35
「あんた、とうとうクロード様に捨てられたんだ? ざまあないわ」
アイビーに辛辣なことを言われて、リーラは過去の自分の判断を恨んだ。
少しなりとも真人間になったかと思いきや、全開で素をさらしている彼女に驚きを禁じ得ない。
「兄さん!」
兄に訴えるも、ヴェルデは困ったように笑うだけだ。
「自分を抑え込んでいるのが一番よくないと思ってね。それにアイビーはよく働いてくれるから、すごく助かっているんだよ。もちろんリーラになにかしたら、それ相応の罰を与えるけど……アイビーはそんなことをしないから、大丈夫だよね?」
兄がにこりと問いかけると、アイビーは頰を引きつらせた。一番怒らせたらいけない人物は、ヴェルデのような人だ。それをわかっているのだろう、逆らう気はないようだった。
毒舌ながらすっかり馴染んでいるアイビーにあっけにとられながらも、リーラは懐かしい家でしばらくはのんびりと過ごしていた。
だけど時間が経つにつれて、どんどん不安が押し寄せてくる。
クロードはもう、リーラのことなど忘れてしまったのではないか。実はもう夫婦でなくなっているのではないかと、日に何度も兄に今の状態の確認をするが、帰ってくるのはいつも同じ回答。
「まだ婚姻無効にはなっていないみたいだよ」
それを聞くたびにリーラは心底ほっとする。その宙ぶらりんな状態では、次の結婚ができないとわかっていても、彼がほかの誰かに奪われていないことに安心してしまう。
「リーラ。もし、戻りたいんだったら……」
「いいの」
きっと戻りたいと言えば、ヴェルデは仕方ないなと呆れながらも認めてくれるだろう。
兄はなにより、リーラの幸せを一番に願っている。それがいかに愚かな選択でも、リーラが望むのならば反対することはないはずだ。
それでも、リーラは自ら動くことができなかった。
あの日、唐突の別れにリーラがヴェルデに手を引かれてロシェット家から出て行くとき、何度も振り返って彼に目で訴えたのだ。
行くな、と。引き止めてくれるのを待った。
なのに、彼は悲しい顔をするだけで、なにも言ってはくれなかった。
追いかけて来ても、くれなかった。
結局、彼の中の罪悪感が勝ったのだ。
リーラのためを思って、ヴェルデとともに行かせた。……わかっている。
「あんた暇なわけ?」
アイビーの小言を適当に聞き流そうとしたとき、ふとあることを思い出し、訊いてみた。
「そういえばあなた、あの人に別れ際、なんて言い捨てて行ったの? かなりきついことを言われたって言っていたけど」
アイビーは不快げに顔をしかめる。
「あんただけには絶対に教えない」
まったく性格が悪い。
もうなにも聞くものかとアイビーに背を向けて、リーラは気分転換に兄の馬に乗って丘の原っぱまで走った。
兄とよく遊んだ思い出の場所。野の花が咲いて穏やかな風にくすぐられて、恥ずかしげに揺れている。
沢の水を飲む馬の鬣をなでて、リーラは草の上にごろりと背中から転がった。
のんびりと流れる雲を眺めて、クロードの髪はあの光を帯びた雲の輪郭よりももっと綺麗だったとか、瞳はこの空よりももっと深い青だったとか、性懲りもなく思い出してはしんみりとする。
なにも見たくなくて両腕で顔を覆ったときだった。さくり、とそばで草を踏む音がした。
「そんなところにいたのか」
耳慣れたその声に慌てて腕を外すと、明るさに少しだけ目が眩んだ。手のひらで庇を作る。光を背負って高い位置からリーラを見下ろしているのは、見間違いようもなく、クロードだった。
だが久しぶりに見たその顔は、少しだけやつれていた。
リーラは泣きそうになったのを隠すように、急いで身を起こす。
(来てくれた)
迎えに来てくれた!
