毛色もばっちり!!
高度成長期は凄い!!
高度成長と共に一般家庭において電気製品化の波が押し寄せていたこの頃の日本。ついに1959年4月5日フジテレビが競馬中継を開始しました。
開局直後のフジテレビが競馬中継をはじめましたが当初は中山競馬のみで、東京競馬はNETテレビ(現テレビ朝日)が中継していました。京都競馬、阪神競馬は関西テレビが関東圏に先駆ける事1959年3月29日から中継をしています。そして今もなおフジテレビは競馬中継がメインの番組放送を行っています。
世間に電子化の波が訪れていたこの時期、競馬場でも1960年ウッド式発馬機を導入します。この設備は現在のスタートゲート。初期は旗を振ってスタートの合図をしていたんです。これは現在の競馬場でもその名残というか、スタート前などに専用車両にて旗を振る場面にて見かけることが出来ます。
この旗振りスタートから始まり、1926年からは濠州式バリヤーという、綱をコースの内外にわたしバネで斜め前上方にはね上げるものを使ってスタートを切る方式を採用していました。1975年に電動式発馬機に代わり、以後も改良が続けられ現在に至っています。
有馬記念に遅れる事、1960年6月26日第1回 宝塚記念が新設開催されます。関西地区の競馬を盛り上げようと、上半期の締めくくりの競走として創設され、有馬記念と同じくファン投票が採用されました。
それまでは前述した8大競争がビッグレースの代表格であり、関西地区での同格レースが少ないことから有馬記念と同じ投票方式によって選出された競走馬による前半戦のメインイベントとしての位置づけがなされました。
因みにですが、有馬記念・宝塚記念共に選出されたからって必ず出ないといけないわけではありません。辞退ももちろんできます。その場合はゲート数に合わせ順次繰り上がりにより選考・選出・出走確定が行われて行きます。
1964年2月、東京競馬場に中央競馬初となるダートコースが新設されました。それまでは芝コースのみでした。
これも勘違いしておられる方がいらっしゃると思いますが、JRAに運営が変わった当初からすでに芝コースがメインでした。これは日本競馬が模倣していた海外 (欧州)が芝メインのレースしか行っていなかったからです。当時の日本競馬界隈では米競馬ではなく欧州が本場として考えが広まっていたのです。米競馬は逆にダートコースがメインなので、もし英国式競馬を模倣せず、米国式を模倣していたなら今の日本競馬はダートレースがメインだったかもしれませんね。
1964年1月に場内テレビでオッズと馬体重の発表を開始します。それまでは馬場ないしパドック等にしか掲示・表示されていませんでした。
1964年 名馬さんでご紹介したシンザンが三冠を達成します。詳しい内容はあえて記述しませんが、ご興味のある方はこの一つ前の話数にてご確認ください。この後、シンボリルドルフが登場する1984年まで20年にわたり「シンザンを超えろ」「シンザンを倒せ」の合言葉で日本競馬界の目標であり続けました。
1965年3月、第2回中山競馬から自動タイム計測装置を採用を開始。それまでは人力です。
この1965年という年は競馬会に大きな事件が襲い掛かります。「八百長、山岡事件」と呼ばれる事件で、現在に至る中央競馬史上最大の不正事件。八百長に加担した中央競馬の騎手計4名が起訴され有罪となってしまいました。
これにより競走結果だけではなく競馬に携わる関係者とファンの間に不信感が広まってしまったのです。時間と共にその不信感は払拭されて行きましたが、完全になくなるまでには途方もない時間がかかったのでした。
栗東トレーニングセンター開場!!
1967年に通称トレセンが開場しました。競走馬の厩舎はもともと各競馬場に分散して構えられていたんですよ。なので競走馬はその競馬場の所属という扱い。ただし、関東か関西の所属という概念はありました。
競馬場は競馬を開催する場所であり、競走馬が生活し調教も行う場所でもあったという事です。しかし高度成長期に入ると、競馬場周辺の市街化が進んで家屋など宅地が広がっていき競走馬を飼育管理に適さなくなっていきました。また競馬人気も相まって競走馬の頭数も増加し手狭になったこともあり、競走馬の管理・調教に特化した施設をつくることとなったのです。
関東の美浦トレセンより先に関西ができたんですね。
進化はとどまらず!!
ついに1967年12月24日有馬記念の中継がカラー放送になりました!!
え? それまで? もちろんモノクロ画質ですよ。
参考資料
図書
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
雑誌
週間競馬ブック
週間競馬エイト
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)




