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「だめです。よほど賢いねずみがいるのか、ねずみ捕りはすべて空ですし、厨房の食料も相変わらず漁られ放題で、床は残骸と糞まみれ……。もう、この際殺鼠剤でも用意しましょうか?」
家令のマーティンの苦言に、クロードはそれだけは絶対にだめだと断固として拒絶した。
「ロロが間違って食べたら困る。あの愛すべきおばかさんはまたあちこちで暴れたというし、厨房にも入りこんでいる可能性があるだろう? 殺鼠剤入りの餌を間違って食べるかもしれない」
そんなまぬけなところがまた愛らしいロロを、みすみす危険にさらすわけにはいかない。クロードは殊の外ロロを溺愛していた。
「そうですか……わかりました。こうなるともう、寝ずの番しかないようですな」
「ねずみごときに大層な。生ごみくらいくれてやればいいものを。とにかく、殺生は許さない。それよりも庭の薔薇がまた枯れたというじゃないか。最近は一体どうなっているんだ? みんなたるんでるんじゃないのか」
「そう言われてしまうと返す言葉もありません」
自分よりも何周りも年上の、祖父の代から仕えてくれている家令に頭を下げられ、クロードはもういいとばかりに下がれと手を振ったが、思い出したように問いかけた。
「そういえば、あれはどうなっている?」
「はて? あれ、とおっしゃいますと?」
「キンブリーの娘だ。ここしばらくまったく姿を見かけていないが、まさか、死んでたりしないだろうな?」
はじめの頃は、庭や廊下でたまにその姿を見かけたものだ。ロロと馴れ馴れしく遊んでいたときにはむっとしたが、使用人たちに陰口を言われて落ち込みながら歩いているところを見ると胸がすく思いだった。
だが、最近はその気配すら感じなくなっていた。
どうなっても構わない存在だが、さすがに死なれては困る。しかも食事をさせず飢え死にさせたとなれば、さらに話が変わってくるだろう。
「部屋にいるのではないかと思いますが……」そこでマーティンが言葉を切り、言いづらそうに続けた。「そういえば、食事をしないという報告が」
「残しているのか?」
マーティンはなにも言わない。クロードは、まさかと目を見開いた。
「食事を与えていないのか?」
「申し訳ありません。ですが、作っても食べないようで。ですので誰も作らなくなった、というのが正しいかと」
クロードが使用人たちを叱責することはできない。リーラをぞんざいに扱うよう言ったのはほかでもない、クロード自身だからだ。
だからと言って、食事を与えていないとは思わなかった。人は食べなければ死ぬ。
最悪の事態を想定して、クロードは慌てて部屋を飛び出した。
リーラには昔メイド長が使っていた部屋を与えてあるが、クロードの書斎や寝室からは遠く、無駄に広い屋敷に舌打ちしながら廊下を急いだ。
死んでいたらどうするべきか。医者を抱きこんで、病気だと診断させ、兄がこちらに乗りこんで来る前に、火葬。それしかない。
リーラの部屋のドアを拳で叩くが、返事はない。クロードは鍵を取りに行く手間を惜しんで、ドアを蹴破った。
主人の乱心になにごとかと様子を見守っていたメイドたちは悲鳴をあげるが、その小さなベッドの上で丸まったシーツの中身はぴくりともしなかった。
クロードは呼吸を整え、シーツへと手をかける。その時点で腐臭はなく、少し冷静になって考えれば死んでいないことは明白だったが、この目で確認しないことには確信を持てないとばかりに、勢いよくシーツをめくった。
……寝ていた。
すやすやと。
それはもう、気持ちよさそうに。
クロードはこめかみに青筋を立てた。
「おい」
呼びかけても、返ってくるのは心地よさげな寝息だけ。
「おい! いつまで寝ている、起きろ!」
惰眠を貪るリーラを揺すり起こそうとその肩に触れたのだが、そのあまりの細さに、クロードは思わず弾かれたように手を引いた。
見た目以上に華奢だった。まるで骨と皮だ。ロロのほうがずっと肉づきがいいだろう。髪にも艶がなく、絡まって鳥の巣を模していて、肌には張りがなく乾いていた。
食べるものがなければこうなる。わかりきったことではないか。なにを驚く必要があるというのか。
しかし今は生きているが、このまま放置したら……。そのうち確実に死ぬだろう。
(……死ねばいいじゃないか)
胸でそう吐き捨て、罪悪感を打ち消す。
クロードは元々、キンブリー家への復讐のためにリーラを娶ったのだ。彼女が死ねば、兄であるヴェルデも心に傷を負うだろう。キンブリー子爵家が取り潰されれば、ようやく、本懐が遂げられるはずだ。
そう思う一方で、本当に復讐したかった相手、キンブリー前子爵が死んでいる今、こうしてやり場のない燻った憤りを憎い男の娘にぶつけて、それで満足したかと問われれば、否だ。
(なぜだ……自分で直接手を下していないから、満足できないのか……?)
