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 ロロは大型犬だ。ひとりで抱えて運ぶのには限界がある。だが長い時間探し回ったにしては、直線距離に換算するとそう遠くない場所にいたおかげか、なんとか二、三度抱え直すために休んだだけで屋敷の中へと運び入れることができた。


 マーティンは年のため捜索隊の中に加えてもらえずやきもきしていたのか、クロードたちを目にすると、驚くべき早さで使用人たちにこれからの指示を出して回った。捜索隊の撤収から、ロロの看護まで事細かく。


 ロロは暖炉の前で毛皮を乾かされ、毛布に包まれてようやく、身体の震えが止まった。よほど怖い思いをしたのか、しっぽはお腹にくっついたままだし、腰が抜けているのか一歩も動こうとしない。普段元気に走り回っているだけに心配だった。


「ロロ……」


「嵐が止んだらすぐに獣医を呼びます」


「……そうだな。頼む」


 ロロの頭をなでてやると、くーんと悲壮感に満ちた鳴き声をもらし、丸い目でクロードをじっと見上げた。なにかを訴えかけるような、その眼差し。


 誰かに言うと威厳が地に落ちるので口にしたことはなかったが、クロードはロロを愛しすぎて、目で会話ができると自負している。


「……迎えに行けって言っているのか?」


 ロロはまた、くーんと鳴く。


 マーティンが怪訝そうにしていたので、クロードは咳払いでごまかした。


「捜索隊の戻りはどうだ?」


「全員無事戻ってまいりました。……あの方以外は」


 ロロの無事を伝えてから戻ってくるにしては素早い動きだ。はじめから屋敷の周囲しか探していなかったのだろう。奥まで行ったのはクロードと……リーラだけか。


 たしかに使用人たちの安全を考慮すればそれが一番正しい判断だが。


(ねずみにも劣る薄情者、か)


 マーティンは内心憤慨しているようだったが、妙に納得できるところもある。


「……ねずみに負けるのは困るな」


 クロードがぽつりとつぶやくと、ロロが期待のこもった目を輝かせる。やけに嬉しそうだ。リーラのことをよほど好きなのだろう。


 ものは考えようだ。憎いキンブリーの娘を迎えに行くのではなく、ロロのお気に入りのおもちゃを取りに行くと思えばいい。


「あの娘の居場所はわかっている。誰か迎えに――」ふと見たロロの哀願に負けて、クロードは渋々言い直す。「いや、場所を知っているのは俺だ。迎えに行ってくる」


「そんなっ、いけません! まだ雨は弱まっていないのですぞ!」


「すぐ済む。いいか、マーティン。俺は生粋のお坊ちゃんたちとは身体の作りからして違うんだ。それこそ、『ずぶ濡れで一晩外で過ごすことがどれだけ寒くて寂しくてつらいか』を、身をもって知っている。わかっているだろう?」


 クロードはマーティンの反応を見ることなく、リーラを迎えに走った。当てつけのようでばつが悪かっただけなのだが、リーラに簡単に死なれては困るという理由をつけて先を急いだ。


 クロードがこれまで社交界で相手にしてきた令嬢たちの多くは、非力でか弱く、押したらすぐに倒れてしまいそうな娘たちばかりだった。あの娘も同じだろう。


 クロードはわけあって十歳になるまで施設で育った。運悪く、そこは特に評判の悪い施設で、体罰が日常的に行われているような過酷な場所だった。


 悪辣な環境の中で、死んでいく子供たちを大勢目にしてきた。


 雨の中、立たされるなんてことは、よくあることだ。そのせいで風邪をひいたとしても医者に診せてはもらえない。それどころか、職員たちは、おまえたちが弱いからだと嘲笑った。鍛え直してやるとまた暴力を振るわれた。


(知ったようなことを)


 クロードは誰より知っている。雨に打たれ続ける苦痛も、指先から感覚が奪われていく恐怖も、やつらに抗えない屈辱も。


 すべてはキンブリー前子爵のせいだ。


(あの男さえ、いなければ……!)