喜びで胸が打ち震えるリーラだったが、彼は神妙な顔つきをしている。熱量の差に少しずつ不安がもたげてきた。
「すまない。あの紙、ロロが食べてしまった」
「あの紙……?」
謝罪するクロードにリーラは困惑する。まず、どの紙のことを言っているのかが不明だったし、ヤギならまだしも、犬が紙を食べるのかどうかもわからなかった。
「食べた? ロロが……紙を?」
「キンブリー子爵家から送られてきた紙だ。新しいおもちゃだと思ったらしい」
とりあえずロロが、ヴェルデの送った紙を食べたことだけは理解した。
「ロロヤギさんたら、読まずに食べた……?」
動揺で童謡が頭の中をぐるぐる回る。ヤギの角をつけたロロがもしゃもしゃと紙を咀嚼する光景が浮かんで離れない。
「読みはしたし、ロロもちゃんと吐き出した」
ほら、と見せられたのは、よれよれの紙切れ。ちょっと鼻をつくロロの懐かしいよだれの臭いもする。
目をすがめてにじんだ文字を凝視してようやく、これが婚姻を無効にするために兄に書くように言われた紙だとわかった。
だったら。
彼がここに来たのは、この紙をもう一度リーラに書いてもらうため。
それはふたりの決別を意味する。
案の定彼は言った。
「新しいものに名前を書いてくれないか?」
(終わりにする気なのね……)
期待した分、落胆はひどかった。
だけど感傷に浸るのは後回しにした。
「わかったわ。新しい紙をちょうだい」
手を差し出すと、クロードは上着の内ポケットから三つ折りにした紙を取り出して手渡した。
少しでも長く彼と繋がっていたくて、指がゆっくりとそれを開き――。
「……え?」
リーラは瞬いた。予想していたものと内容が違ったのだ。
「これ、婚姻証明書……?」
一度書いたのでよく覚えている。あのとき書いたものと寸分違わぬものがリーラの手の中にあった。
短時間での感情の浮き沈みが激しすぎて、これにどう反応すべきか戸惑ってしまう。また期待して違ったとき、今度こそ立ち直れない気がした。
「……間違えてない?」
「間違えるわけないだろう」
クロードは断言する。
「だって、これって……」
リーラはもう一度婚姻証明書へと目を落とした。クロードの名前はすでに記入してある。空欄は妻の名前のところだけだ。
(まさか――)
「誰かと、結婚することになったの……?」
「なぜそうなる! きみとに決まっているだろう!」
「だって……」
嬉しいはずなのに、気持ちがまだ追いついていかない。
クロードは気まずげに隣へと腰を下ろした。肩の触れる親密な近さ。それを嫌だと思っていた頃の自分が懐かしく思うくらい、普通の距離感になっていた。
「マーティンに言われた。今の俺は……父親にそっくりだと。母に捨てられたと思い込んで、体を悪くして死んだ父と、まったく同じ顔をしていると」
「それは……」
因果は巡る。リーラだってクロードを見たとき、やつれたと思った。マーティンが心配するのも当然だ。彼の父親のことをそばで見てきたのなら、なおさら。
「俺はたぶん死ぬ。きみがいないと。これがきみの復讐ならば、黙って受けるが」
「そんなこと望んでないわ!」
死んでほしいとは一度だって思ったことがない。
クロードはほんのわずか目を見張ったが、すぐに優しげに微笑んだ。
「だったらそこに、名前を書いてくれないか」
今すぐにでもペンを掴んで名前を書いてしまいたいと思っても、どこかでためらう自分がいた。
「わたしはきっとあなたを許せない。これから先、何度もあなたを傷つけることになる。……嫌なの」
「傷つければいい」
「なに言って……」
「ずっとそばで傷つけてくれればいい。俺のことを思って離れていくより、ずっといい」
リーラが婚姻無効の書類に名前を書いた理由を彼は正確に読み取っているようで、羞恥から素直に認められずにもごもごと言い返す。
「別にあなたのためとかじゃ」
「そうか? きみは俺のことが、結構好きだろう?」
図星を突かれて窮する。たぶん自慢の容貌のことを言っているのだろうが、リーラは反論することができなかった。
「きみの兄には感謝している。おかげで偽りの夫婦関係は終了した、わけだろう? だからこれから……また新しく、はじめてみないか?」
まごついていると、クロードは立ち上がって正面にやって来ると、片膝をついてリーラの手を取った。左手の薬指に、華奢な銀色の指輪がはめられる。その指先がわずかに震えていることに気づいて、思わず顔を上げた。
