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 ジーンが来てからというもの、屋敷の雰囲気が前よりもずいぶんと明るくなったような気がしている。


 クロードはなにかと活動的な彼に連れ回されて不在のことが多く、おかげでマーティン(ねずみ)と深夜の厨房で密会したり、気ままにセトのところへと出入りできた。


 腰の悪いセトのために、リーラは率先して薬草集めに励む。薬草だけでなく、木の実を集めたり、きのこを採ったり、木の皮を剥ぎ取ったり。立ったりしゃがんだりの動作は腰に負担が大きく、若いリーラでもなかなか大変な作業だった。


 キリのいいところで切り株に座って、お昼に持参したパンを食べる。


 おいしそうなふわふわの雲がまったりと空を横切っていくのを眺めて、リーラは束の間の平和を満喫していた。


「こうしていつまでものんびり暮らしたいものだわ……」


 監視の目をかいくぐり、こうしてひとりきりになれることはめずらしい。


 裏口からこっそりと抜け出したので、監視役は今もセトの店の前で待機していることだろう。


 小鳥がリーラのおこぼれをもらいに飛んできて、パンのかけらをいくつか投げていると、獣道から呼んでもいない人がやって来るのが見えた。アイビーだ。


「こんなところにまで、なんの用かしら?」


 リーラは一瞥すらせずに、いつか手乗りにしようと長期的な野望を抱いてせっせと小鳥を餌づけをする。


「うぬぼれないで。あんたなんかに会いに来たんじゃない。メイド長に言われて、虫除けの葉っぱを取りに来ただけ」

 

 ばったり出くわすような場所じゃなかったから、てっきりなにか言いたいことでもあるかと思っていたのだが、どうやらリーラの早とちりだったらしい。


 クロードが使用人たちに言い聞かせてからというもの、アイビーもすれ違い様ににらんでくるだけで、嫌味すら言われなくなった。


 彼女を含めた使用人たちは、クロード至上主義だ。もし彼が、ロロは実は猫なのだと言えば、いくら犬にしか見えなくても猫だと真顔で言い張るくらいには、崇拝している。


 それでも一度抱いた嫌悪感はそう簡単に消えるものではないのだろう。アイビーはリーラのことが嫌いだし、リーラも同じだった。


「虫除けならそっちの木陰にあるわ」


 リーラも自然の恩恵に預かり摘み取ったばかり。乾燥させて窓に吊るすだけの優れものだ。


 アイビーは礼もなく虫除けハーブを手提げ籠へと摘み入れていく。


 満腹になったのか、小鳥が羽ばたき飛び去って行った。その余韻に佇んでいると。


「ねえ、なんで?」


 ここにはふたりしかいない。リーラは自分が問いかけられているのかどうかを判断しきれずに黙っていると、アイビーがキッとにらんできた。


「なんで? なんでこんなことしてるの?」


「こんなこと?」


「クロード様に妻として認められたのに、なんで草なんか摘んでるの? ほかにやることがあるんじゃないの?」


「着飾って夜会三昧とか?」


「そうよ! もうすぐ社交界シーズンでしょ? ずっとここで草を取ってるつもり!?」


「ずっとは無理だけど……できることなら」


 社交界なんて、有象無象にもみくちゃにされて精神的にボロボロになって帰って来る散々な未来しか見渡せない。


 それにクロードもリーラに一緒に来てほしいとは言って来ない。どちらかと言えば、領地にいて、ロロの世話をしていてほしそうな気配すら感じている。見栄えするような妻ではないのでその気持ちはよくわかるが。


 リーラの答えはアイビーの納得できるものではなかったのだろう。立ち上がってずかずかとリーラの正面まで来ると、彼女は怒りに任せてどんっと肩を突いてきた。


「なんで!? おかしいじゃん! クロード様の一番近くにいれるのに、あんたはいっつも不機嫌な顔でさ! だったら早く離縁しなさいよ!」


「それであなたが妻になるとでも?」


 アイビーは顔を歪めて、リーラの肩を思い切り掴んできた。


「そんな高望みしてない! あんたは知らないかもしれないけど、クロード様はあたしたちにとって恩人なんだよ! みんなだって本音ではあんたに早く出て行ってほしいと思ってる。妻として表面上だけでも演じて務めを果たしてくれるなら、まだいい。だけどそうじゃないなら消えてよ! だってそうじゃないと、クロード様は……あんたがいる限りずっとずっと苦しみ続けるじゃない!」


