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帰り際、ぽつりぽつりと降りはじめた雨は、屋敷に着く頃には本降りとなっていた。
リーラは部屋で濡れた髪を布で拭いながら、大きな雨粒が音を立てて地面に叩きつけられているのを眺めて、セトの言葉に従い早めにお暇させてもらってよかったと胸をなで下ろす。
あの雨の中走ってきたら、ずぶ濡れの濡れねずみになっていただろう。リーラは走るのが苦手だ。
夕飯まではまだ時間がある。雨のせいか冷えて痛む足をさすりながら、しばしベッドに横になった。
騒がしいと気づいたのは、食事の時間の少し前のことだった。
夕刻前に降りはじめた雨は勢いを増して、今や嵐となっている。リーラははじめ、屋敷の裏手にある林に雷でも落ちたのだと思った。しかしそれがクロードの怒鳴り声であると脳が理解すると、一気に目が覚めて飛び上がった。
震えながらシーツを抱きしめ、あたりを見渡す。だが、狭い室内は静まり返っていて、どう見ても自分しかいない。ということは外からか。
あの怒声を向けられたのが自分でないことに、リーラは心底安堵した。
それにしても。
クロードが使用人の誰かを叱責するなど、どれほどの惨事が起きたのだろうか。人でも死んだのだろうか。
彼がリーラ以外に怒りを向けるのは、相当にめずらしい。最初こそ冷めきった氷のような男だと思っていたが、意外と激情家らしい。不思議と怒鳴っている方が、あの男らしくもある。
リーラはドアを薄く開けて、外の様子をうかがった。聞き取りづらいが、使用人たちの声も聞こえてくる。玄関ホールからだ。なにが起きているのか確認するために、リーラはそちらへとそっと足を向けた。
幸いにも誰にも見つかることなく、さっと柱の陰に身を潜める。
玄関ではクロードと、使用人の男たちが悶着を起こしていた。外に行こうとするクロードを引き止め羽交い締めにする使用人たちが、次々と投げられている。
(……なにをしているのかしら?)
リーラが呆れぎみにその光景を眺めていると、マーティンが果敢にもクロードに飛びついた。もちろん人間のほうだ。しかしその姿はまるで、崖の縁まで虎に追い詰められてもはや立ち向かうしか道がない哀れなヤギのよう。
「クロード様、いけません! どうしてもとおっしゃるなら、私どもが参ります! どうかお気持ちを鎮めて、こちらでお待ちください!」
「のんきに待っていろだと? できるか、そんなこと!」
クロードは意外にもしぶとさを見せる年老いた家令をなんとか引き剥がし、フードつきの外套を引ったくった。
こんな雨の中、なにしに外へ行こうというのか。
(別に本人が行きたいと言うのなら、行かせてあげればいいのに)
風邪はひくだろうが、そんなの自業自得だ。
リーラはせせら笑う。クロードが風邪をこじらせたら、煎じた苦ーい解熱剤でも差し入れよう。
「おやめくださいクロード様! ロシェット家の当主は、あなたしかおられないのですよ!」
「ロロだって一匹しかいない!」
「ロロもそこまでばかじゃありません! きっとどこかで雨宿りをして、明日の朝けろっとした顔で帰ってきます!」
ロロと耳にして、リーラはふつりと笑みを消した。
あの愛すべきおばかさんのロロが、どうしたというのか。
まさか。
(まさか……あの人があれほど我を失い、無謀にも雷雨の中に飛びこんで行こうとしているのは、ロロを探すため……?)
