あなたには必要のないものです
「きゃっ」
「うわっ」
あいたた、とぶつかった鼻をさする。
正面の暗がりに目を凝らすと、ドレス姿の女性が尻餅をついているのが見えた。
しまった……!
「失礼しました……!」
倒れた女性を慌てて助け起こす。
暗がりでも分かる綺麗に手入れされた豊かなブロンドの髪と、胸元が大胆に開いたシルクのドレス。
どこからどう見ても身分の高い貴族のご令嬢だ。
申し訳ありませんと謝罪を口にしながら、ぱたぱたとドレスに付いた土を払う。
地面が乾いていたのが幸いして思っていたよりも被害は少なそうだ。
弁償しなくても済みそうなことにほっとする。
と、スカートを叩く私の様子をじっと見ていたその女性が、なぜか俯いて肩を震わせ、小さく嗚咽を漏らし始めた。
―――えっ、どうして?
こんな所を誰かに見られたら、咎められるのはメイド服を着ている私の方だ。
やばい。
もし怪我をさせられたと訴えられでもしたら、今夜の行動が芋づる式に暴かれてしまう。
「どこかお怪我を? すぐにお手当をいたしますので」
どうにかこの場を収めなければと必死に囁くと、黒いレースの手袋で口元を覆った女性は俯きながらふるふると首を振る。しかし「大丈夫よ」と呟く声が震えている。
大丈夫と言われても、メイドの恰好をしている手前すぐに立ち去る訳にもいかない。
おろおろと立ち竦んでいると、とうとう女性は両手で顔を覆い、本格的にくぐもった嗚咽を漏らし始めてしまった。
「お、お嬢様……?!」
まずいまずいまずい。
確か、バスケットに唯一アイロンを当てていたハンカチを入れていたはず。
慌てて探ってると、バスケットに突っ込んだ私の手に彼女がそっと触れ、小さく首を横に振った。
「………ごめんなさい、あなたのせいじゃないわ。でも、た、耐えられなくて……」
「………ええっと、何か……嫌なことがございましたか?」
できる限り優しく尋ねると、彼女は唇を歪めて笑みのようなものを作る。
「……ふ、ふられちゃったのよ。つい今し方、ね。他に、す、好きな相手がいるから、って……」
自嘲の笑みがみるみる歪んで、ワイン色のパピヨンマスクの隙間から涙が流れた。
惚れ薬を配っておいてなんだが、生々しい色恋沙汰はまったくの門外漢だ。内心大慌ての私の目に、自分が腕に下げたバスケットが映った。
こ、これだ……!
私はほろほろと涙を流す女性に、二つ残っていた「惚れ薬」うちの一つを差し出し、彼女の手を両手で包むように握らせる。
「………これは?」
「こちらは、今度売り出される予定の「惚れ薬」……のようなものでございます。もしかしたらお役に立てるかと………」
「まあ、そんなものが?」
レースの袋から小瓶を取り出した彼女は目を丸くした。
「確実に恋が叶う保証はありませんが、きっかけの一つになるのではないかと………」
注書きを渡し、説明を加えるうちに、彼女の顔色が少し明るくなる。
涙のせいで目元は赤らんでいるが、改めて見ると彼女はとても綺麗な人だった。スタイルも抜群で、体の線があらわになる豪華なドレスも見事に着こなしている。細い腰や華奢な肩は、女の私でも守ってあげたくなるくらいだ。
一体全体、こんなに綺麗な人を振る男ってのはどんな男なんだろう。
「……袖にされたばかりの私にこんな物をくれるだなんて……。あなた、もしかして悪魔じゃなくて?」
自嘲の笑みを浮かべた女性は、手の中の小瓶を見つめながら、まだ希望があるのかしら…と悲しげな顔で呟いた。本当の惚れ薬ではないと説明したにも関わらず、縋るように小瓶をぎゅっと握る。
その表情がこちらの胸も締め付けられそうになるほど切実で―――
「あなたの恋が……うまくいくことを祈っています」
つい口をついて出た言葉はセールストークなんかじゃなく、心の底から出たものだった。
だって、こんなに綺麗でかわいらしい女性でもフラれるなら、並の人間は一体どうすればいいというんだ。
そろそろ涙も乾いてきたらしく、彼女は「おしゃべりが過ぎたわね」と恥ずかしそうにはにかんだ。
自分の作ったものが誰かの心を明るくするのを見ることができるのは、とても嬉しい。
ユーザーの気持ちに沿った商品開発ってなんて素晴らしいんだろう。
これが開発者の喜びってやつだろうか。
残る試供品も一つとなり、私はやりきった感でいっぱいだった。
このまま撤収しようかとも思ったけど、こんな暗がりを令嬢を一人で歩かせる訳にもいかないなと考え直す。
せめてものお供として会場まで一緒に向かおうとした―――その時だ。
女性の背後からざりっと地面を擦る音が響いた。
「ルイーザ様、こちらでしたか」
落ち着いた低い声とともに、背の高い男性が暗がりから姿を現した。
おや。
もしやこいつが女性を振ったという不遜な男だろうかと、怒り半分、野次馬半分で声の方に目を向ける。
しかし、そこに立つキラキラと輝く白銀色の髪の持ち主が目に入った瞬間、私はぎょっと目を剥いた。
げえっ、ルーク!?
