33
あまりに反応がないことに、次第に不安が押し寄せて来た。
頰にキスくらいあいさつの範疇だ。なのに硬直するほど嫌だったのかと思うと泣きたくなった。
「ごめんなさい、もう――」
しないわ、と続く言葉は、クロードの唇によって奪われた。強引さのない、優しく触れるだけのもの。リーラが少しでも嫌がるそぶりを見せれば、すぐに離してくれただろうやわらかさ。
幾度かついばまれ、驚いた顔のまま離れた唇から目を離せずにいると、頰に苦々しげな吐息が触れた。
「嫌がってくれないと……期待する」
クロードはリーラの手首を掴むと、突き放しやすいように自分の胸へと手のひらを当てさせた。
拒まれることを望んでいるかのようなその行動とは裏腹に、添えるだけの力で触れたリーラの手のひらには、彼の早い鼓動が伝わって来る。どくどく脈打つのを肌で感じて、腹の奥からぞくぞくと震えた。
期待するということは。
それは、つまり――。
自分の中で、ふつりと理性が切れる音を聞いた。
今このとき、彼はリーラを求めている。ほかの誰でもない、リーラを。彼の身にあれほど深く刻まれた罪悪感が、一瞬でも隅に押しやられるくらいに、強く。
リーラは恥じらいから少しだけ目を伏せ、それでも、両腕は確固たる意思を持って彼の首へと回した。見つめあったのは、ほんの一秒。それからは箍が外れたように口づけが深まった。
クロードの手がリーラの背中を滑り、腰にあるリボンへと触れた。結び目をいじっていた指が、いたずらにリボンの端を下へ引く。
あ、と薄く開いた口を、またふさがれる。
ただの飾りなのでドレスがはだけるようなことはないが、リボンがなくなったことでより、彼の手から伝わる熱を感じる。
ふたりして夢中で唇を重ね続けた。はじめての大人のキスに、呼吸の仕方がわからず、リーラが空気を求めて喘ぐまで、ずっと。
余韻に浸りながらも名残惜しく離れると、彼も似たような切実そうな瞳でリーラを見つめていた。荒い息が整う前に、冷静になってしまう前に、尋ねた。
「わたしのことが、好き、なんですか……?」
「俺は……」
答えようとしたクロードだったが、きゅっと眉を寄せると口をつぐみ、強くリーラをかき抱いた。そうしないとどこかへと行ってしまうとでもいうように。決して言葉にできない思いを、その行動で伝えるように。
泣きそうな、後悔にぬれた言葉が、ふたりの間にぽつりと落ちた。
「……はじめから、やり直したい」
「……それ、は……」
ときを戻せる術は誰にもない。巻き戻せないからこそ今があるのだ。今のふたりがいるのだ。
「無理なのはわかってる。自分が一番よく、わかっている。……大丈夫だ、許されるとは思っていない。今のは気にしないでくれ」
なにも言えないまま、リーラはクロードに抱き上げられた。もういつもの彼に戻ってしまっていた。それを寂しいと思う反面、ほっとした。彼が苦しんでいる姿を見るのは、やはり苦しい。それが自分のせいだと思うと、なおさらだ。
「ああ、そろそろ戻らないと。なにを言われることやら。……それと」
クロードが窓の下をのぞいた。必然的にリーラにも外が見えた。さっきの少女がそこで佇んでいた。暗がりでもわかるくらい頰を赤くして、目も泳いでいる。
(全部聞かれていたの……?)
火が出るほど恥ずかしい。八つ当たりでクロードの胸をぱしりとはたいた。
「きみ、もし今回のことで解雇されるようなことがあったら、うちに来るといい。三十一番地区にある、ロシェット伯爵邸だ。門の脇に大きなプラタナスの木がある」
真面目な顔をするクロードには先が見えているようだった。
クロードに脅されたあのろくでなしたちがそう簡単に心を入れ替え更生したとも思えない。クロードに手を出せない代わりに、彼女に怒りの矛先を向けないとも限らなかった。
悔しいが、配給女ひとり辞めさせることくらいたやすいことだ。
それでもクロードの提案のおかげで、彼女が路頭に迷うことはないだろう。自意識過剰かもしれないが、リーラのために彼女に慈悲をかけてくれたように思えた。
クロードはそのまま颯爽と身を翻す。去り際の一瞬、リーラはまたひとりの憐れな少女がこの男に落とされたのを垣間見、深々とため息をついた。気障すぎる。どうしてこういうときはすらすらと言葉が出てくるのか不思議だった。
「どうかしたか?」
「……いいえ」
きょとんとするクロードに、天然なのかと呆れてしまう。
妻が靴擦れをしたから帰りますと平然と言い切ったクロードに、主催の伯爵夫妻は笑いを隠せない様子だった。
クロード・ロシェット伯爵は愛妻家。
真実がどうであれ、そう噂が広まるまでさほど時間はかからないだろう。
――そうして。
とうとうこの日がやって来た。
きちんと代理人立ち会いのもと、クロードが書面で今回の返済額をしっかりと確認し、うなずいた。
「確かに。これですべて完済だ」
リーラはソファに並んで座っていたヴェルデに抱きついた。
「兄さん!」
「ああ、リーラ! 本当に、つらい思いをさせてごめん!」
「なに言ってるのよ、お金を返していた兄さんの方がずっと大変だったじゃない!」
「かわいい妹のためならなんだってする。それが兄というものだよ。僕がつらかったのは、リーラがつらい思いをしていないかと考えるときくらいだったよ」
「兄さん……」