 ぎりぎりと、アイビーの指が肩に食い込んで痛むと、逆にすっとリーラの頭は冷えた。


 苦しみ続ければいいと思う。


 それが褒められた感情でないことは重々承知している。


 彼に苦しんでほしくない人もいるのもまた事実だ。


 それでも。


 たとえ世界中のすべての人がクロードの肩を持とうとも、リーラは彼が今、罪悪感という名の重荷を下すことは許さない。


 リーラが自分の幸せを見つけたとき、はじめて、彼の罪が許されるのではないか。


 彼の卑劣な行いに加担しておいて、被害者であるリーラに許しを強要するのは、間違っている。


 決めるのはリーラだ。


 ほかの誰でもない。


 肩にあったアイビーの手を精一杯力を込めて掴み返して、これまで抑え込んでいた思いの丈をぶちまけた。


「苦しめばいいわ! わたしと同じ苦しみを味わえばいいのよ! あの人はわたしのことを妻とは認めていなかったじゃない! 今さらなんなのよ! わたしが同じことを思って、なにが悪いの!?」


「このっ、ふざけんな!!」


 掴み合いから押し合いになって、リーラはアイビーの腿を蹴って、蹴り返されて。


 それでもアイビーの方が身長がある分、力も優っていて、最後はリーラが派手に突き飛ばされた。


「っ……!」


 とっさに地面に手のひらを突いた拍子に、そこに密生していた草の棘がいくつか刺さったのを感じて、顔を歪めた。


「あんたなんかっ……死ねばいいんだ!!」


 置きっ放しだった籠を引ったくると、アイビーが肩を怒らせて帰って行くのを尻目に、リーラは手のひらを押さえ苦痛に脂汗をかきながら冷静に次のことを考えていた。


「まず、棘を、取らないと……」


 リーラだってセトのところで無為に過ごしていたわけじゃない。今自分の手のひらに刺さった棘に、毒があることくらいは学んで知っているのだ。セトのメモにもいくつか棘を取って来るよう指示があった。注釈で、決して素手で触るなとも、書いてあった。


 生死に関わる毒ではないが、生物を麻痺させて一時的に動けない状態にさせるくらい強力な毒でもある。


 ひとまず棘は綺麗に抜き去ったが、体が痺れて動けなくなる前に戻らないとまずい。


 よろ、と立ち上がり、ふらつく足を叱咤してセトの元へと向かおうとするのだが、すでにまともに道が進めない。これほど即効性の毒なら、それも書いておいてほしかった。


(一旦、休んだ方が、いいのかもしれない……)