 これからじわじわと追い詰めるつもりだった。それが、あんなあっけなく死ぬなんて。


 やり場のない憤りは、その娘に。


 だがクロードはこうして、彼女のために嵐の中を走っている。


(違う。ロロのためだ)


 ここで見捨てれば後悔する。人は簡単に死んでしまうのだ。彼女にはまだ苦しんでもらわないといけない。


 そのためには大前提として、生きていてもらわなければならない。


 木のうろまでくると、膝をついて身をかがめて奥をのぞき込んだ。やっぱりだ。リーラは身体を預けるようにして、木の壁にもたれかかり意識を失っていた。


 ロロと同じように引っ張り出して、一瞬躊躇したが、自分の外套で彼女を包んだ。


「死んだら許さないからな」


 ロロよりも軽いその身体を抱き上げると、クロードは駆け足で来た道を戻った。









 久しぶりに、兄に抱っこをされている夢を見た。


 物心ついたときからそばにいてくれたのは兄だけだったリーラは、彼以外に抱っこされたことはなかった。


 だからリーラを抱っこしてくれるのは、世界中でただひとり、ヴェルデだけなのだ。


 ヴェルデはリーラにとっての、兄であり、母親であり、父親だった。たったひとりの肉親で、無償の愛を注いでくれる彼がいなければ、とっくに死んでいたか、心が壊れていただろう。


「兄さん……」


 会いたかった。


 せめて夢の中だけでも。


 だが、おぼろげだった兄の輪郭が、唐突にはっきりと形を結んで現れた。似ても似つかぬ別の形として。それはリーラにとっての悪夢に等しく、ぎょっとして肝が冷えた。

 

「気がついたか?」


 さっきまでそこにあったはずの兄の優しい顔が、クロードの冷たい顔に取って変わられたことに、リーラは盛大に顔をしかめた。


 観賞用としてしか価値のない秀麗な顔から視線を引き剥がし、あたりを見渡す。飾り気のない質素な狭い室内。見慣れたロシェット伯爵家の中にある、リーラの部屋だった。


 自分はどうやら、いつも寝起きするベッドで横になっているらしい。クロードに見下ろされながら。


(約束を守って迎えに来てくれた、ということ……?)


 雨でぐっしょりだった服も、乾いた夜着に変わっている。彼が着替えさせたのだろうかとも思ったが、すぐにそれはないと否定した。


 リーラの体にはいくつか古傷が残っている。すべてキンブリー一家によってつけられたものだ。薄暗いところならまだしも、明るいところで見たら肌の色の違いがわかるくらいの傷跡だ。


 彼が着替えさせていたのだとしたら、こんな普通に接してくるはずがない。嫌悪か、同情か、とにかく、こんな風に普通の反応はしないはずだ。


「わたしを助けるなんて、どういう風の吹きまわし?」


「決まっているだろう、ロロに頼まれたからだ」


 なんて情深い犬だろう。ほろりときたところで、はっとした。


「そうだ、ロロは!? 大丈夫なの?」


 がばっと勢いよく身を起こしたリーラは、有無を言わさず肩を押さえつけられて、ベッドへと逆戻りさせられた。


「ロロには腕利きの獣医がつきっきりで看病にあたっている。少し風邪気味だが、安静にしていればすぐよくなるそうだ」


「そうなの……よかった」


 それでも風邪をひいてしまった。かわいそうなロロ……。


「体調は?」


 真面目な顔で尋ねられて、ああ、と生返事をした。あれだけずぶ濡れになったのに、リーラはすこぶる調子がいい。それよりもクロードが心配するようなことを言うものだから、そのせいで調子が狂いそうだ。