使用人たちに任せきりではなく、自ら辛くあたるべきなのだろうか。そうすれば少しは気が済むのだろうか。
クロードが自問自答している間に、リーラがようやく目を覚ました。まぶたの下に隠されていたのは、藤の花のような淡い紫色の綺麗な瞳だった。
*
周囲がめずらしく騒がしい。まだ寝足りないリーラは、嫌々まぶたを押し上げた。そこにあったのは初日以来、ひと月ぶりに見た書類上の夫の姿だった。
上からふたつボタンを開けたシンプルなシャツにスラックス。少しだけ乱れた前髪からは眉根を寄せているのがのぞけた。リーラは冷めた目で、ベッドの脇に立つ見目だけはいい男を一瞥してから、シーツを引き上げ元通り丸くなった。ダンゴムシのように。
「おい! 起きろ!」
(うるさい)
ますます丸くなるリーラから強引にシーツを取り上げたクロードを、恨みがましく見上げた。
これまで放っておいたくせに、睡眠時間には文句をつけるのだろうか。リーラは嫌味のひとつでも言ってやりたい気持ちになった。
「起きているとお腹が空くので。寝ます」
この人にはこのつらさがわからないだろうなと思い、当てつけで言ったことだったが、クロードは息を呑み、一瞬だけその顔に後ろめたさをよぎらせた。
「……マーティン。なにか食べるものを持ってきてくれないか」
戸口に立っていた家令がどこかへと消えてしばらく後、銀のトレーに湯気の立つスープとやわらかそうなパンをいくつか載せて帰ってきた。その間無言だったクロードがトレーを受け取りサイドテーブルに置くと、スープカップをリーラの方へと差し出して来た。
「ひとまずスープを」
は? である。
手を出さないリーラに焦れたのか、クロードが再度カップを押しつけてくる。
「空腹なんだろう。ほら、飲め」
「……毒でも入れられましたか?」
それとも、日にちが経った残りものだろうか。
「毒、だと?」
信じられないという顔でこちらを見入るクロードこそがリーラには信じられないのだ。
「手っ取り早く殺すことにしたんですか。あいにく、わたしはまだ死ぬ気はありませんので」
カップを戻したトレーごとつき返す。この伯爵も、この屋敷の使用人たちも、リーラにまともな食事を提供する気なんてさらさらない。
つんと澄ましていると、クロードが舌打ちした。口調といい、仕草といい、見た目に反して案外粗野だ。普段はリーラ同様、猫をかぶっているに違いない。
「そんな小細工しなくても女ひとりくらいなら簡単にくびり殺せる。死ぬ気がないと言ったな? だったら意地を張らず食事くらいすることだ。すねているのか?」
(すねているですって?)
