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 任せておけの言葉通り、すべてにおいてクロードは完璧だった。


 姿から立ち居振る舞いはもちろんのこと、貴族らしくそれでいて人を飽きさせない会話術、ユーモアを織り交ぜつつのさりげない交渉術、あちこちリーラを紹介して回っているように見えて、話しかけるべき相手、話しかけられるべき相手を選んでいるのがリーラにはわかった。評判の悪い相手からの距離の保ち方もうまい。


 人の心の掌握術にも長けているようで、そして令嬢たちからの熱視線をものともせず、妻のリーラにだけ向ける優しげな微笑みに、会場中が微笑ましい空気に包まれた。


 政略結婚が主流で、夫は愛人を抱えるのが当たり前の風潮だが、主催の伯爵も愛妻家と有名な人らしく、リーラを大切に扱う彼の姿勢は好意的に取られたようだった。ちょこんと隣にいるだけなのだが、彼の評判を押し上げるのにひと役買えるのは嬉しい。


(実際大切にされていないとは、思わないけど……)


 大切にされているとは、断言しにくいものがある。


 冷遇されていた時期に比べたら雲泥の差だ。比べるまでもない。


 それでも彼がリーラを利用してこうも他人に持ち上げられているのを見るのは、不満ではないものの、なんとも言えない気分になる。


 あいさつ回りを終えると、一曲だけということでクロードにダンスに誘われた。リーラは考えていたことをその場に置いて、その手にそっと揃えた指を重ねた。


 スローなテンポの曲だが、踊り慣れないリーラは何度も彼の足を踏んだ。その度に、う、ぐ、と彼はうめくが、なんとか平静を保って踊り続ける。しかしその額にはうっすらと汗が浮かびはじめている。


 ダンスが終わったときの心底ほっとした顔に、ほんの少しだけ申し訳なさを感じた。


「これは早急になんとかしないとな……」


「努力次第でなんとかなるもの?」


 クロードは華麗に聞き流した。


 ダンスを終えるとお役御免とばかりにリーラは椅子に着席させられて、ささっと手近な料理を盛りつけた皿を渡された。


「ここで少し休憩していてくれないか? 仕事の話があるんだ」


 クロードは数人で談笑する男性をちらっと見やった。あそこに混ざりたいらしい。引きとめる理由もないので、リーラは皿の上にちょこんと乗ったトマトをフォークで刺して食べた。


「あなたの邪魔はしないわ」


「邪魔ということではないが……」クロードは意地悪げににやりとする。「きみには退屈な話だから、あくびでもされたら困る」


「失礼ね! 興味のあるふりくらいできるわよ!」


「では一緒に行くか?」


 リーラはつまらない話と手のひらの上の料理を見比べた。答えなどすでに出ている。


「おとなしく待っています」


 だろうな、とクロードは呆れた風につぶやくと、目当ての男性の元へと足を向けたが、一度振り返って釘を刺した。


「勝手にうろちょろするなよ」


「もういいから、行って来て。子供じゃないんだから」


 子供じゃないから困ってるんだと、よくわからない小言をもらしながら、今度こそクロードは人ごみへと紛れて行った。


 黙々と食べながらも、どうしても遠くに見えるクロードを目で追ってしまう。この会場の中にはたくさんの綺麗な女性がいる。仕事の話を終えてその人たちのところに行ってしまわないだろうか。彼の行動を終始見張っている独占欲の塊のような自分に嫌気がさして、リーラはとうとう彼から視線を外した。


 屋敷に巣食うはつかねずみの集団などいないだろうかと足元へと注意深く見つめたり、空気に徹する使用人たちを眺めたりする。


 配給をするその中に、綺麗な少女がいた。リーラよりもひとつふたつ下くらいだろうか。まとめた淡い金の髪に、少したれ目な水色の大きな瞳。特別人目を惹く美貌を持っているというわけでもないのに、なぜか目についた。大人しそうで、純粋そう。なぜロシェット伯爵家の使用人には、ああいう子がいないのかと、物欲しげに目で追いかける。


