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クロードの唇は冷たい見かけに反して熱かった。
リーラは壁とクロードに挟まれ身動きが取れず、されるがまま二度、三度と、唇を啄まれる。その触れ合いはひどく優しい。思わず胸が高鳴りそうになるほどに。愛されていると……誤解しそうなほど。
ちゅ、とわざとリップ音を立てて離れていく顔を、荒い呼吸の中、呆然と見つめていた。
心が揺らぐ。このまま嘘でもいいから優しく微笑んでくれたのなら、素直に心のうちをさらけ出せるかもしれない。かわいくないと言われて傷ついたのだと。本当ははじめて会った日に王子様みたいだと思ったのだと。
なのにリーラを見下ろすクロードの濃青の目は、悲しいくらいに嘲りに満ちていて。
彼は忌々しげに手の甲で自分の唇を拭った。
「嫌いな男に口づけされたわりには、ずいぶんといい顔をしているじゃないか」
リーラはうつむいた。その容赦ない蔑みの言葉にまた、傷つく自分がいた。
なんのことはない、ただの、貶めるためだけのキス。
だけどリーラにとっては、はじめてのキスだった。
ぽつり、頰をなにかが伝った。
はじめからわかっていたではないか。彼はリーラのことを愛していない。それどころか、嫌悪している。
そんなリーラを傷つけるためなら、キスだってするだろう。彼にとってはその程度のものなのだから。
だけど、目の前で、汚いものに触れてしまったかのように口を拭うくらいなら、どうしてあんな風に優しくキスなんてしたのか。いっそ乱暴にしてくれていたら、ばかみたいな期待をせずに済んだのに。
リーラは両手で顔を覆った。なにも見たくないし、見られたくなかった。
そうして嗚咽を殺して泣いた。
彼が今どんな顔をしているかだなんて、知りたくもなかった。
*
彼女が泣くところを、はじめて見た。
クロードは動揺しながら、リーラの頰を伝った滴の行く先を目で追いかけていた。
それなりにつらい生活を強いていたはずなのに、今の今まで、彼女が泣いている姿を見たことはなかった。
部屋では枕を濡らしていたのかもしれないが、誰かの前で、しかもクロードの前で、こんな風に弱みを見せるとは思いもしなかった。
その考えこそおかしいと、なぜ気づかなかったのだろう。
普通の令嬢ならば、初日の時点で泣いていただろう。毎日誰かの目があるところで、終始泣いていないとおかしい。
これほど冷遇されて、愛されて育った娘が、耐えられるものなのだろうか。
打算もなく、犬のために嵐の中を飛び出して行くだろうか。
それとも。
彼女は相当な演技派なのだろうか。
クロードは無意識に伸ばしていた手を、彼女の髪に触れる前に引っ込めた。慰めようとしていたその裏切り者の手を戒めるように、きつく握りしめる。
あのキンブリー前子爵の娘だ。その可能性は十分ある。
簡単に涙だって流せるだろう。
そうに違いない。
罪悪感を抱くだけ無駄だ。
クロードはなんとか気持ちを立て直して、それでも逃げるようにリーラの部屋を後にした。
心を鎮めるためにロロの様子見に行こうと、暖炉のある部屋へと足を向けたが、途中、面倒な人物と鉢合わせた。アイビーだ。
「ロロなら寝てるそうです」
「……そうか」
それなら仕事でもするかと踵を返したが、彼女は後を追ってきた。
「あの女の様子はどうですか? 熱出してたり、します?」
クロードは隠すことなくため息をついた。最近妙に距離が近いと思うことがある。リーラに見せつけるためだけに、彼女に愛人のふりをしてもらったが、そのせいで誤解させたかもしれない。
クロードはメイドには手を出さない。絶対に。
事情を知らないほかの誰かに頼むわけにもいかず、手近に済ませたのがいけなかった。
リーラの自尊心をへし折るには、使用人たちの中でもとりわけ美しく、同じくらい若く、そして自分がしていることに罪悪感を抱くことのない性格の彼女が適任だと思ったのだが……。
