬の歴史(日本)

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