 しかしリーラの目につくということは、ほかの退屈な人間にも目がつくということで。


 彼女が給仕を終えて下がるのを見計らったように、数人の男が会場を出た。胸騒ぎがして、リーラはクロードを探したが、こういうときに限って見つからない。


 言いつけを破ったら後で叱られるだろうが、ちょっとこの場を離れるくらいなら、大丈夫だろう。きっと。


 これだけ大勢の人がいるのだから、なにかあればすぐに人を呼べばいい。


 リーラはそっと会場を抜け出した。






 はじめて訪れた屋敷の勝手がわからず、あっちへこっちへ彷徨い歩いているうちに、はき慣れない靴で靴擦れを起こしてしまい、リーラは仕方なく靴を脱いで指に引っかけた。


 リーラの勘違いならばいい。ただの杞憂ならば。人の屋敷で裸足で走るはしたない妻を持ってロシェット伯爵も大変だと同情されるのなら、それはそれでいい。


 だが胸騒ぎは収まらない。武器になりそうなものを探して掃除道具入れから箒を拝借し、ぺたぺたつき進んでいると、ある部屋から物音がしたの聞きつけてドアに張りついた。静かにノブを回して、そっと中の様子をうかがう。


 明かりの灯っていない薄暗い客間だ。窓の閉まった、少し埃っぽさの残る室内は、月明かりでベッドとカーテンが青白く浮かび上がって見える。


 そして、嫌な予感は的中した。リーラが追いかけて来た男たちの背中が見え、その向こうに追い詰められるように窓際に背をつけた、さっきの少女の姿があった。


 ドアの隙間から、ふと、彼女と目が合う。驚きと、すがるような眼差し。助けて――と、動きかけた彼女の唇はしかし、なんの音も発することなく閉ざされてしまった。


 廊下の方が少しほの明るい。リーラの姿を見て、助けを求めても無駄だと理解し、諦めたのだろう。


 リーラが非力な女であり、さらには貴族であるということで。


(ああ……)


 そんな諦めを宿したうつろな目をする彼女に、リーラはいっとき、記憶にすらない母を重ねてうめいた。


 きっとリーラの母も、同じだったのだろう。


 逆うこともできずに乱暴され、それを訴えることも許されず、望まない妊娠をした。


 絶望したはずだ。


 こんな子供、いらないと思ったはずだ。


 それでも彼女は、産んでくれた。


 だからリーラは今こうして、生きていられる。


 だけど……。


 叶うのならば、すべて悪い夢だったのだと、つらい記憶もリーラの存在もひっくるめて、なにもかもなかったことにしたかったのではないか。


 あのとき誰かが助けてくれれば――。幾度となくそう思ったはずだ。


 もしときを戻せるのなら、リーラは母を助けたいと思う。


 その結果自分が生まれなくても、それでも――。




「こんのっ、ごみ虫以下の下郎どもっっ……!!」




 気づくとリーラは、ドレスのスカートを持ち上げて、力いっぱい裸足の踵でドアを蹴り開けていた。


 ぎょっとした複数の目がリーラへと集まる。ここにセトの杖があったらもっと様になったが、箒ではいまいち締まらない。それでもないよりはましと、箒の先を男たちへと突きつけた。


「その娘から離れなさい!!」


 しばしぽかんとしていた彼らだったが、箒を持った謎の闖入者がどこの誰だか、すぐにわかったらしい。今日の夜会の注目の的だったから、よほどのばかでない限り当然だ。彼らは不恰好に箒を構えたリーラをしばし眺め、そして、弾けるように笑った。


「これはこれは。ロシェット伯爵夫人ではありませんか」


「そういうあなたは、どこの誰かしら?」


 間髪を入れず、リーラは小首を傾げ、話しかけてきた男の矜持を軽く傷つけてやった。


「ふん、さすがあのロシェット伯爵だ。妻の教育もできてないとは」


「あら。どこかから負け犬の遠吠えが聞こえたわね。そういうことは、結婚して妻のいる含蓄のある方が言うものではないかしら?」


「……なんだと?」


 妻や婚約者がいたらこんなことはしていないだろうと思っていたが、やはりそうらしい。伯爵家を下に見ている風なので、侯爵家または公爵家の子息、というところか。


 確かにできた妻ではないが、ぺらっぺらの中身のない人間に言われる筋合いはない。


「不勉強ですみません。あいにく――」そこでリーラはうっそりと微笑んだ。「爵位を継げないお子ちゃまの名前なんて、夫に覚えるよう言われておりませんので」


 クロードから紹介をされていない時点である程度予想はついていたが、爵位うんぬんはなかなか核心を突いたらしい。男は忿怒の形相で顔を紅潮させた。


 クロードのことを侮辱するから悪いのだ。彼を侮辱していいのは、この世でただひとり、リーラだけだ。


「たかが伯爵家ごときが、調子に乗りやがって!」


 男が肩を怒らせて迫って来たので、リーラは箒を構え直す。前言撤回。セトの杖は必要ない。ごみ虫退治には箒こそふさわしい。


 リーラは箒をめちゃくちゃに振り回しながら、怯えて窓枠の下で腰を抜かしていた少女に鋭い口調で命令した。


「逃げなさい!」


 後ろには窓がある。ここは幸い一階だ。逃げようと思えば逃げられる。呆然としていたほかの男たちが、はっと我に返り、逃すまいと彼女に掴みかかるのをリーラは箒の穂先で切りかかって阻む。