「大丈夫なのか?」


「はあ……。このくらい全然平気ですが?」


 クロードは片眉を上げて、残念だ、とつぶやいた。なんて嫌味な人なのか。リーラは今度こそ起き上がり、狭いベッドの上を、彼の手の届かない位置までお尻で後ずさった。


「それはお互い様よ」


 クロードだって、ロロを抱えて屋敷まで走ったのだ。それだけで相当濡れただろうに、顔色ひとつ変わらない。性格の悪さも健在だ。


「この件で貸しを作ったなんて思うなよ」


「そんなことをわざわざ忠告するために、わたしが起きるのを待っていたの?」


 彼は顔に手を当て、大げさにため息をついた。


「ロロがあんな、訴えかけるような目さえしなければ、こんなところになんか……」


 この男はなぜこう、腹の立つ言い方しかできないのか。


「わたしだって起き抜けにあなたの顔なんて見たくないわ」


「それはこちらの台詞だ。自分の顔を鏡で見てきたらどうだ? 眉間の皺がひどいぞ」


「そちらこそご自分の顔をご覧になったら? 心根の醜さが表情ににじみ出ているわよ?」


「きみは容姿と頭だけでなく、視力まで悪いのか。かわいそうにな」


 心ない言葉で傷ついたことを悟られないように、リーラは気丈に彼をにらみつけた。


「視力は、悪くないわ」


「ならば見てくれとおつむのほうは認めるんだな?」


「……そうね」


 特別美しくもなければ、頭のほうも十人並みだ。それは認めざるを得ない。


 反論せずうつむくリーラに拍子抜けしたのか、クロードはそれ以上追求してはこなかった。代わりに、使用人に持って来させたリゾットを押しつけて、食べろと命じてくる。


「ロロに作ったもののあまりだ」


 それをわざわざ口にするのが、この男のこの男たるゆえんだ。


 しかしある意味、ロロが先に毒見してくれたとも受け取れる。その後でなにかしていなければ、の話ではあるが。


 一口食べてみると、犬の味覚に合わせてか薄味で、案外おいしかった。犬用でも全然いける。食べ終わるまで監視されるのにも、もう慣れた。空腹とはしばしのお別れか。


 せっかくの機会だ。リーラは彼の真意を聞いておこうと思った。


「あなたはわたしのことを、追い出したいの? それとも飼い慣らしたいの? ……わたしを、どうしたいの?」


 いまいち彼の意図が掴めない。リーラの死を望むのなら、ロロの願いとはいえ、あのまま置き去りにすればよかったのだ。結果的に死ななかったにしても。


 おそらく殺す気まではないのだろう。彼自身が暴力を振るったことは一度もない。使用人たちにしても、危惧していたような暴力的な行為は今のところなかった。アイビーに頰を打たれた一度を除いては。


 ならば、精神的に追い詰めることを目的としているのだろうか。


 それに一体どんな意味があるのか。


 リーラは初対面の日以来、はじめてまっすぐ彼の目を見た。深い海の底ようなその瞳の奥には、不幸を知る者特有の諦観した暗さがあった。


 リーラの心の根底にもあるその闇が、一瞬だけ垣間見えた気がした。


「きみは俺のものだ。どうしようと、文句を言われる筋合いはない」


「書類上はそうかもしれないけど、わたしはわたしのものよ。わたしの痛みや苦しみ、過去と未来までをも、あますところなくすべて引き受ける度量もないくせに、そんな傲慢な台詞吐かないでくださる?」


「傲慢はそっちだろう。それだと俺ばかりが損をすることになる」


「貧乏くじを引いたのはあなた自身でしょうに」


「かわいくない女だな」


「なによ、あなたこそ、自分で思っているよりも全然かっこよくないんだから。みんな騙されているみたいだけど、わたしはあなたが嫌い。あなたのことを好きになる人の気が知れない」


「へえ……?」


 クロードの目が据わった。プライドを傷つけたことに満足していると、彼が急にベッドに乗り上げてきた。


 驚く暇もない。


 あっと思ったときにはなぜか、リーラの唇は奪われていた。






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― 新着の感想 ―
クロードも子どもの頃は酷い環境に居たみたいだけれど、それなら尚更リーラが置かれていた境遇に気づくべきでは。 リーラ、簡単にほだされないでね! クズ男には、ぜひとも長〜く深〜く後悔してもらいたい(性格悪…
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