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こうして泣いたのはいつぶりだろう。
負けを認めたくなくて、お風呂の中で涙を流し切ると、リーラは手早く着替えて部屋へと閉じこもった。
使用人たちがねずみ対策に、交代で厨房に立つことになったせいで、ごみさえ漁れなくなってしまった。
リーラがいくら小柄とはいえ、壁と床のわずかな隙間から出入りできるねずみたちのようにはいかない。
明日から本当に、クロードと食事を共にしないといけないのだ。
お腹が、きゅる……と弱々しく鳴った。今は戦友だった。
リーラは実家から持ってきた服の中でも一番地味なものを選んで、厨房の前を通らないように裏口から屋敷を忍び出た。もし見つかったところで咎められはしなかっただろう。
ヴェルデとこっそり屋敷を抜け出してあちこちの街や村でごみを漁ったことを思い出して、またじわりと涙がにじむ。
あのときはキンブリー子爵に反感を持っていた領民たちがリーラたちの境遇を憐れみ、自分たちも苦しい生活を強いられていたのに、渋ることなく食べものをわけあたえてくれた。
だからこそリーラは耐えなければならない。兄のために。そして、領民たちのためにも。
だけど今日くらい、現実逃避しても許されるのではないか。
ロシェット伯爵は、リーラに対する扱いの中に、過失による暴力を認めた。あれはそういう儀式だった。
(このまま、戻りたくない……)
腕で目元を拭ったとき、なにかにつまずいてリーラは地面へと倒れた。とっさに受け身を取ったので助かったが……。
「痛いじゃないかい!」
その声に驚いて身を起こすと、地面に尻もちをついた老婆が腰を押さえつつ、反対の手で杖をびしりとリーラの鼻先に突きつけていた。
すぐそこに切り株がある。察するに、彼女が休憩していたところにリーラが前方不注意でぶつかって、地面に落とされてしまったらしかった。
「ごめんなさい……あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫なように見えるのかい!」
(しゃんとして見えるけど……)
「なんだって?」
「いえ、なにも」
リーラは慌てて起き上がり、老婆に手を貸す。
「悪いね」
よっこいしょ、とかけ声をつけて立ち上がった老婆は腰が曲がっていて、リーラよりもさらに小さな身体をしていた。
「こんな時間にどうしたの、おばあちゃん」
「誰がおばあちゃんだって?」
ぎろりとにらまれ、リーラが、いえ……と言葉を濁すと、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「セトさんとお呼び。ここらじゃみんなそう呼ぶ。そして質問の答えは、あれだよ」
セトが杖で示したのは、身の丈ほどありそうな籐の籠。これを腰の曲がった老婆が背負って歩くのは、相当に大変だっただろう。
「あんた、もちろん手を貸してくれるんだろうね。ありがとね」
嫌とは言わせてもらえない雰囲気だった。
さっきから押さえている腰も、リーラが蹴ってしまったせいで痛むのかもしれない。贖罪の意をこめてリーラは荷物を背負ったが、思ったよりも軽くて拍子抜けした。
「これは、なんですか?」
「薬草とか、いろいろさ。これでもあたしゃ、腕のいい薬師でね」
先頭を切って歩くセトにリーラも黙々と続く。
彼女の家に着く頃には、月が大きく傾いていた。距離のせいではなく、セトの歩調に合わせたのが一番の理由だった。
「助かったよ。ありがとね。それはそこらに置いておくれ。ちょっと座って待ってなね。今お茶を出すから」
お気遣いなくと言えるほどリーラはできた娘ではない。お腹が空いているだけでなく、喉も渇き切っていた。
セトが出してくれたのは、緑色のお茶と茶受けのお菓子だった。リーラは夢中で食べて、飲んだ。お菓子はもちろんのこと、お茶は苦味があったが深い味わいで思ったよりもおいしかった。
「そのお茶にはね、あんたに足りないものを入れておいたよ」
「……優しさ?」
それとも謙虚さだろうか。
「はっ。誰がそんなふわっとした不確かなもんを入れるんだ。疲労回復に精神安定、それと目の赤みを消す薬草だよ」
リーラは目元に触れた。薄暗くてもわかるくらい腫れているのなら、きっと明日も引かずに残っただろう。使用人たちへの笑いを提供せずに済んだことはセトに感謝だ。
「あんた、どこの子だい? こんな時間にと言ったが、それはあんたにも当てはまることじゃないか」
彼女にはなんとなく嘘がつけず、伯爵家にということだけ伏せて、リーラは聞かれるままに、借金の担保として嫁いできたことをぽつりぽつりとつっかえながらも、すべて洗いざらい話してしまった。
セトは見かけによらず聞き上手でもあり、その間にリーラはお茶を三杯もおかわりして飲んでしまった。
「へえ、そうかい」
「……それだけ、ですか?」
「人様の家庭問題に口を挟むとろくなことにならないからねえ」
セトは達観してそう言うと、ずず、と茶をすする。
リーラはそれ以上追求しなかった。他人と適切に距離を置く。それが長生きの秘訣なのかもしれない。
「あんたはどうしたいんだい?」
(どう……?)
