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雨と十畳

作者: 日暮 記

 ふっと雨のにおいがした。窓の外を眺めると、大小さまざまな水滴が僕の視界に張り付いているのがわかった。建付けの悪いせいで、すき間から少し湿った風が入り込んでいる。気づいたにおいもここからだろう。

 3年前の今日は、少し出かける約束をしていたな。なんの前触れもなく思い出す。記念日のようなものをあまり覚えない僕だが、刺激的なことは嫌でも脳裏に張り付くらしい。実際あの日は今日のようなどんよりした天気ではなく、むしろ暑すぎるくらい、見事な夏の日ではあったが。


 思い出すのは、温度、感触、感情。この三つで、あの日のことは片が付く。

 あの日僕は、初めて君を抱きしめた。

 正直、密着するには適さない気温だった。自分自身汗をかいている自覚はあったし、君も水筒とタオルが手放せなかったじゃないか。

 それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。愛おしかった。君は、拒まなかった。すっと、僕に身をゆだねてくれた。僕にすべて収まってしまうくらい、小さくて、か弱くて、確かに生きている君。

 情けない話ではあるが、君を潰し殺してしまわないか、少し怖くなっていた。軽く力を加えれば、簡単に、シャボン玉が割れるように消えてしまう気がしていた。

 それでも僕は、君を包み込むように、少し力を込めて抱きしめた。君を、彼女を、感じていたかった。

 僕の臆病な面を感じ取ったように、君は僕の背中に手をまわした。きっと君の力めいっぱい、君は僕を抱きしめた。だいじょうぶ、ここにいるから。そう言うように、2、3度僕の背中を、ぽんぽんと優しくたたいた。

 僕はというと、腕の中に収まった、小さくて大きな幸せを、噛みしめていた。


 そこからの記憶は、実はあんまりない。本当のことを言うなら、その前の記憶もほとんどない。覚えているのは、3年前の今日、僕が君を抱きしめたことだけだ。その前に彼女とどこに行っただとか、その後彼女となにがあったかなんて、もう覚えていない。

 でも確かに。あの日君はここにいたんだ。

 僕は額に収まった君の写真に目をやりながら、雨と線香の混じったかおりに、鼻の奥をつつかれるような感覚になっていた。

 

 去年の昨日のことだ。君はこのごろ顔色が悪かったので、病院の診察を受けるのを提案したのだが、君はかたくなに断り続けた。ならせめて、少し歩いて外の空気を吸わないかと言った。君は快くうなずいてくれた。

あいにくの天気でも、君は楽しそうにいつもの散歩道を歩いていた。新しいブーツを履く機会ができたと、子供のようにはしゃいでいた。僕が彼女の誕生日に送ったものだった。

 濡れるといけないからと、その日は二人それぞれ違う傘の中に入っていた。わざわざ同じ傘に入っていた昔のころの自分らはもういないが、この距離感は心地よかった。

 思ったより雨脚が強まってきたので、少し雨宿りをすることにした。近くの公園の休憩スペースに、極力濡れないように二人寄り添っていた。少し前にいた人が吸っていたであろうたばこのにおいが、雨に紛れず残っていたのを覚えている。

 ふと、君は僕にもたれかかるように体重を預けてきた。突然の彼女の感触に、僕は一時混乱していた。

「ごめんね」

彼女が言った。

「なにが?」僕は聞き返す。

「ごめんね。それも言えない。だけど、謝らなくちゃいけないの」

「僕はいつも結局君を許してしまうじゃないか」

「それって大丈夫なのかな」君はくすくすと笑った。

「怒りっぱなしよりましさ」

「そうだね」君は頬を僕の肩に押し付けた。

 何も考えずに、僕は君を抱きしめた。僕がいるから。なにも謝らなくても大丈夫だよ。そう言うように、彼女の背中を2回、優しくたたいた。

 3回目、彼女の背中に触れたそのとき、彼女の手が力なく地面に向かって投げ出された。気が動転した。彼女の顔を見ようとしてみる。彼女はうつむいたまま返事をしない。むりやり顔を上げさせるのは、彼女に乱暴する気がしてできなかった。