今さら悔いても遅い。
「いいか、アイビー。この間はきみの肩を持ったが、相手が彼女でなかったら、即刻解雇していた。この意味がわかるな?」
彼女の頰が朱に染まる。そして、大きな目に涙をためて、クロードを責めるように見上げた。
「クロード様はロロのことがあって、あの女に心動かされたってわけなんだ……」
「そんなはずがないだろう!」
勢いに任せて否定したが、アイビーは信じていないようだった。
「だったらもっと仲のいいところを見せつけてやらないと。あたしは、クロード様と結ばれるなんて分不相応なこと、思ってません」
「それはこちらに少なからず好意を抱いているときにだけ有効な手段だろう。彼女は俺のことを、心底嫌っている。愛人がいようがいまいが、眉ひとつ動かさないはずだ」
「あたしはそうは思いませんけど」
「なにを根拠に」
「それを確かめるためにも、もう一度試してみません?」
にっこりして腕にすり寄ってきた彼女を、丁寧に引き剥がす。
「いいや、断る」
クロードはすげなく言って、仕事に戻れとアイビーを追い払った。彼女は不満そうにしていたが、素直に従った。
あんな子供騙しのキスで泣くくらいだ。かけらほどもこちらに思いがないに決まっている。
嫌えばいい。憎めば。
クロードはまだやわらい感触の残った唇を、無意識にそっと指でなでた。
*
「はあ、あんたも大概ばかだねえ。人がせっかく早めに切り上げさせてやったのに、わんころのために雨の中に逆戻りなんてさ」
クロードがロロ用の薬草を彼女に頼んだらしく、その姿を見つけてこっそりと後をつけたリーラは、ほどよく屋敷から離れた頃合いを見計らって話しかけた。
領民たちの心の安寧のためにも、伯爵がリーラのクズな夫だとは知られないほうがいい。
「わんころじゃありません、ロロです。それにわたしはこの通り、元気ですし」
「なにが元気だ、そんなに腫れた目をして。また夫が愛人を連れこんだのかい? そんなだらしのない男、尻でも叩いてやんな!」
セトがクロードの尻を杖で叩いているのを想像して、くすくす笑った。彼女ならば彼が貴族と知っていてもやりかねない。
「もういいんです。セトさんのいつものお茶をください」
「金取るよ」
「えー、そんなぁ」
ご機嫌を取り、荷物持ちをすることで、手打ちにしてもらった。
セトといると忙しいが気が休まる。
いつか、何年後になるかわからないが、あの伯爵家を出てたら。リーラに新しい嫁ぎ先は見つからないだろう。修道院に行くか、ヴェルデの世話になるかしかない。
それならばいっそのこと、ここで雇ってもらえないだろうか。
無理だとしても、ここで学んだことを生かして領民たちに何か還元できれば兄のお荷物にはならないはずだ。リーラはそんな来るかどうかもわからない未来を夢想する。
夢を見ることは自由だ。
自由だが、それがもろく崩れ去ったときの絶望感は、自由を思い描く前よりもはるかに重い。
あんな風に子供みたく泣いてしまったが、そういう接触があるとわかった上で結婚を了承していたのだ。
初夜だって覚悟していたじゃないか。
今さら嫌だもなにもない。
たかがキスひとつで。
そう冷静に分析して見る角度を変えていくと、重要だと思ったことが思いのほかどうでもいいことのような気がしてくるから不思議だ。
きっとセトのお茶には魔法がかけられているのだ。
少しだけ背中を押す魔法が。
ふふ、と笑うと、セトがにんまりとした。
「元気になったじゃないか」
「セトさんのお茶の力ですよ」
「そんなのただの薬草茶さ」
「わたしでも淹れられるようになりますか?」
「はっ。三十年はかかるだろうね」
三十年はここにいさせてくれるということだと都合のいいように解釈して、リーラはわだかまった心の澱ごとお茶を飲み干した。