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 朝食はあたたかいパンと、こんがりよく焼けた卵とベーコン。苦い思い出しかない野菜のスープ。そして、クロード・ロシェットのそっけない顔。


 それがリーラの新しい日常になってしばらく。


 会話はなくとも、食事は進む。新聞に目を通し終えたところで、彼はリーラがいたことを思い出したのか、それとも単なる気まぐれか、めずらしく話しかけてきた。


「あれだけ嫌がっていたのに、どういう心境の変化だ?」


「お腹いっぱい食べる機会をふいにするのは、少し惜しいと考え直しまして」


 食べるようになってから、身体の調子はすこぶるよくなった。多少腐ったものを出されても、もとより胃腸の強いリーラが腹を下すことはない。ごみでさえためらいなく口にできるのだから。


 マーティンたちは相変わらず厨房を引っ掻き回しているようで、ねずみの噛み跡のついた野菜やチーズを出されることがままある。きっと寝ずの番をする使用人たちをおちょくっては遊んでいることだろう。リーラは気にするそぶりもなく、平然とそれに口をつけた。


 食べたらすぐにセトのところに行って、店の手伝いをする。そして夕刻、なに食わぬ顔で屋敷に戻り、夕食。身体を動かすからかたくさん食べる。そして夜は、こんこんと眠る。


 単調な生活なのに、不思議と充実していた。


 しかし幸せかと訊かれたら、そうでもない。


 まだ努力が足りないのだろう。


 クロードや使用人たちの前で笑顔になれるほどの心の余裕はない。


 忙しくしているおかげで、使用人たちと顔を合わせることも少なく、常にほかごとを考えているせいか、特に会話のないクロードとの食事もいつからか苦痛ではなくなっていた。


 薬師という仕事は、リーラが思う以上に知識と経験が必要とされるもので、その手伝いとはいえ、覚えることがあまりにも多い。


 取って来いと命令された薬草を間違えたときのセトの叱責はこの屋敷の使用人の比ではなく、それでも、怒られるだけの理由があるとないとでは、こちらの受け止め方も変わってくる。


 いつか完璧にこなせるようになったら、助手にしてもらうのだ。そのために今は知識を広げている最中である。


 まだ見ぬ未来に思いを馳せながらぱくぱく食べ進めていると、クロードの怪訝そうな視線が自分に注がれていることに気づき、リーラはぴたりと手を止めた。


「なんでしょう?」


「男でもできたか?」


 はじめ、言われたことの意味が理解できなかった。


「……それは、どういう意味、でしょうか?」


「いいか、少しでも男の影を見せたら、即離縁だ。借金も残りを一括で返済してもらう。わかっているな?」


 リーラはカッと目を見開いた。


 ありえない。不貞を疑われているのだ。これまでなりを潜めていた怒りが濁流になってどっと押し寄せてきた。


 冷ややかに言い捨てたクロードは、丁寧に新聞を畳み、テーブルの端へと置いた。その几帳面さがなぜかリーラの苛立ちに拍車をかけた。


(自分のことは棚に上げて!)


 初日から不貞をしているのはそっちではないか。


(どれだけ……どれだけ、わたしを貶めたら気がすむの?)


 リーラはすでに、男という生き物に幻滅し尽くしている。恋することなどとっくの昔に諦めている。


 この男は、どれだけ腐った人間なのだろう。それでもリーラの夫は、ロシェット伯爵ただひとりだ。彼を愛せないなら、誰も愛することは叶わない。


 妻の不貞を疑う前に、己の周囲を潔白にしてから物を言え。メイドに手を出すような、この男にだけには、そんなこと言われたくない。


「あなたなんかと一緒にしないでっ……!」


 リーラは怒りの形相でテーブルに両手を叩きつけると、食事も半ばで席を立った。ナプキンを投げて。


 たとえ空腹になっても死んでも構わない。


 あんな男、二度と顔も見たくない。









 肩を怒らせ部屋から出て行ったリーラを横目で眺めつつ、クロードはマーティンを呼び寄せ指示した。


「あれに見張りをつけろ」


「承知しました」


 彼はさっそく手近な者にリーラの後をつけるよう命令する。


 屋敷に出入りする領民たちの世間話に耳を傾けていれば、情報はいくらでも入ってくる。薬師のセトのところに、最近、黒髪で藤色の目をした若い娘が出入りしていることも。


 本気で不貞を疑っているわけではないが、それは現時点でのことだ。セトのところの客にも若い男はいる。


 クロードはこの通り冷たくて、使用人も右に同じ。とすると、優しくしてくれた男に靡くこともあるだろう。


 誰かと恋仲にでもなれば、彼女を、ひいてはキンブリー家を追い詰めるための材料となる。


 彼女の幸せを目の前で奪ってしまえば、少しは気が晴れるかもしれない。


(それにしても……仮にも夫に対して、あの頑なな態度はなんなんだ)


 媚びろとは言わないが、もっとおとなしい娘だと聞いていただけに、騙された気分だ。噂は当てにならないということかと、調査のあまさに苦笑する。


「返済のほうは?」


「今月もきっちり支払われておりますよ」


 クロードは貸付金の納付書を見せられて、形のいい眉をひそめた。


 賭博に女に悪い評判しかなかった前のキンブリー子爵とは違い、堅実な領地経営をしているヴェルデは、当初取り決めた額よりも多く返済している。


 キンブリー前子爵を陥れるために簡単に返せないような額を貸しつけ、違法すれすれの利子をつけてあったのにだ。


 こつこつ真面目にやりくりしても十年はかかると見積もっていたが、このままだと五年、いや、三年以内に利子まで完済するかもしれない。


(よほど大切な妹なのだろうな)


