メイの理由
ああ、ほっぺたが痛い。
かかとも痛い。
首も痛い。
「あいたたた」
濾紙をセットするために腕を上げた途端、体の各所にぴしりと痛みが走り、思わずうめき声が上がる。
絶対、寝違えた。
ついでに緊張と愛想笑いによる筋肉痛、慣れないハイヒールによる擦過傷も。
「おいおい、大丈夫かい?」
動くたびに小さく悶絶しながら濾過作業を進めていると、後ろから声をかかった。
首を動かさないよう腰ごとぐるりと振り向くと、そこには―――
「所長。おはようございます」
「やあ、メイ。おはよう」
私より頭二つ分ほど大きな、白衣を着た熊―――じゃなくて、所長であるシュルツ伯爵が立っていた。
丸眼鏡ともじゃもじゃの天然パーマがトレードマークのこの人は、私の恩師でもある。
「どうしたんだい? 痛々しい声が聞こえたけど」
彼は柔和な顔に心配の色を浮かべながら、ミトンのように分厚い掌でとんとんと自分の首を叩いた。
「あー………寝違えただけなので、大したことはないです」
「おや、またそこのソファで寝たのかい? たまにはちゃんと家に帰らないといけないよ、体に悪いからね」
「いえ、昨晩は自宅で………」
そう答えると、所長は一瞬目を見開いたあと、はっはっはっと豪快な笑い声を上げた。
「固いソファで寝ても平気なのに、家のベッドだと寝違えるのか! 君は本当にここが好きだねえ!」
所長の大きな声が実験室に響き渡る。周囲の同僚たちが作業をしながら苦笑いしているのが目に入って、かーっと頬に熱が昇った。
私、そんなに泊まり込んでるっけ?
せいぜい週2、3回だからそこまで多くない………はず。
生暖かい目を向けられているなぁと感じても今まで気にしたことはなかったけど、所長に改めて言われると、ちょっと恥ずかしい。
―――それでも所長に笑われて嫌な気分にならないのは、ぬいぐるみのような親しみやすい雰囲気が全身から滲み出ているからだと思う。
初めて会った時から、人に警戒心を与えない彼の人柄は変わっていない。
所長は私が実験台の上に乱雑に広げたノートや、濃度ごとに一列に並べたフラスコに目を向けると優しく微笑んだ。
「君は本当に楽しそうに実験をするねえ。―――そうそう。この前のチキマメの生長速度と照射する光の色に関する論文、あれ、おもしろかったよ」
「お、恐れ入ります」
読んでくださったんだ……。 ふわりと胸が高揚する。
しかしそれもすぐに萎んでしまう。
「すみません、今回も研究費申請は通りませんでした………」
農作物の収穫量増加につながる研究なら通るんじゃないかと淡い期待を抱いていたけど、結局ダメだった。
こうなると、一生審査を通過しないんじゃないかと思えてくる。
そもそも審査官が公平な判断を下しているのかどうかもあやしい。
現に、この研究所に所属する研究員の申請が通ることはほとんどなくて、上級貴族出身の人がちらほら通るくらい。
平民に研究費が支給された前例はこれまで1例もない―――というか、平民の申請者はこれまで私しかいない。
腹立たしいことに、この国は長年科学や教育といった分野を軽視してきたという歴史があった。
政治を回している貴族達の多くが自分たちの利益に直接つながるものを優先し、そこで得られた利益を使って絹の生産や金・宝石の採掘など、自分たちの豪奢な生活を支える事業に莫大な額の投資をしている。
金、富、地位。その影響力はあまりにも大きい。
一部例外はいるけど………所長とか、ルークの家とか………。
ついつい溜息をついていると、所長の大きくて温かい掌がぽんと肩に乗った。
「気に病むんじゃないよ。メイの研究はきっと色んな人の助けになる」
「はい………」
「知恵の種はあらゆるところに転がっている。だがそれに気付くことは難しい―――君はそれを見つけるのがとても上手だ。何でもやってみなさい」
にっこりと笑った所長が、ぱちりとウインクをする。
熊にウインクは似合わない。思わず吹き出してしまうと、所長はまたも豪快な笑い声を上げて別の実験室へと入っていった。
所長は研究室を訪れた際は、いつもこうして全部屋をまわり、研究員を気にかけてくれる。
―――あったかいなあ
肩に残るぬくもりから信頼を感じて、喜びと期待に応えなければという緊張が湧き上がってくる。
所長の人柄を慕って寄付が集まり、私や後ろ盾のない研究員は研究を続けることができているのだ。
貴族も平民も、ここでは等しく研究者だった。
私の人生で一番幸福だったことは、きっと所長と出会えたことだと思う。
だから、私の願いはただ一つ―――この環境を守りたい! ということ。
平民にもアカデミーを開放し、国民に等しく教育機会を与えるべき―――という所長の持論は貴族議員達には受け入れがたいものらしくて、身分制度を否定しているだとかなんとか何かと批判されている。
画期的な研究成果で貴族院のやつらの鼻を明かすことができれば一番いいんだけど………。
残念ながら、まだまだ経験不足の私にはまだその力がない。
だから「惚れ薬」の売上でこの研究所に寄付をすること。それが今の私の大きな目標だ。
店舗での販売も鋭意準備中で、所長の元門下生が営んでいる城下のカフェ兼占いショップの一角に置かせてもらう予定になっている。
目指せ、収益化!
目指せヒット商品!
ってことで、まずはやるべき仕事を片付けよう。
決意も新たに作業を進める―――と、だんだんと周りの風景が消え、ただひたすらに目の前の作業に没頭していく。
そのうち、はっと気づけば、昼休憩で周囲に人気がなくなっていた。
昼ごはんは………面倒だし、いいや。
そんなことを考えていると、とんとんと肩を叩かれた。
振り返ると、そこには事務の女の人が眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。
うわ………。毎月の経費精算で色々言ってくるから、この人苦手なんだよなぁ……。
しぶしぶ手を止めると、事務員さんが眼鏡を光らせながらぎろりとこちらを睨んだ。
「メイさん、あなた、今日休暇届出してませんでした?」
「えっ?」
休暇届?
「あなたみたいな実験馬k……コホン、熱心な方が休暇届を出すなんて珍しいと記憶に残っていたのですが、なぜ出勤していらっしゃるのかしら?」
「えっ?」
「勤怠管理も私の仕事なんですのよ。給与計算にも影響しますので、きちんとしていただかないと………」
ねちねちと文句を言う事務員さんの言葉が遠くなり―――……脳裏に意気揚々と初めての休暇届を出す数週間前の自分の姿が甦る。
そうだ、仮面舞踏会の次の日は確実に疲労困憊してるだろうし、いい機会だからって休暇届出したんだった。
ま、待てよ。確か休暇届を出したってルークに言ったら、そういえばルークが………
『その日休みなんだ? 調べてほしい土壌サンプルがあるから渡しに行ってもいいかな』『12時くらいにメイの家に行くから』
はっと壁時計を見ると、午後1時。
「あぁああーーーーーー!!!」
ルークとの約束、ち、ち、遅刻だあああぁ――――――!!!!
次回、盛られます。