「なにをはいたかわからない箒よ! ねずみの糞をはいたかもしれないわよ!」


 さすが貴族。この脅し文句は意外と効いた。ねずみを触ったこともなようなやわな男たちが怯んだ隙に、少女は窓の錠を開けて、飛び降りた。窓からびゅうと風が吹き込んできて、リーラの後ろのドアがバタンと大きな音を立てて閉まった。


 窓がきいきい風で揺れるのをぼんやりと見つめ、リーラはやり切った思いで大きく息を吐いた。


「……夫にそっくりの忌々しい女だな、おまえ。ははっ、逃したところでお楽しみが先に伸びただけじゃないか。高位貴族に相手してもらえるんだから、あの女も泣いて喜んでいたのに、かわいそうになぁ?」


(泣いて嫌がっていたのが、わからないの?)


 悲しいかな、世の中には他人の痛みがわからない人間もいるのだ。キンブリー一家のように。


「代わりにおまえが相手してくれるんだよなぁ? キンブリーのお嬢ちゃん」


 キンブリーの名に一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに毅然と男をにらむ。それよりも、以前から知っていたような奇妙な響きが気になった。


「あなたとは会ったこともないはずよ」


 男はくつくつと笑った。愉快そうに。


「前のキンブリー子爵が、うちにおまえの釣書送って来ていたんだよ。子爵家ごときが、侯爵家に。しかも兄と俺の両方にな。美人で豊満な女なら考えたが、いかにも脆弱な子供だったからと無視したが……」


 舐め回すように体を見られてぞっとしながら、震える指先で箒の柄を握り直す。


「愛人でもよかったなら、受けておいたらよかったなあ? あんな真面目腐った男よりも俺の方がかわいがってやれたのに、残念だ。惜しいことをした」


「愛人……?」


「あははっ、愛人に決まっているだろう! 自分が正妻になれる器だとでも!?」


 笑う男につられるように、ほかの男たちも嘲笑を深める。


 もしあのままキンブリー一家が生きていたら、この男の愛人にさせられていたかもしれない。散々弄ばれて、骨の髄までしゃぶられて、ごみみたいに捨てられていたのだろう。


 憎しみは消えない。


 いつだって近くで燻っている。


 今か今かと待ち構えて、ふとした拍子に噴出する。


 リーラは箒の柄をぎりぎりと硬く握りしめた。


 殺してやりたかった。


 この手で、殺してやりたかった。


 あいつも、こいつらも。



(ああ……だけど)



 復讐と言いながら、愛人ではなく、妻として自分を連れ去った人がいたことを思い出した。


 この目の前の男のように、愛人にして、飽きたら捨ててもよかったのに。


 思い込みが激しくて、真面目で不器用で……優しい人。


 ほかの貴族の男たちから愛人程度と称される女を、罪悪感だけで大切にしてくれる。


 過去のことは忘れられない。


 だけど。


 この男ではなく、復讐でもクロードでよかったと、リーラは心の底からそう思った。


 そう思ったらいつの間にか憎しみが凪いでいて、自然と笑みがこぼれていた。


 笑っていた男が訝る。


「なに、笑ってるんだ」


「嬉しくて」


「はあ?」


「わたしの夫がクロード・ロシェットで幸せだなと、思っただけです」


「はあ? おまえ、頭おかしくなったんじゃないのか?」


 いくら武器があっても、やはり男女の力の差は大きい。振り上げた箒を奪い取られると、リーラの体は簡単に突き飛ばされた。そのまま背中から地面へと倒されて、のしかかる男の重みに涙する。


「だったら、夫以外に辱められたらショックだろうなあ? 最愛の妻が傷物にされたと知ったあいつの顔も、相当見ものだろう」


 嫌だともがくが、やはり敵わない。


 だけど諦めはしなかった。


 諦めてやる気もなかった。



「ばかにしないで! どんな顔でも、うちの夫はあなたよりも何億倍も素敵よ!」



 渾身の力で腹から叫ぶと、右膝を思い切り振り上げた。





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