いつもの自信にあふれたクロードではなく、緊張した面持ちで言った。
「今度こそ本当に、俺と結婚、してくれませんか?」
指輪を陽にかざしてみる。クロードの髪と同じ輝き。嬉しさも相まって、思わず噴き出してしまった。
「なぜ笑う」
「だって。あなたって、本当に自分が好きなのねって」
「うるさい! 返事は?」
噛みつくように答えを求めるクロードにますます笑ってしまう。弱気な彼よりもこの方がずっと彼らしい。
「わたしのこと、好き?」
「……言わない」
「わたしはあなたが思っているより、ずっと好きよ」
クロードが大きく目を見開いた。自分でそう自信満々に言っていたくせにと、また笑う。
人の感情なんて複雑で、愛しているから憎むこともあるし、恨んでいても好きになることだってあるのだ。
幸せだって人それぞれで。
これは幸せ、これは不幸せ、などと細かく分別できるものではない。
だから今。
自分がどうしたいか。
ふと、セトの言葉が蘇る。
笑っていればいい。結局それが幸せの答えなのだから。
*
穏やかな晴天に恵まれたその日、花嫁を乗せた一台の小さな馬車がロシェット伯爵邸へと向かい、ひた走っていた。
貴族の馬車にしては質素なものではあったが、その訪れを今か今かと待ち続けていた街の人たちは見逃すことなく、思い思いの紫色のものを掲げて彼女を歓迎した。
紫色の花、薄紫のリボン、藤色のハンカチ……。それは伯爵夫人となる少女の色だった。
後ろ髪引かれるようにゆっくりと速度を落として走る馬車は、昼過ぎ、ようやくたどり着いた伯爵邸の藤色の花のアーチをくぐって、停車した。
降りて来た彼女をいの一番で出迎えたのは、ロシェット伯爵家の番犬、ロロ。
そして、すべての使用人たち――。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
「ようこそ、リーラ」
ずらりと並んだ使用人たちの間から姿を現したロシェット伯爵は、満面の笑みで最愛の妻となる少女をその腕に抱きしめようとした――が。
彼女が寸前でかがんだせいで、その両手は行き場をなくし、むなしく空をかいた。
「……」
「ありがとう、ロロ」
今日から正式に伯爵夫人となったリーラは、じゃれついてきたロロと思う存分に熱い抱擁を交わし、それから――ふと、棒立ちとなっていた彼らを見上げ……。
この雰囲気をぶち壊す一言を容赦なく投じた。
「この茶番は一体なんなの?」
すべての顔がぴきりと凍りつく。
よくわからないが街の人たちが歓迎してくれたのは純粋に嬉しかった。伯爵夫人だと素性を黙っていたのに、みんなあたたかくリーラの帰りを迎えてくれた。その中にセトやオットーなど見知った顔を見かけ、涙ぐんでしまったのは自分だけの秘密だ。
そしてロロ。ロロはいつもどんなときでもリーラを大歓迎してくれる貴重な存在。大好きだ。
しかし――。
「あなたたち、無理しなくてもいいのよ? どうぞ、仕事に戻って」
パンパンと手を打ち、はい解散、と言うと、使用人たちはあっけないほどすんなりと仕事へと戻って行った。主人の命令だから仕方なく従ったというのが丸わかりな態度で、むしろ清々しいくらいだった。
そうして残されたのはロシェット伯爵ことクロードただひとり。その秀麗な顔には、はっきりと落胆の色を浮かべていた。
「茶番って ……。きみを喜ばせたかっただけなのに」
「そろそろあなたの価値観とわたしの価値観のすり合わせをしていかないとね」
ますます消沈していくクロードを、意地悪なリーラは心ゆくまで堪能してから、背伸びをしてその頰へと唇を寄せた。
「ようこそ、じゃないでしょう?」
ようやくなにを求められているのか気づいたクロードは、両腕を広げて今度こそリーラをしっかりと抱きしめた。
「おかえり、リーラ」
彼の胸に頰を寄せて、リーラはくすぐったく思いながら、昨日の晩から用意していた台詞を口にした。
「ただいま、クロード」
どちらともなく顔を寄せる。
ロロが自分もいるよと吠えて訴えるまで、ふたりは長く口づけ合ったのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
あと1話、番外編っぽいお話があるので、そちらもおつき合いいただけますと幸いです。




