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 ヴェルデの杞憂はやはり正しかった。


 休みもそこそこに、一週間かけて赴いたロシェット伯爵領にある広大な屋敷で、リーラを歓迎してくれたのは伯爵家の番犬ただ一匹だけだった。


 身ひとつでと言われていたが、それでも少ない私物を鞄につめて持ってきていた。しかし待てど暮らせど荷物を運んでくれる者は現れず、仕方なく玄関まで自分で鞄を抱えてチャイムを鳴らした。


 普通の令嬢ならばこの時点ですでに屈辱を感じただろう。リーラだって、犬にまで吠えられていたら、さすがに気持ちが折れていた。


 しかし。いくら根っからのお嬢様でないからと言っても、リーラが気丈に振る舞えたのもそこまでだった。


 ロシェット伯爵家の家令にしてもメイドにしても、リーラの話など聞くこともなく、質問を予測してぞんざいに指示を出すだけ。ひどいと無視をされるほど。初対面からのその冷ややかな対応はさすがに面食らった。人柄を見ようとさえしない。担保は担保でしかないとでもいうように、誰も彼も目が合うだけで顔をしかめる。


 そうして案内された部屋は、どう見ても使用人用の部屋であり、個室なだけましかと、リーラは自分を納得させて荷ほどきをした。


 当初の予定から婚礼という儀式的なことはしないと決まっていたが、なんとも味気ない。滞りなくロシェット伯爵のサインの入った婚姻証明書に目を通して、兄と何度も練習した自分の名前、リーラ・キンブリーと、丁寧にスペルミスもなく無事記入し終え、ヤギに似た老齢の家令に手渡すと、もうすべきことが見つからなかった。


 結婚したはずの夫は未だ姿さえ見せず、淡い期待も瞬く間にしぼんでしまった。


 元から担保でしかないのだ。


(深入りせずに済んでよかったと思うべきね)


 リーラだって、ここに来てようやくロシェット伯爵のファーストネームを知ったくらいなのだから。


 クロード・ロシェット伯爵。


 結婚証明書に丁寧な筆跡で書かれたそれが、これから夫になる人の名前。リーラは口の中で繰り返し唱えて、舌先に馴染ませた。


 リーラも今日からロシェット姓となる。小さなきしむベッドに仰向けになって、宙に何度か名前を書いてみたが、これには慣れることはなかった。


 そのまま疲労がたたり、いつの間にか眠ってしまっていた。起きたときには日が沈みかけていて、慌てて部屋を飛び出したものの、どこへ行けばいいのかわからず、使用人に聞いてもまたすげなくあしらわれ、肩を落としながら広い屋敷内を彷徨い歩いた。


 ようやくダイニングルームに出た頃には、彼はすっかりと食事を終えていて、唖然とするリーラを目に止めると、はじめてその存在に気づいたとでもいうように片眉を上げ、こう言った。


「ああ、いたのか」


 そのあまりの素っ気なさに呆然と立ち尽くしていると、彼はナプキンを畳んで悠々と席を立った。


「食事は誰かに頼んで適当に済ませるといい」


 それだけ言い残してすれ違っていく彼の背中に、リーラは慌てて問いかけた。


「あの、わたしはどうしたら……?」


 彼は立ち止まると、振り返った。美しい顔で笑って、さあ? とだけ。


(さあ?)


「自由にしていればいい」


「でも、あの、わたしたち……結婚、したんですよね……?」


 てっきり結婚した夫婦には当然あるべき営みがあると思っていた。初夜が。


 リーラを愛人や情婦ではなく、わざわざ妻に据えたのは、後継の子供を産ませるためだと思っていたのだが、違っていたのだろうか。それくらいしかリーラには使い道などないように思える。


 だがそう思いはしても、それを口に出すにははばかられてもごもごしていると、彼がこちらへと歩み寄ってきた。そして少し腰をかがめ、リーラの耳元へと囁いた。


「期待してたのか?」


 思わず真っ赤になった顔を上げたが、彼と目が合った瞬間、血の気が引いていくのを感じた。


 なぜらなら、微笑む彼が、はっきりとリーラを嘲笑っていたからだ。



「きみとの間に子供はいらない」



(子供は、いらない……)



 それはつまり、どういう意味なのか。


 ほかの女性との間にもうけるということなのか。


 それとも、養子を取るということなのか。


 すっかりと青白くなったリーラの頰に、身を引いたロシェット伯爵の髪がさわりと触れた。びくりと過剰に反応するリーラに、彼はもう笑顔を作りもしなかった。


「今日は疲れただろうから、食事を済ませたら寝ればいい。おやすみ」


 突き放されて、それでもリーラはロシェット伯爵の後を追った。しかし彼はリーラの存在など意に介すことなく、茶色い髪のメイドを見つけると微笑みを浮かべて近づき、耳になにか睦言らしきことを囁く。そして自然な仕草で彼女の腰を抱いて、寝室へと誘った。


 そのメイドが一度振り返り見せた優越に満ちたその顔。勝ち誇った眼差し。口元に浮かぶ余裕の笑み。そのあからさまな侮辱は、嫌でもリーラの記憶の真ん中へと刻みこまれた。


 顧みられない形だけの妻は、ふたりがドアの向こうへと消えていくのを黙って眺めるしかない。



 それが記念すべき、結婚初日のできごとだった。










 ロシェット伯爵に愛されることはない。


 たった一日でそう悟ったリーラと同様に、使用人たちもまた同様に思ったのだろう。ますます風当たりが厳しくなった。


 洗濯物を出せば、ボロボロの布切れになって返ってくる。それならばと、自分のものは自分で洗うようにした。リーラは実家では幼い頃から洗濯係だった。ある意味ベテランである。