それではまるで、リーラがクロードに構ってもらいたいがためにだだをこねているみたいではないか。そんな風に思われていただなんてと、屈辱にわなわな震えた。
「はっきり言いますが、信用できないから食べたくないんです。この屋敷の誰も、わたしは信じておりません。どんなに空腹な捕虜だって、敵の差し出したパンに手を伸ばしはしないでしょう?」
例外がいるとすれば、ロロとねずみのマーティン一家くらいなもの。人間は誰ひとり、信用できない。
リーラの言い分が本当に理解できているのか、クロードは肩をすくめるだけで、己で考えることもせず簡単に尋ねてきた。
「それならば、どうしたら食べる?」
「あなたが毒見してくださったら、食べても構いません」
それには黙って様子をうかがっていた使用人たちがいち早く反発してきた。
「いけません、クロード様! 食べたくないと言うのだから放っておけばいいのです!」
リーラは間髪を容れずにこう切り返した。
「ほら見なさい。普通ならこんな過剰反応しないわ。やっぱりなにか入れたのね?」
クロードが背後へと振り返り、マーティンたちに厳しく問う。
「おまえたち、なにか入れたのか?」
「い、いいえ、とんでもありません! そんなこと考えもしませんでした。私どもが言いたいのは、クロード様に毒見をさせるなんてとんでもない! ということです」
白々しい。リーラは冷ややかに彼らを見やったが、実際のところ、スープになにか入っているとは思っていなかった。あの短時間でできることと言えば、せいぜい塩を多めに入れることくらいのものだろう。それともやはり、腐ったスープなのか。
「それもそうね。あなたは伯爵家の大事な当主のようですし、使用人のみなさんが心配なさるのは当然のことよね。いいわ、妥協してあげる。ロロに毒見させましょう」
「なんだと!? ふざけるな! ロロになにかあったら――」
よほど腹に据えかねたのか、激情にかられて怒涛の勢いでそこまで言ってしまってから、クロードははっとして口を閉ざした。リーラは内心にんまりとする。
「どうやらご主人様は、あなた方使用人の言葉を心の底ではなにひとつ信じていないようね?」
強固な敵を内側から崩壊させるには、仲間割れを助長させるに限る。なんか、ますます兄に似てきてしまった気がする。
やれやれと肩をすくめたところで、野次馬の中からひとりのメイドがつかつか歩いてきた。クロードが初夜に寝室に連れて行った、あのメイドだ。彼女は無言でカップをひったくると、その中身を、ためらいもなくリーラの顔面へとぶちまけた。
「……っ!」
反射的に目は閉じたが、前髪から胸元に至るまで、野菜の旨味が溶け出たスープがしたたる。最低極まりない惨状。
そのメイドはせせら笑うように鼻を鳴らした。クロードが咎めるように彼女の名を呼んだ。
「アイビー!」
「だってこの女があまりにもひどいことを言うから! だから、あたし……みんなだってそう思わない?」
ほかの使用人たちも、最初はためらいがちに顔を見合わせていたが、やがて同調しはじめた。リーラこそが悪だというように。
クロードはアイビーをしばらく見据えていたが、最後にはよくわかったと労わるようにその腕を叩いた。
それを見て、泣いてしまわないように必死で奥歯を噛み締めた。
(わたしが、なにをしたって言うのよ……)
なぜそこまで侮られなければならないのか。
しかし借金が返済できる見込みがつくまでは、この屋敷を出て行くわけにもいかない。
家を出て行く際、ヴェルデが最後にとリーラをきつく抱きしめてくれたのがまるで遠い過去のようだ。
「なにかあればすぐに帰ってくるんだよ。借金なんてどうとでもなるから。二年、いや、一年だけ我慢して。必ず助けに行くから」
そうは言っても、簡単に用意できる額ではない。
兄が安心して自分の人生を進めるためには、リーラはこの場所で笑っていなくてはならない。それがたとえ、作り笑いだとしても。
(大丈夫よ、兄さん)
リーラは震える手で、スープの滴が落ちる前髪を払いのけ、クロードへと気丈に顔を向けた。
「今のは、メイドから女主人への暴力行為に当たりますよね? そのメイドを即刻クビにしてください」
さすがに少しくらい狼狽するだろうと思っていたが、クロードは軽く眉を上げただけ。それから至極落ち着き払った声で、隣に立つアイビーにこう言った。うっとりするような、あの微笑みで。
「不注意でスープをかけてしまったことを、彼女に謝りなさい」
彼の思惑を悟り、リーラは唖然とした。
故意にスープをかけたのは明らかなのに。この男はそれを、ほかの使用人たちの目のある場所で、平然ともみ消した。ただの過失ならば、クビにはできない。
彼女は不服そうに、だが、リーラを見下しながら、ごめんなさいと口先だけで謝った。
悔しい。
悔しくて仕方ない。
結局この屋敷で一番偉い立場なのは伯爵であるこの男。
クロードは野次馬たちを仕事に戻らせると、リーラに最後通牒を告げた。
「きみも早く風呂に入って来い。それと、明日からでいいから、同じ食卓につくように。いいか、これは命令だ」
リーラは屈辱に震える手を膝で握りしめて、すぐにうなずかないことで、最後の抵抗を試みた。
返事は期待していなかったのだろう。クロードは一瞥だけし、うつむくリーラにさっさと背を向けた。