野球少女
二 セリナ
「避けて! よけろよ!! バカアアア!」
進行方向に人影を見た芹菜は叫んだ。
小さな人影が、道路の上で固まっていた。
急ブレーキをかけたら、多分バイクごと転倒だ。
人影を避けられるかは、分からない。
多分芹菜も、単車と一緒に道路に激突する。
どの道、間に合わないだろう。
芹菜は思いきりハンドルを左に切り、バイクを蹴って、自分は宙に飛んだ。
バイクは横転し、アスファルトに楕円の軌跡を描きながら、歩道へと向かう。
歩行者の叫び声に、重い衝撃音が続いた。
芹菜は道路に落ちて行く。
この速度では、受け身を取るのが難しい。
短い、人生だったな……
芹菜の脳裏に、短いながらも彩りにあふれた記憶が駆け巡る。
最初は淡いパステルカラー、途中からはダークな色の記憶である。
宗岡芹菜は、十六歳になったばかりの高校生である。
家計のために、朝夕、新聞配達をしている。新聞配達以外にも、複数のバイトを掛け持ちしている。
何年か前までは、宗岡家は裕福な家庭だった。
大きな企業に勤める父と、子どもたちのためにと、専業主婦を選んだ母。
三歳上の兄は、よく芹菜と遊んでくれた。
芹菜が小さい頃から、父と兄は、よくキャッチボールをしていた。
野球が好きだった父は、芹菜と兄を、たまに地元の球場に連れて行った。
一足先に小学生になった兄は、少年野球のチームに入る。
ポジションは、投手。
その姿に憧れて、芹菜も同じチームに入った。
お兄ちゃんと一緒に、試合に出るの!
そう言って、泥だらけになりながら、白球を追いかけた。
才能は、妹の方が上だった。
芹菜はもともと、足が速い。
それだけではない。
動体視力がずば抜けていた。
ボールを投げる。
来たボールをキャッチする。
内野安打で出塁する。
兄より先に、芹菜はレギュラーの座を手に入れた。
それが後々、宗岡家の悲劇を生む。
中学に上がる頃、芹菜の兄は野球を辞めた。
いつしか兄は、問題行動を起こすメンバーの、主要人物になっていた。
母は嘆いた。
そして芹菜に向かって毒を、吐いた。
「あなたが悪いのよ! 女のクセに、お兄ちゃんより野球が上手くなったから!」
パリン……
芹菜の中で、何かが壊れる音がした。
芹菜の兄の蛮行の結果、父は仕事を辞め、賠償金を払い、一家は故郷を離れた。
転職が上手くいかなかった父は、酒で体を壊し入退院を繰り返す。
兄は単位制の高校に進学したが、すぐに退学し、現在は家に寄り付かない。
母は老け込んだ。
長らく専業でいたためなのか、社会に適応できない。
一日中、自分の髪を抜き、涙を流す。
兄の名を呼びながら。
芹菜は道路へ落ちて行く。
もう一度、ボールを取って投げたかったな。
お兄ちゃんと試合に出たかった。
もう一度
家族みんなで、笑いたかった……
路上の人影は、あどけない少年だった。
ケガはしていないようだ。
それだけでも、良かった。
蹲っていた少年は、光る何かを掴む。
その時。
空から次々と、透明な板が、垂直に地面に落ちた。
板は芹菜と少年を囲むような、檻を形成する。
芹菜の体はふわり、宙をさまよう。
宇宙遊泳のような恰好で、芹菜は少年を見た。
少年も茫然と、芹菜を見つめた。
芹菜と少年の視線がぶつかった瞬間、二人は、眩い光に包まれた。