 クロードにとってのロロのようなものか。


 それならば返済を終えたとき、そのかわいい妹の性格が変わってしまっていたら、どうなるだろう。


 かつての妹がすでに失われていたとしたら。


 その絶望はどれほどのものか。


 キンブリー家の崩壊を想像し、クロードは暗い笑みを浮かべた。











「あんな男っ、不能になってもげてしまえばいいのに!」


 小さな店内にいた常連客のオットーが、ぎょっとしてリーラを振り返った。


「あんた、いいところの娘だろうに、その台詞はまずいんじゃないかい?」


 セトのたしなめをリーラは聞き流した。ヴェルデが聞いたら泣くだろうが、幸いキンブリー領はここから遠い。


 セトはにやにやしながら薬草を計り袋に詰めて、なぜか切ない表情をしているオットーへと手渡す。


「また旦那か愛人とやり合ったのかい?」


「え、リーラちゃん結婚してたの!? ショックだぁー……。俺、狙ってたのに」


「あんたは自分の顔を見てからお言いよ。結婚してようがしてまいが関係ないだろうに」


 辛辣なセトに、彼はひどいなぁと笑う。慣れっこなのか、傷つく様子はない。


「でも、愛人? 穏やかじゃないねえ」


「世の中の男は多かれ少なかれそんなもんさ。聖人君子なんてもんは、夢見る乙女の頭ん中にしかいないよ」


 リーラはこくこくうなずき深く同意した。唯一例外がいるとすれば、兄のヴェルデくらいなものだ。


「そんな悲しいこと言うなよセト婆。その旦那だって、ほら、ちょっと色っぽい女にふらふらっとしちまっただけだろう?」


「いいえ? わたしが嫁ぐ前からの仲で、初夜に彼女を寝室に招いてわたしは蔑ろにされました」


「……まじか。なんだそいつ、クズだな」


「ええ、救いようのないクズ中のクズです」


 セトの元に通いはじめてから、リーラの言葉遣いは悪化の一途をたどっている。クロードを形容するものとして、クズが一番しっくり来るのだから、仕方ない。


「せっかくの美人なのに、どんどんセト婆に毒されていくな……。なんか、切ない」


「待ちな、誰が毒だって? こんなところでのんびり油売ってないで、用が済んだらとっとと帰んな!」


 嘆く彼をセトは杖で小突き回す。オットーは腕で顔をかばうようにして平謝り。


「わかったわかったって! ごめんって!」


 セトはふんと鼻を鳴らす。


「わかりゃいいんだよ」


「ごめんごめん」オットーは手のひらを合わせて謝り、カウンターに肘をついてリーラに言った。「それより、その旦那とやら、もったいねーよな。リーラちゃんの魅力に気づけないなんて。見る目ねーわ」


「あの人の前ではいつも仏頂面で、口を開けば嫌味の応酬ですよ?」


「だったらその旦那、落としてやりゃあいい。ちょっと優しくして、にっこりしてみせたら男なんてイチコロさ。それで惚れたところを、手のひら返しで袖にしてやるんだ。どうだ? いい案だろう?」


 それができたらすかっとするだろうが、あの性格を知ってしまった以上、嘘でも媚を売るくらいなら死んだほうがましな気もする。


 それにどれだけ努力したところで、クロードがリーラに惚れることはないように思えた。


「無駄話はそのくらいにして、あんたは本当に帰んないと親父が怒鳴り込んでくるよ。リーラも口ばっかり動してないで、さっさと碾かないか。まだまだ山のようにあるんだから」


 リーラは追加された薬草の山に、う、と呻いた。容赦ない。


 オットーはさすがに長居しすぎた自覚があるのか、じゃあなと手を振って家路を急いでいった。


 ごりごり薬草を碾きながら、リーラはさっきのオットーの提案を再検討してみるが、すぐ却下した。


(わたしに男を籠絡させる魅力があるとは思えない)


 それにだ。クロードはリーラを人だとも思っていないようなのだ。


(本当に借金だけが原因なのかしら……?)


 ロシェット伯爵家がお金に困っている様子は皆無だ。キンブリー家への貸付だって、ロシェット家の財政状況からすれば踏み倒されたところで致命傷にもならない、かすり傷程度の額のはず。


 しかしそれならばなおさら、リーラを娶る理由が見つからない。飼い殺しに近い状況だが、子供を産ませる道具として無体を働かれているわけでもない。


 それがたとえ契約のひとつだったのだとしても、担保なんてはじめからキンブリー領の一部を押さえたほうが早く、比べようもない利になるはずなのだ。


 リーラとクロードは面識さえなかった。それなのに、屋敷の使用人にさえ毛嫌いされるなんて、それなりの理由があってしかるべきではないのか。


 しかし考えても答えは出ない。リーラはクロードのことなどなにも知らないのだから。


「終わったかい?」


 集中していたからか、あれだけあった薬草の山がすべて粉々になって木箱に収まっていた。


「風が出てきたから今日は早めにお帰り。雨が降るよ」


 窓の外を見上げる。さっきまで晴れていたのに、空はすっかりと鈍色の分厚い雲が覆い尽くしていた。






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クロード。またの名をKING OF KUZU。クズの頂点に立つ男 ほんと性格悪いな クズ親の罪を虐げられてた子に贖わせるなよ! と読むたびに怒り心頭。 初めて会った時も令嬢らしくない出立ちだっただ…
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