 しかし今度は、干したものが乾く前に、泥をかけられた。唇を噛んでごしごしと腕の力を入れて洗い直すリーラを、使用人たちが隠れもせずにくすくすと笑う。


 仕方なく洗濯物を見張るために、リーラを唯一受け入れてくれた大型犬のロロと庭でボール遊びをし、水滴が落ちなくなった頃合いを見計らい、自分の部屋に干すようになった。


 はじめの頃は提供してくれていた食事も、腐った肉を出されて以来、口をつけなくなった。そうなると食事が出されることすらなくなった。


 屋敷内で誰かとすれ違えば、わざと聞こえるように悪口を言われる。


「クロード様に愛されると本気で思っているのかしら?」

「あの人が伯爵家の妻としてなにもしていないから、すべてこちらにしわ寄せが来るのよねえ」

「ただでさえ借金まみれのお嬢さんなのに、こうして屋敷にまで寄生されて、たまったものじゃないわよ」

「部屋に篭りっきりで働きもせず、人ひとり養うにいくらかかると思ってるんだか」


 リーラが逃げ出すと、どこまでもどこまでも嘲笑が追いかけてきた。



 こうしてリーラは日中、部屋から出ない引きこもりになった。



 部屋の中まで誰も文句は言いに来ない。ドアの向こうからでははっきりとは聞こえない。


 リーラの行動時間は必然的に夜中、誰もが寝静まった深夜。洗濯だって夜すればいたずらされることはない。ひと月も経てばライバルだったねずみと和解し、食べ物をわけ合うまでになる。


 屈辱はあるが、暴力がないだけ、昔よりもましだ。リーラは見かけほど弱い娘ではなかった。


「マーティン、ちゃんとレイモンドにもわけてあげないと。ほら、ローラはみんなのわけ前まで取らない!」


 真っ白なはつかねずみたちに、ことごとくこの屋敷の使用人の名前をつけたリーラは、ちぎったチーズを均等に与えた。はじめにライバルとなったマーティンには夜毎家族が増えていき、今や大家族の長だ。腹立たしいねずみ捕りをすべて無効にしてやり、リーラは溜飲を下げる。


 これで明日厨房の使用人たちがまた苛立たしげに頭をかきむしることになるだろう。


(いい気味ね)


 ロロは犬なのでねずみを獲らないし、ロシェット伯爵は猫アレルギーで猫は飼えないという。これはリーラのささやかな意趣返しだ。こうでもしないと、気が収まらない。


 やられたらやり返す。それが兄ヴェルデの信条だった。耐えて耐えて耐え抜いて、そのときを待ち、機が熟したら徹底的に潰す。兄の温厚な性格の裏に隠された非情な一面を知っているのは、ずっとそばにいたリーラだけだろう。


 そのリーラだって、正真正銘の貴族のお嬢さんではない。伯爵家の使用人たちは、神経の細い箱入り育ちの令嬢だと思っているのだろうが、それは違う。兄に守られていたとはいえ、実家では散々理不尽な仕打ちに耐えてきた。


 食べるものもなく飢え、寒さに凍え、憂さ晴らしで殴られ、その怪我を医者に診せることも許されない地獄のような日々。



 そうして生き残ったのは、リーラとヴェルデ。



 それがすべてだ。



 悪口に言い返さないのは相手を油断させるための手段だし、部屋に閉じこもっているのは単に夜起きていて昼間寝ているからというだけの話。


 ねずみと手を組んで厨房荒らしを任せ、リーラは火をくべて鍋にお湯を沸かすと、次の場所へと移動した。花壇だ。


 さすが伯爵家の花壇。メジャーなものから異国から取り寄せたのだろうめずらしいものまで、色とりどりの花を咲かせている。が、ところどころ、まばらに、枯れてしまっている。


 リーラはほくそ笑み、今日も日課として、適当な花をひとつ選び、熱湯を注いだ。雑草を枯らすための手段のひとつだ。


「……ごめんね」


 なんの罪もない花を枯らすのは多少気が引けるが、ここの人たちへの復讐のためだと目をつむった。


 また庭師が頭を抱えることになるだろう。リーラは厨房へと鍋を返して、パンを貪るのに夢中なねずみたちに肩をすくめつつ、次の場所へと向かった。


 ひゅう、と口笛を吹くと、庭からロロがしっぽをぶんぶん振り回して飛んできた。もちろんボールもくわえている。リーラは客間のドアをことごとく開け放った。


「ほら、ロロ。ボール遊びをするわよ?」


 廊下からそれぞれの部屋の壁へとボールを投げると、ロロは喜んでそれを追いかける。カーペットを引っかいて、ベッドへ飛び乗り、偶然落ちたシーツに足跡をつけて、タオルを噛み噛みして遊んでも、メイドたちは伯爵の飼い犬を叱ったりはできないだろう。いい気味だ。


 散々遊んで、最後にシーツでロロの身体を綺麗に拭いてやったリーラは、仕上げにボールを庭に投げて証拠隠滅。


「わたしって、なんて……性格が悪いのかしらね……」


 リーラは自嘲する。


 優しい兄の手前、これまで地は隠しておとなしく従順に生きてきた。しかしこんな暮らしをさせられていたら、ますます性格が歪んでいくのは当然のこと。そうでなければおかしい。


 リーラは無理やり暗く笑ってから、自分の洗濯を済ませて身を清めると、空が白む前に部屋へと戻りベッドに入った。


 あれだけのことをしたのだから、満足して眠ればいいのに、いつも虚しさだけがぽつりと消えないしみのように残る。だからなにも考えないようにする。兄との楽しい思い出だけを浮かべて、空が白みはじめた頃、ようやく重たいまぶたが落ちてくる。


 こうしてロシェット伯爵家に小さな混乱を巻き起こすリーラは、今日も遅い眠りに就いた。





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