雷を怖がる犬は多い。ロロが雷鳴に驚いて、屋敷から逃げてしまったのかもしれない。
「なんてこと……!」
リーラは悲壮感いっぱいに叫んで、混沌とした玄関ホールに身をさらした。ロロが行方不明なのに、こそこそ隠れて彼らを嘲笑っている場合ではない。一大事だ。
突然のリーラの登場に、クロードでさえ軽く目を見張ったが、すぐに興味を失ったようにそらされた。彼の意識は今、外にしかないのだ。しかしそんなことはどうでもいい。リーラも同じだからだ。
「そんなところでごちゃごちゃ押し問答している暇があるなら、早くロロを探しなさいよ! この役立たずども!」
リーラはずかずかクロードの前まで大股で歩いていくと、その手にあった外套を引ったくった。ついでにマーティンを、きっ、とにらみつけて。
「どこかに隠れていて、明日帰って来るですって? このっ、ねずみにも劣る薄情者! ロロは雷に怯えて今頃パニックで震えながら道に迷っているはずだわ。この土砂降りの中ね! ずぶ濡れで一晩外で過ごすことがどれだけ寒くて寂しくてつらいかなんて、ぬくぬく育ったあなたたちには到底わかりっこないでしょうがね!」リーラはあっけにとられている使用人たちをねめつけ、さらに声を張り上げた。「ロロはどっちに行ったの!」
戸惑っているのか、本当に知らないのか、互いに顔を見合わせながら誰も口を開かないことに、リーラは焦れた。
「あなたたちはなにをしてお金をもらっているの! なぜ誰も見ていないの! それとも、わざとロロを逃したの?」
疑いを向けた途端、リーラが敵であることを思い出したのか険悪な雰囲気になったが、そこへクロードが加勢した。彼はロロのためなら、悪魔にさえ魂を売り渡すことだろう。
「ロロがどっちの方角に逃げたか、知っている者は?」
それにひとりがためらいながら答えた。
「は、林の方へと走って行くのを見ました……」
なぜそのときに追いかけなかったのだと腹が立ったが、今さら言っても仕方ない。
リーラは手早く外套を身にまとうと、はやる気持ちでロロ捜索のために外に駆け出したが、寸前で襟首を掴まれ、たたらを踏んだ。引き止めた相手をにらみ上げる。
「俺が行く。きみは引っこんでいろ」
「あなたこそ引っこんでいなさいよ」
「ロロは俺の家族だ! 俺が行くのが道理だろう!」
「だからなに? ロロはわたしの友達なの! 友達の窮地に駆けつけない友達なんていないわ!」
「友達だと? きみをロロの友達にした覚えはない!!」
「それはあなたが決めることじゃないの、ロロが自分の意思で決めることよ! ロロを探したいのなら勝手に行けばいいじゃない。わたしはわたしで探すから」
こんなところで無駄な時間を潰したくない。外套を突き返して、リーラは玄関を開けた。風が吹きつけて、ドアが全開となる。雨粒が綺麗に磨かれた床を勢いよく濡らす。そんなことより、ロロが心配だ。
「おい、本気で行く気か? それともそれで恩を売ろうという魂胆か? 迷って野垂れ死ぬのが落ちだぞ」
見当違いなことを言うクロードに、リーラは顔をしかめた。
ロロを助けたいというこの純粋な思いを汚された気分だ。
「ロロのために死ねるなら、それで構わない」リーラは小さくつけ加えた。「だってこの家でわたしを歓迎してくれたのは、ロロだけだったもの……」
待て、というクロードの制止に、リーラは一度も振り返ることなく、雷鳴轟く雨の下、ぬかるんだ地面を深く蹴った。
あれはまだ、キンブリー前子爵が生きていた頃のことだ。
リーラとヴェルデを、それこそ生まれたときからごみのように扱っていたキンブリー前子爵だが、姑息なあの男はそれをうまく隠して対外的には子煩悩な父親を演じていた。目に入れても痛くないとばかりに、優秀なかわいい子供たちだと、恥ずかしげもなく誉めそやしていたらしい。
それはすべて、将来的にリーラたちを貴族や裕福な商家に縁づかせるための布石で、そのためだけに、あの男は息をするように嘘をつき続けていた。
本当に嘘のうまい、外面がいいだけの男だった。
リーラたちを粗雑に扱えば扱うほど、いかにできた子供たちかを吹聴して回った。
そのせいで幾度となく、年の離れた長男の反感を買い、屋敷を追い出されては厩舎で過ごした。
あれは寒い雨の日のことだった。その日も屋敷から蹴り出されて、ふたりはいつものように厩舎へとたどり着いた。
濡れた身体からは体温がみるみる奪われ、かちかちと歯を鳴らしながら、震える身体を寄せ合い、藁をかぶって互いを温め合った。もしかすると死んでいたかもしれない。見かねたのだろう。厩舎の馬が、まだ幼いふたりに寄り添った。
人間は残酷な生き物だ。たとえ後ろめたさがあったとしても、最後には保身を選ぶ。そして、それがいかに人道的な行為でなくても、感覚が麻痺してしまえば、正しいことのように子供にさえも手を上げる。キンブリー家の使用人は、そういう良心の麻痺した人間たちだった。
