終戦からのぉ~
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あんまり記憶力に自信がないので(´;ω;`)ウゥゥ
戦後復興から高度成長期へ向けていざ前進!!
1954年、日本競馬会は戦後GHQに独占禁止法の指摘を受け解散しました。そのあとに前述した国営競馬を経て現在の特殊法人日本中央競馬会(JRA)が設立されます。同年に競馬予想紙(競週ニュース、ケイシュウNEWS)を発行していた啓衆社が競走馬を称えるための賞として設立したのが啓衆社賞(年度表彰)。これにより様々な賞が競走馬に授与されそれまで以上に競走馬としての価値を上げていきます。
1956年、日本短波放送による中央競馬実況中継放送開始。所謂ラジオ放送ですね。同年年末に第1回 中山グランプリ(有馬記念)が初開催されます。中山競馬場に新スタンドが建設され、多くの来場者を迎え入れる準備が整った暮れの中山競馬の目玉として中山グランプリが新設されました。
始めて競馬ファンによる投票により出走馬が選出する方式が採用された。この中山グランプリは第1回のみその呼称が用いられます。その後に創設者のJRA理事長、有馬頼寧氏が急逝。時期が近かった事と有馬の功績を称え2回目から有馬記念に改称。この有馬記念の創設により八大競走(クラシック、天皇賞、有馬記念)と呼称されるビッグレースが出揃うことになります。
ここから後年は細かいルール改定などが出始め、ヘルメットと枠順による色別帽を着用するなど判りやすいようにとの配慮が加えられていきます。
1957年12月には中山競馬場で勝馬投票券発売集計器『トータライザー』を導入。競馬場に足を運んだ経験がある方なら一度は見た事があると思いますが、オッズ等が掲示されているあの表示板の事です。それまでは黒板に勝ち馬投票の売上高を掲示していたが、トータライザーにより集計された売上高を人為的に電動掲示板に掲示するようになった。更にコンピューター管理がなされるのは1966年以降のことでまだ少し先です。
1959年9月にタイム表示を10分の1秒単位に改修。それまで従来の表示は5分の1秒単位。より細かな走破タイムが表示されるようになりました。
1958年、近代競馬ではもはやスタンダードに定着した衝撃のモンキー乗りを保田騎手が披露し、競馬会に衝撃を与えました。ハクチカラの主戦としてアメリカ遠征に向かった当時38歳の保田騎手は日本では天神乗りという騎乗法が一般的だったところ、現地でモンキー乗りをする海外騎手に影響を受け、それを習得。
モンキー乗りとは鞍に腰を下ろさず、短くした鐙 (あぶみ)の上に立ち、腰を浮かせて背を丸め、膝でバランスを取りながら前傾姿勢で騎乗する騎乗法です。現在では競馬学校に騎手過程として入学した学生の方は、その過程の中で習得が必須なまでにスタンサードになっています。
翌1959年2月23日、その保田騎手と共に海外遠征に出ていた相棒ハクチカラが日本調教馬として初の海外重賞制覇を成し遂げます!!
ハクチカラは日本ダービー、天皇賞秋、有馬記念などを勝ち、国内32戦20勝の戦績の後、5歳から長期のアメリカ遠征に赴いていました。日本馬の初めての欧米地域への遠征であり、JRAが遠征費を一部補助したほど期待して送り出したのです。
そのレースはワシントンバースデイH(芝2400m)。ブービー人気ながら2着馬にクビ差で制しました。ワシントンバースデイHはその後サンルイスオビスポHと改称され、1973年にはグレード制導入に伴いG2に格付けされますが現在は廃止。同格での呼称レースが復活するのは難しいと思います。
※ (1)
この次に日本調教馬が米国の重賞を勝つのは2005年のシーザリオまで待たなければなりません。
(海外重賞制覇はハクチカラの次はフジヤマケンザンでした。海外のGⅠに限ればシーザリオの前にも複数おります)
それは何も不思議な話ではないですよね。なにせ日本競馬はまだ近代競馬になる前のいわば赤ちゃん(言いすぎかな?)にも等しかったのですから。もちろん海外競馬はもっと早くから始まっているわけで、その経験も能力も体制的にもまだまだ日本競馬は海外競馬の足元にも及ばないものだったのです。
参考資料
図書
日本競馬史 著者 日本中央競馬会総務部調査課 編
インターネット
Wikipedia 競馬の歴史(日本)
※ (1)誤解を招く恐れがあるため訂正と加筆しました