「自分をないがしろにする夫を、見返してやりたいのかい?」
「……そう、かもしれません。あの男も、ほかの人たちも、見返してやりたい」
ちまちま嫌がらせをしたことで少しは満足したが、残ったのは虚しさだけだった。
「それがあんたの、一番の望みかい?」
「……いいえ」
一番の願いはもっと単純なものだ。人が抱くもっとも普遍的な欲求。
幸せになりたい。
人並みでいいから。
「だったらよく寝てよく食べて、よく身体を動かして働くこと」
「ええ? そんなことで? だいたい、お腹いっぱい食べれる時点で結構幸せじゃない」
リーラがすねたように言い返すと、セトは、あっはっはと大口を開けて笑った。
「そらそうだ。あとは笑うことだね。そんなぶすっとした野良猫みたいな顔じゃなく、心からね。そら、口開いて笑ってみな!」
脇腹をくすぐられて、リーラは身をよじりながら大笑いした。
「あは、はっ、や、やめ……あはははっ!」
「そら、そのいきだ!」
笑いすぎて涙があふれた。ひーひー叫んで、喉とお腹が痛くなった。腹がよじれるとは、こういうことなのか。
「おっと、もうこんな時間かい。さあ、そろそろお帰り」
その言葉に突き放されたような顔をすると、セトは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんだいそのしけた面は。またいつでも遊びに来るといい。疲れてぐっすり眠れるくらい働かせてやるからね」
リーラはほっとしてお礼を言うと、セトは、そのいきだよと笑顔で送り出してくれた。
「そうそう。ありがとうとだけ言ってりゃいい。どれだけ重ねても腐らない言葉だからね」
その意味はよくわからなかったが、後ろ髪引かれながらも、リーラは不思議と足取り軽く屋敷へと戻った。
あれだけたくさん笑ったせいだろう。
ベッドに潜りこむと、明日からのことを悩む暇もなく、ことりと深い眠りに落ちた。
ヴェルデとの思い出に助けてもらわず眠りに入れたのは、嫁いできてはじめてのことだった。
翌朝目が覚めると、昨夜のことがまるで嘘のように、リーラは憂鬱で仕方なかった。クロードと食事をともにしなければならないことが苦痛で、昨夜とは違ってお腹がしくしく痛む。早くセトのところに避難したかった。
億劫なまま、それでものろのろと着替えてダイニングへと向かうと、途中、廊下をふさぐようにアイビーが待ち構えていた。
「いい気になるんじゃないよ」
(わたしがいつ、いい気になったっていうの)
むしろクロードに庇われたアイビーのほうがいい気になっているのではないか。
朝から言い合う気力もなく横を通り過ぎようとすると、その前に彼女がまた立ちふさがる。
「クロード様は、あんたが死んだら困るから一緒に食事するだけ。心配してるんじゃなく、迷惑がってるんだよ。だいたい、借金の担保のくせに、女主人だなんて勘違いも甚だしい」
めんどくさいと思って突っ切ろうとしたが、彼女が突っかかる理由がふと思い浮かび、リーラは薄く笑んだ。
「……ああ、そういうこと。あの人と一緒に食事の席につけるわたしのことが、うらやましいのね? あなたじゃ愛人どころか、せいぜい遊び相手くらいにしかなれないものね?」
かっと顔を紅潮させたアイビーに、避ける間もなく左頰を打たれた。
「あんたみたいな身分をかさにきた令嬢が一番嫌いなんだよ! 初夜に見捨てられたのは、あんたにその価値がなかっただけ。この屋敷の誰もがあんたに早く消えてほしいと思ってる。いい加減、現実見たら?」
かっとして、それでもどうにか思いとどまり、手を振り上げるのだけは堪えた。彼女を殴ればクロードはリーラを悪者にするだろう。たとえ先に手を出したのが彼女なのだとしても。
リーラは感情を殺して、今度こそ彼女の脇を通り抜けた。ご忠告どうもありがとう、と、精一杯強がりを残して。
食事の席はクロードの対面だった。一番見たくない顔を真正面から見ながらする食事は最悪だった。いくら見目がよくても、最悪な性格がそれを上回る。
それでも耐えた。
無視されようが、冷たく見据えられようが。
この男を見返してやるには、どうしたらいいのだろうか。
そんなことばかり考えていても、きっと幸せになど指も届かないことだろう。
なんにしても、逃げてばかりでは答えなんて見つからない。
今はすべての物事を冷静に見極めるためにも、体力をつけるためにも、今はこうして、一日二回の食事を摂る。
リーラはやわらかなパンを奥歯で強く噛み締めた。