 とにかく、医者だ――。僕は傘を置き去りにして、彼女を抱えて最寄りの病院へ向かった。


 持病の発作のよるものだということは、君の寝る病室に入ってから聞かされた。

 君はそんなこと、一度だって話してくれなかった。

 いつだって、何があったって、笑顔で楽しそうにしていたのに。

 なのにその下に、僕の知らない苦しみを隠していたなんて。

 すべてを話してはくれていなかった失望感。行き場のない後悔。何もできず目覚めを待つだけの自分へのいら立ち。様々な感情が一気に押し寄せた僕は、みぞおちあたりから這い上がるそれを、今にも吐き出してしまいそうだった。

 病室には君と僕以外誰もいなかった。誰も声を発せられなかった。ただ窓に軽く打ち付ける雨の音が、部屋に響いていた。どうすることもできない。その事実がつらすぎて、僕は君の手を握りうつむいた。

 せめてもう一度、目を見て話しがしたい。もう覚めないかもしれない彼女の寝顔が美しく、でも見ていられなかった。

 ごめんね、と声がした。

 顔を上げると、半分ほど開いたうるんだ瞳が、こっちを見ていた。

「なにも、話せなかった。あなたに余計な心配をさせたくなかった。あなたの人生の邪魔を、したくなかったの」

 今にも消え入りそうな声が病室に響いて溶けた。

「そんなこと」言葉が詰まった。君の眼を見られなかった時間が、何時間にも、何日にも思えて、あふれそうになっていた。

「そんなこと、僕だって君の人生の邪魔をしてる。僕が隣にいることで、少なくとも君の人生に制限を与えた」

「そんなこと」起き上がろうとする彼女を、僕はなだめてもう一度寝かせた。

「そんなこと、一度だって考えたことないわ。幸せだった」

「それなら僕もおんなじさ。君に邪魔される時間が、幸せでしかたない」

「……ごめんなさい」

「僕は結局、君を許してしまうじゃないか」

「それなら、今は許さないで」

か弱いながらも強い意志を持って、君はそういった。

「今はまだ、私を許さないで。恨んでもいいよ。もう少し、私を君の記憶にとどめさせて」

「忘れるもんか」

「君が私を忘れたいとき、きっと私を許してね」

 じゃあ一生許せないな。そう言いたかった。

「そのときまでね」

 言い終わらないうちに、君の手から力は抜けきっていた。君の温度を忘れないように、君から温度ができる限り消えないように、僕は手を握り続けた。


 きっとそれがいけなかったのだろう。いまだに僕は、君のことを忘れられないでいる。

 あの日握った手の温度。言葉に載せられた感情。最後に君を包んだ感触。それらすべてが、雨のにおいとともに蘇ってくるのだ。

 どうやら明日は晴れの予報らしい。今日とは打って変わって、お出かけ日和のいい天気と、意味もなくつけたテレビの気象予報士が言った。

 今日の雨のせいで、きっと明日はうだるような暑さになる。弱ったな、今度は初めて抱き合った日を思い出してしまうじゃないか。

 つまるところ、夏という季節は、僕に彼女をふっと思い出させる。晴れの日も雨の日も、僕の頭の中にいつも君が思い浮かぶ。忘れようなんて思えない。だから僕は、君を許してやらないことにした。

 二人のために用意した、十畳一間のこの部屋は、独り身で暮らすとなると、どうやっても余計なスペースができてしまう。この前まで君がいたところや、二人の共有スペースだったところも、いまは全く一人用だ。さすがに広すぎる。

 だが、この部屋を出る気にはなれなかった。家賃も少し頑張って稼げば間に合うし、高く金がかかる趣味もない。なにより、君がもし帰ってきたら、居場所が必要だと思った。

 あの世この世は正直信じていないが、活発だった君のことだから、何度かこちらに来ているんだろうと思う。どうせなら、雨宿りにでも来てくれないか。

 この十畳の部屋は、僕と君だからちょうどいいんだ。

 そう思い込みながら、僕は今日も二人用のベッドに沈み込むのだった。

皆さんは天気で何か思い出されることはありますでしょうか。僕としては、雨のせいで幼稚園の行事がほとんど変更になった思い出があります。行きたかったなぁ動物園。


長編は性に合わないことが分かったので短編でぽんぽんと出していくことにしました。

ぜひコメントをお寄せください。参考にさせていただきます。

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