 このまま迷子になってどこともしれない場所で倒れて夜になるか、安全そうな場所でじっとしていて夜になるか。それしか選択肢がないのなら、まだしも安全な後者を選ぶ。


 座れる場所がないかとあたりを見回し、ちょうどよさそうな木陰を見つけた。


 リーラはどうにか這ってたどり着いた木陰で、力尽きて横たわった。


 どこかでピチチ、と小鳥がさえずっている。さっきパンをあげた小鳥が、一飯の恩にと人を呼んで来てはくれないだろうかと淡い期待を抱いてみたりして現実逃避する。


 誰も来ないだろう。誰もリーラのことなど探してはいない。――現時点では。


 暗くなれば、セトは気づいてくれる。しかし老齢の彼女に暗闇の中リーラを探し出せというのは無茶な話である。


 痺れが治れば自力で戻れる。


 伯爵家の広いベッドでも、どこともしれない林の奥の地面の上でも、眠ってしまえば同じだ。


 セトに心配をかけるのは申し訳ないなと思いながら、リーラはまだ動くまぶたを、そっと下ろした。












 クロードはジーンに引きずられるがまま遠乗りへと出かけていた。


 馬はかわいいが、正直なところ馬に乗るより犬を散歩させる方が性に合っているクロードなので、帰るときにはすでに疲労の色が色濃く浮かんでいた。


 馬を厩舎へと返してようやく屋敷へと戻り着くと、クロードをひと息つかせる暇も与えないように、玄関で騒動が起きていた。


 目の前の光景をそのまま言葉で表すのなら、老婆が使用人たちに杖を振り上げ追いかけ回している、だ。


 見知らぬ老婆なら丁重にお引き取り願うが、あいにく見知った老婆。薬師のセトだ。


 セトは杖で床を力強く打った。どこにそんな力が隠されているのかとあっけにとられていたクロードは、その杖の先が次に自分へと定められたことで、内心冷や汗をかきながらも平静を保って低姿勢で尋ねた。


「どうかされましたか?」


 セトは眦を上げた。


「どうもこうもない! リーラが材料集めに行ったきり帰って来ないって、さっきから何遍も言っとるだろうに! それをおたくの使用人たちときたら、そのうち帰って来るの一点張り! 挙句めんどうな老人が来たとさっさと追い払おうとするじゃないか! なにかい? この屋敷では切羽詰まって助けを求めにやって来た老人を、ぼけ老人として適当にあしらうよう教育してるのかい! ええ!?」


「いや、そんな教育はしてませんが……」


 ああん? と、鬼の形相でにらまれ、さすがのクロードもたじろいだ。だが遅まきながら、彼女が屋敷へと乗り込んで来たその理由に気づくと、今度は目に見えてうろたえた。


「リーラが」


「あの子は誰かに無駄に心配をかけるような子じゃないだろう! あたしにだって、帰るときは必ずあいさつして帰る。どこかで事故か怪我か、なにか常ならぬことがあったに違いないんだよ!」


 ここは自然の豊かな土地だ。山も森も林もある。川だって流れている。材料集めと言われても、リーラがどこにいるか、皆目見当もつかない。


「リーラはなにを集めに行ったんですか」


「色々だよ。山奥にしかないようなものは頼んでないからね。この周辺だとは思うよ」


 それなら捜索範囲がかなり絞れる。


「ほかに誰か、リーラを見た者は?」


 一縷の望みにすがるようにぐるりと見渡して、その場にいたすべての人に問う。誰も外出して以降の彼女を見てはいないらしい。


 監視を任せていた青年はセトの後方で沈んでいた。


「クロード様、すみません……」


 クロードが眉をひそめると、セトが杖でぴしりと床を打つ。


「あの子が撒いて行ったんだから、この子に八つ当たりするんじゃないよ!」


 確かに今は誰が悪いとか言っている場合ではないと、邪魔にしかならない感情を脇へと置いた。


 それまで黙って事の成り行きをうかがっていたジーンが、セトへと落ち着いた微笑みで話しかけた。


「ご婦人、ご足労いただきありがとうございます。こちらで部屋を用意させるか、家まで送らせましょう」


「だったらここで待たせてもらうよ。弟子が行方不明で、おちおち寝ていられると思うのかい?」


 ひとまずセトに椅子を勧め、クロードとジーンで今後の計画を練っていたとき、ふと視界の隅に、唇を結んだまま地面を見続けているアイビーが映った。


「アイビー?」


 声をかけると、アイビーはびくりと肩を揺らして顔を背けた。リーラが行方不明でも動揺などしなさそうな彼女の挙動の怪しさに違和感を抱いた。

 

「なにか知ってるのか?」


「別に……」


「知ってるなら白状しな!」


 セトが杖を振りかざした。


「知らないってば!」


 セトはアイビーを追いかけて、その腿を容赦なくぴしゃりと打った。


「痛いっ!」


「いいから言えと言ってるじゃないか!」


 散々追いかけ回されたアイビーが悲鳴を上げながら白状した。


「見た! 見たから! 虫除けの草の密生してるところで会った!」


「ふん。最初っからそう言やあいいんだよ」


 満足げに椅子に座り直したセトは苦笑いのジーンに任せるとして。


 クロードはアイビーへと命じた。


「今すぐそこへ連れて行け」





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