リーラは彼らのようにはなりたくなかった。最後に自分を選ぶような情のない人間には。
しかしリーラには、自分だって凍えているのに妹に自分の藁を差し出すことを厭わない兄や、次の日鞭打たれるかもしれないのに体温をわけ与えてくれる馬のように気高くはなれない。一生無理かもしれない。
だがせめて、自分に優しくしてくれた人に、それ以上の恩返しができる人間にはなりたいと思う。
ロロが向かったと思われる屋敷の裏手に広がる林には、足跡などの形跡はすでに洗い流されてしまい、どちらに行ったのか皆目見当もつかなかった。
「ロローー!! どこにいるの! 返事をして!!」
とにかく雷鳴に負けじとロロの名前を呼ぶ。
しかし真っ暗な林では、自分がどこにいるのかさえわからない。リーラはスカートを歯で細く噛み切り、一定間隔で木の枝へとくくりつけながら先を進んだ。
「ロロー! お願いだから返事をして!」
どれだけ歩き回っただろうか、意地を張って外套を突き返したせいでずぶ濡れの体からはどんどん熱が奪われる。靴は泥だらけで、スカートはもう半分ほどの長さになっていた。
声が枯れて、それでもロロを呼びながら、犬が身を潜められそうな場所を必死でかきわけ探した。
もしかするとロロはもう屋敷に帰っているのかもしれない。それならそれでいい。だがそうでなかったら――。
リーラが一際声を張って叫ぶと、かすかにだが、くーんという鳴き声が聞こえた。気のせいだろうかと、もう一度呼ぶ。するとまた、くーんと、今度はさっきよりも大きな声が聞こえてきた。
耳を澄ませてその声の元をたどる。樹齢数百年を超えていそうな大きな木のうろの奥から、ひんひんと切ない声。リーラが身をかがめてのぞき込むと、きらりと光るふたつの目。そこには打ちひしがれたように、ロロが小さく丸くなって震えていた。
「ああっ……! もう、ロロ!」
リーラは這ってうろの中へ入ると、ロロをぎゅっと抱きしめた。
「よかった! もう大丈夫よ、ロロ。大丈夫。わたしがいるわ。寒いね、怖かったね。ふたりなら大丈夫だからね」
まだ外は激しい雷雨だし、帰り着くまでにどれほどの時間がかかるかもわからない。だけどリーラは大丈夫と何度も言って、弱り切ったロロの身体をさすり励ました。
とはいえ、実際問題、このまま朝までもつだろうか。
リーラも、ロロも。
ロロを見つけてほっとしたせいか、急に不安が頭にもたげてきた。
「ロロ、動ける?」
きゅーんと鳴くロロは、腰が抜けているのかその場から立ち上がろうともしない。
リーラが抱いていくには、ロロは重すぎる。
「ここで死んだらマーティンを恨むといいわ。人間のよ。わたしはあの人を恨むから」
ロロが悲しげな眼差しを向けてきて、リーラはその鼻先から頭をなでてやった。
「そうね。あれでもあなたのご主人様よね。ロロがそう言うのなら、そんなに恨まないことにするわ」
ロロが頭を膝に擦り寄せてくる。たぶん感謝しているのだろう。健気な犬だ。飼い主はクズなのに。ロロがぱっと顔を起こすので、心の声がもれ出ていたのかと、どきりとした。
「ロロ?」
ロロが、わん、と吠えた。腰が抜けたまま、わんわん、と何度も。
ここにいるよと、誰かを呼んでいるかのように。
リーラがそう気づくのと、その声が聞こえたのは同時だった。
「ロロ! そこにいるのか!?」
灯りを掲げて、クロードがうろの中をのぞき込んだ。腕からは滴をしたたらせているが、頭からすっぽりかぶった分厚い外套によって、リーラたちの半分も濡れていない。彼はリーラが枝に結んだスカートの切れ端をいくつか握っていた。それをたどってここまで来たようだ。
「大丈夫か!?」
クロードはリーラには目もくれず、ロロを引きずり出すと外套を脱いで冷えた身体を包みこんだ。ロロは彼の頰を、弱々しくぺろりとなめた。探しにきてくれてありがとうと言っているようで、リーラは微笑ましくそれを眺めた。
クロードは抱えやすいようロロを抱き直して、忘れていなかったのか、リーラへと声をかけた。
「ロロが世話になった。……礼を言う」
リーラは目をぱちくりとさせて、まじまじとクロードを見た。お礼を言うなんて、明日はもっと嵐になるのだろうか。
「後で誰かを来させる」
驚いているリーラにそう言い残し、彼はロロを連れて土砂降りの中を颯爽と走っていった。
クロードの姿が見えなくなると、リーラは安堵と疲労と寒さとで、意識が朦朧として壁にもたれるようにして倒れた。
どうせ誰も来てはくれないだろう。
期待なんてするだけ無駄だ。
しばらく眠って、起きたとき、自分はどこにいるのだろうか。このうろの中か、それとも、死後の世界か。
どちらでも同じ気がして、リーラは苦笑し、そのまま意識を手放した。