二人のエピローグ
芹菜が意識不明と聞き、病院に急ぐ二人の青年がいた。
一人は芹菜の兄、宗岡茂貞である。
芹菜の病室に近づくと、看護師や医師が早足で、行ったり来たりしている。
茂貞は、息も荒く、芹菜の枕元に立つ。
椅子に座って項垂れていた、芹菜の母が立ち上がる。
「お、お、お兄ちゃん……芹菜が」
茂貞は、母の肩を抱く。
「すまない、遅れて……」
芹菜の母は涙を隠さない。
「もう、三日も、意識がなくて……」
茂貞に遅れて、もう一人の青年も病室に入る。
その姿を見た、芹菜の母は、目を開き、涙で濡れたまま、頭を何度も下げる。
青年は、黙ったまま、顔を横に振った。
「しげ、ほら」
青年は、背負っているリュックから、ボールを取り出す。
土で汚れた野球の硬球である。
「渡して、やれよ」
どこか、たどたどしい喋り方の青年は、茂貞の背中をそっと押した。
茂貞はベッドサイドにしゃがみ、管がたくさん付いている、妹の手にボールを乗せた。
「遠回りしたけど、兄ちゃん、戻ってきたよ。
だから、戻って来いよ! お前も!」
トクン
芹菜の瞼が震えた。
隣室では、大きな声が飛び交っている。
トクン
歓声が聞こえる。
試合終了!
観客席に駆け寄るチームメイト。
兄ちゃん
私
そして……
芹菜の瞼が開いた。
掌に何か懐かしい感触。
「芹菜!」
そして懐かしい声。
忘れかけていた眼差し。
「お、お兄ちゃん? え、何? 夢?」
茂貞の隣には、更に懐かしい顔が並んでいる。
「柴、﨑、ザキ先輩?」
柴﨑と呼ばれた青年は、「こんにちは」と手話で言った。
かつて、茂貞と柴﨑は、同じ少年野球のチームの主力選手だった。
あとから入った芹菜を加え、三人はよく一緒に練習をした。
中学時代、茂貞が起こした不祥事とは、彼が柴﨑を殴って、柴﨑の聴覚に重篤なダメージを与えた、ということである。
しかし、その不祥事は冤罪とも言うべきものであった。茂貞が、何も言わなかったからだ。その後、芹菜の一家も柴﨑も、故郷を離れた。
「ザキと今、同じチームだよ。今日、試合に勝ったから、ウイニングボール、お前にあげようって、ザキが言って……」
柴崎は、千葉の聴覚特別支援学校に進学し、誘われて再び野球部に入った。
そこで野球本来の面白さと楽しさを実感し、卒業後も後輩の指導にあたっている。
やりたいことも特になく、ふらふらしていた茂貞に、もう一度野球をやらないかと、柴﨑から連絡を取っていた。
今日は、柴﨑の後輩たちが、普通科の野球部と練習試合を行った。
相手校はいわゆる二軍の選手たちであったが、聴覚のハンディキャップを越えて、見事勝利を飾ったのである。
茂貞の目からも、涙が落ちた。
「芹菜……戻ってきてくれて、良かった」
それは、私の科白だよ、と芹菜は言おうとしたのだが、言葉は出なかった。
数日後、退院を控えた芹菜が、隣室に向かうと、琉生が荷物をまとめていた。
芹菜を見ると、琉生は芹菜に抱きついた。
「セリナさんが、助けてくれたんだってね」
あの事故の日。
目撃した人の証言によれば、交差点を渡ろうとした少年の頭上に看板が落ちてきて、一人の少女が身を挺して、少年を救ったという。
「セリナさんがいなかったら、僕は今、ここにいない。
戻ってこれて、父さんや母さん、レナの顔を見て、僕、思ったんだ」
琉生は芹菜の目を見つめて言った。
「どこにも居場所がないって思ってた。
でも、これから、時間がかかっても、僕、探すよ。僕が僕である場所を」
あちらの世界の時よりも、少年は確実に大人っぽくなっていた。
「違うよ、ルイ君。助けてもらったのは、私の方だ」
心の中で、芹菜は琉生に告げた。
琉生の母が病室に来た。
芹菜を認めると、深々とお辞儀をする。
「この度は……」
「ちょっ、やめてください。私の方こそ、入院費用まで出してもらって」
しばらく、芹菜と琉生の母は、互いにお辞儀をしあった。
病院の出口まで、芹菜は琉生を見送った。
「そうだ、ルイ君。私ね、もう一回、野球するかも!」
琉生は芹菜の言葉に、大きな笑顔で頷いた。
数年後。
健聴者と聴障者が一緒にプレイする、草野球チームが話題となる。チームの主力は健聴者の投手と、聴障者の捕手。そして紅一点の遊撃手である。
躍動感のあるチームフラッグのデザインは、中学生の少年が描いたものであるという。
そのフラッグには、七つの菱形を囲むような、たくさんの手が描かれている。
中学生の少年は、フラッグを振りに今日も球場へ向かっている。
了