宝石が散りばめられ瑠璃色の羽が付いた豪華な仮面を付けているが、その奥のアイスブルーの瞳には見覚えしかない。
月の光が反射して、まるで後光が差しているかのように鮮やかに輝くプラチナの髪。
つややかな燕尾服がよく似合う華やかな容姿。
―――間違いない。ルークだ。
ルークが近づいてくるのが見えて、私は反射的に二人に背を向けた。
「惚れ薬」を配ってるなんてバレたら、絶対絶対なにか言われるに決まってる。
落ち着け。
私は今、人生で一番の厚化粧をしている。
鏡の中の自分に「誰だお前」とつっこみを入れてしまうくらい顔が変わっているし、ヴェールの付いた仮面も付けている。気が付かれる前に自然に距離を取ればきっと大丈夫。
呼吸を整え、ちらりとルイーザ様と呼ばれた女性を見ると、彼女の視線はルークにだけ注がれていて、こちらのことなどすっかり眼中になしだった。
上気した頬と潤んだ目元でルークを見つめるルイーザ様は、まさに恋する女性そのもの。
ルークも―――……月明かりに照らされ凛と佇むルークも、私を前にしたときとは違う、気品漂う貴公子そのものだった。
美しい二人を目の前にして、なぜか足下がぐらりと揺れたような気がした。
すぐにその場を離れようと思っていたのに、棒立ちになった足が動かない。
ふいに、いつもルークが使っている香りがふわりと鼻を掠める。
公爵家に咲く花から抽出したエッセンスを使った、私のオリジナル香水。
ああ、本当にルークなんだなと思っていると、彼は少し身を屈めてルイーザ様の耳に何事か囁いた。
くすぐったそうに肩を竦め、頬を染めたルイーザ様が上目遣いをルークに向ける。
見つめ合う二人。
世話を焼く過程でルークが私に触れることはよくあるけど、それとは違う、男女の距離。
そして、ルークは右手で彼女の華奢な手を取ると、その甲にそっとキスを落とした。
***
あー、完全におじゃま虫ですね、私。
目の前の二人は完全に自分たちだけの世界に入っている。
気まずい。気まずくてたまらない。
足音を立てないようにそろりと立ち去ろうとすると、
「君、待ちたまえ」
それまで私のことなんて眼中になかったはずのルークが突然声を掛けてきた。
ひゃっと肩が跳ねたのを誤魔化すように慌てて二人に向かって頭を下げ、腰を90度に曲げる。
私は従順なメイド。だから邪魔しません。早く行かせてください。
伝われ、と念じながら頭を下げ続ける。
「……………」
後頭部にびしばしとルークの視線を感じ、冷や汗が背中を伝う。
「そのバスケットの中身………会場内で配っていただろう。私にも一つくれないか」
いや、これは女性をターゲットにしておりましてですね………なんて言い訳をしようものなら、すぐに私だと声でバレてしまう。
私は頭を下げたまま、無言で残っていた一個をおずおずとルークに差し出した。
ルークがそれを手に取ると、
「きっとルーカス様には必要のないものですわよ」
下げた頭にルイーザ様の声が降ってくる。
「何故だい?」
「それは………内緒、ですわ」
ふふ、といたずらっぽく笑うルイーザ様。
その明るい声色に疑問が浮かび上がる。
さっき振られたと言って泣いていたのになぜ?
ルークに振られたわけじゃない? もしくはただの誤解だったとか?
仲がいいなら「惚れ薬」なんていらないじゃない。あげて損した。
最後の一個もルークに渡しちゃったし……。
腰を曲げた体勢もいい加減辛いので、早くどこかに行って欲しい。
「ルーカス様、私喉が乾きましたわ。そろそろ中に戻りませんこと?」
「ああ、そうしようか」
頭を下げた視界の端で、ルークがすっと自然な動作で自分の腰に手を当てるのが見えた。ルイーザ様が嬉しそうにその腕に自分の腕を絡め体を密着させる。
これがスマートなエスコートってやつかあ、なんて間抜けなことを思っている間に、二人はテラスへと続く階段を昇って行った。
―――やっと行ってくれた。
やれやれと腰を伸ばし、ふとテラスを見上げる。すると同じタイミングでテラスに立つルークが振り返り、中庭に視線を落とした。
一瞬だけ目線が交わった気がして、どきりと心臓が鳴る。
急いで顔を逸らして胸を押さえる。
暗がりだったし、大丈夫だよね……?
次にそろそろとテラスを見上げた時には、もうそこにルークの姿はなかった。
***
「あーつかれたー………」
よろよろと家に辿り着いた私は、中に入るなり固めていた髪をほどき、シャワーを浴びたついでにがしがしとメイクを落とし、勢いのままベッドにダイブした。
舞踏会に渦巻くとてつもない量のエネルギーにあてられ、心底疲れ果てた。
1個ルークにあげてしまうというアクシデントはあったけど、一応すべての試供品を配り終えることができたので、私にしてはよくやったと思う。
いずれにせよ、試供品をすべて配るという今夜の目標は達成できた。
「次は実店舗での販売と宣伝………か」
疲労で回らない頭をぼすっと枕に沈ませる。
今にも意識が飛びそう―――というところで、枕カバーからさっきルークから香ってきたものと同じものが漂ってくることに気がついた。
ああ、そういえばこの前ルークがくれたカバーだっけ……。
さらさらとした綿素材で、肌触りが私好みの枕カバー。
しかし鼻先をくすぐる香りを感じるたびに、いらいらした気持ちが広がっていく。
結局枕をベッドの外にぽいっと放り投げ、そのまま枕なしで寝ることにした。
明日からまた忙しくなる。しっかり睡眠を取らなければ。
―――そう思うのに、どういう訳かその日はなかなか寝付くことができなかった。