涙をにじませ、リーラとヴェルデはひしと固く抱き合った。
ごほん。無粋な咳払いにそちらを向くと、忘れられていたクロードが不機嫌そうに兄妹の抱擁が終わるのを待っていた。
ヴェルデは抱擁をほどくと、姿勢を正してクロードを見据えて確認した。
「これでリーラは自由ということになりますよね?」
「……ああ」
クロードの目に陰が降りる。
リーラはもはや担保ではない。望めばクロードと離縁し、新しい道を歩くこともできる。
「僕はリーラを連れて帰りたいと思っています」
兄がそう言うであろうことはあらかじめ予想がついていた。だから驚くことはなかった。クロードもそうなのだろう。ただ粛々とその言葉を受け止めて、それからリーラを見た。すべての決定権はリーラにあるというように。
彼は、リーラが帰ると言えば、おとなしく受け入れるつもりなのだろうか。
「きみは、どうしたい?」
「わたしは……」
すでにたくさん考えて考えて考え尽くして。
なのに頭では結論が出なかった。
だからもう、間違っていてもいいと思った。
自分がこうと決めた道が正解かどうかなんて誰にもわからない。
幸せは、人によって形を変える。
だからリーラは、最後は自分の信じる道を選んだ。
「わたしはやっぱり、あなたを許せないと思う」
こちらもわかっていたのか、クロードが顔色を変えることはなかった。
「許す必要はない。許されないだけのことをしたんだ。きみが恨むのも当然だし、復讐されても仕方がないと思う」
――復讐。
そんなものがなければ、これほど苦しむことはなかった。
だけどそれがなければ知り合うことすらない遠い人だった。
「わたしに、復讐されたいの?」
「……そうかもしれない。結局俺には、償い方なんてわからなかった。きみに復讐されるのなら本望だ。それにその間は……繋がっていられるだろう?」
借金の返済を終えた今、もし離縁したら、ふたりの間にはなんの繋がりもなくなってしまう。
おどけたように言った彼の声が少しだけ震えていた気がして、リーラは胸が締めつけられた。
好きなのに。
夫婦なのに。
過去に戻ることは誰にもできない。
もしクロードのためを思うのなら、別れるべきだ。
復讐されたいなんてまともな感覚じゃない。
対等じゃないのだ。
愛しいという思いの裏に恨みや引け目がある限り、普通の夫婦にはなれない。
彼を苦しめ続けるだけだ。
リーラがそう覚悟を決めたとき、黙ってやり取りを聞いていた兄が、うっそりと微笑んでいることに気づき、ぞくりと震えた。
この綺麗な横顔を、リーラは一度だけ見たことがあった。
あれは、キンブリー一家が死んだという訃報を聞いたとき。
ヴェルデがクロードになにかするのではないかと身構えた。だがあのとき、キンブリー一家はすでに崖下で死んでいたのだ。今からクロードに危害を加えるわけではないだろう。
たぶんすでに終わっているのだ。なにかが――。
(なにが……)
ヴェルデは不安げな妹を安心させるように一度頭を撫で、そのままクロードへと穏やかな面持ちで向き直る。
「ロシェット伯爵。あなたはやることなすこと、少々、詰めがあまい」
なんのことかと訝るクロードに、ヴェルデはにこやかに、場にそぐわないのんびりとした口調で、爆弾を落とした。
「あなたとリーラの結婚は、受理されていませんよ」
「は?」
「え?」
ぽかんとするリーラの横で、ヴェルデは懐から取り出した一枚の紙をテーブルへとすっと滑らせた。
「これは国からの、婚姻証明書の不備に関する問い合わせです」
「不備? どれだけ学がなくとも、名前を書くだけなのにそんなミスをするはずがない!」
クロードの反論に、リーラもおずおずうなずいた。名前なんて間違いようがないものだ。
ヴェルデはそんなリーラを優しく見つめて、幼い子供にするように問いかける。
「リーラ。婚姻証明書を書くにあたって、兄さんと何度も名前を書く練習をしたよね? ちゃんと、リーラ・キンブリーって、書いたんだよね?」
「ちゃんと書いたわ。綴りも間違えなかった」
「うん、リーラはえらいね。僕の妹とは思えないくらい、素直ないい子だ。……だけどね? 兄さんがすべて正しいことを教えるとは、限らないんだよ?」
「それは……どういう意味?」
警戒を浮かべるリーラに、ヴェルデはゆるく首を振った。
「リーラ。いいかい? きみの名前は、リーラ・キンブリーじゃない」
「えっ!?」
リーラは生まれたときからリーラという名前だった。ヴェルデのお母さんが名づけてくれたのだ。これは間違いない。
だとするのならば――?
家名が違うことになる。
「そう。キンブリーはやつらの代で途絶えた。今キンブリー子爵を名乗っているのは僕、ヴェルデ・ハーデンだよ」
リーラはうなずいた。それは知っている。ハーデンはヴェルデのお母さんの姓だ。そしてリーラの母には姓がなかった。だからリーラは父親のキンブリー姓を、自分の姓だと思っていた。
それこそ、なんの疑いもなく。
「僕の妹なんだから、きみの名前はリーラ・ハーデン。そう国に登録されているから、こうして確認の書類が届いて……それを僕は放置し続けた」
つまりね、と兄は微笑み続けた。
「きみたちの婚姻は、成立していないんだよ」
愕然とするリーラとクロードに、ヴェルデは一切の慈悲なくそう告げたのだった。
ヴェルデの復讐




