15
クロードの告白を聞いてからしばらく。
なにごともなく穏やかな日が続いたことで、完全に油断していた。
ここが心から安らげる場所でないということを、すっかりと失念していた。
その日リーラが目を覚ますと、まず、狭い室内で使用人たちが物音ひとつ立てずに、てきぱきとリーラの荷物をまとめていることに驚かされた。
入って来たことにすら気づかなかった自分に愕然としつつ、少ない衣類や小物をまとめる使用人たちを、かぶったシーツの下からおずおず見やった。
「な、なに?」
ベッドの上で目を白黒させるリーラに、無言で指示を出していたマーティンが厳かに答えた。
「クロード様のご命令により、お部屋の移動をさせていただきます」
(部屋の移動……? それは別にいいけど……)
引っ越しとはこんなに朝早くからしなければいけないことなのだろうか。わからない。
この部屋が特別気に入っていたわけでもないので、どの部屋に移されようがどうでもいいとまた横になって目を閉じたリーラは、進捗具合を確認に来たクロードによって最後の最後にシーツに包まれたまま新しい部屋へと搬入された。
それをなんとも思わない使用人たちよりも、にらんでくるアイビーの方がよほど人間らしい感情に思える。
あの日クロードの告白を聞いたリーラは、親の仇を討てなかった彼に、愚かにもほんの少しだけ自分を重ねた。リーラだってこの手で、刺し違えてでもあの男を殺してやりたいと願っていたのだ。同情心を芽生えさせ、つい、兄にしてもらうように泣いていた彼を抱きしめてしまった。一生の不覚である。
おかげで許可なしに図々しく触れてくるようになった。まだ襲われかけたときの恐怖のかけらが残っているというのに。
むっつりとしていたリーラが降ろされたのは、やわらかなアイボリーの花柄のソファ。さっきまで使っていたベッドよりもまだ大きなそのソファで、繭のごとくシーツを纏ったまま、荷物を広げる使用人たちを一瞥し、この件の主導者であるクロードを見上げ問いかけた。
「どういうこと?」
起き抜けに引っ越しさせられて、着いた先は優しい色合いを基調とした内装の、とてつもなく広い部屋。小さめの寝室が別にあり、ちらっと確認しただけでも浴室やウォークインクローゼットのドアまであった。
いくらリーラが庶子で家畜以下の扱いを受けていたとはいえ、一応貴族の屋敷のすみっこに暮らしていたのだ。兄が家を継いでからは無駄なものの売却のため、屋敷の手入れにも関わっている。ここがどういう部屋なのか、わからないほど世間知らずではない。
部屋の奥に、使用人たちが一度も手を触れないドアがある。そこが繋がっているのだろう、クロードの寝室と。
「本来あるべき場所へと戻しただけだ」
確かに数ヶ月前ならば、リーラも唯々諾々と従っただろうし、なんなら妻として迎えてもらえたことをありがたく思い、喜んだかもしれない。
だが今は違う。
率直に言えば、広い部屋など扱いに困るだけだ。
なにより、いつでもクロードが入って来られると思うと、おちおち寝てもいられない。
もしこれが償いとやらなら、迷惑でしかないのだが。
「小さめの客間とかでいいんだけど」
「気に入らなければ内装から変えればいい」
(そういうことじゃないのよ)
内装なんて変えたらいくらかかると思っているのか。リーラは馬小屋でだって寝られるのだ。家など雨風しのげる屋根さえあればいいくらいに思っている。内装にこだわる意味がわからない。
ただ、気に入らないところを変えてくれると言うのなら、ひとつだけ。
「だったら、あのドアを塞いでもらえる?」
リーラがクロードの部屋と繋がるドアを指して言うと、黙々と働いていた使用人たちの間に妙な緊張感が漂った。
「……あれは」
「無理なら鍵をつけるだけでもいいわ」
いきなりドアを壁にするのは構造上難しいかもしれないと思い直して、リーラは譲歩した。
「……検討する」
無下にされなかっただけましだろう。リーラはシーツを床に落として、使用人たちが片づけた衣類の確認へと向かう。クロードの目があるのでなにもいたずらされてはいない。そのことにはひとまずほっとしたのだが、ほかに気になることが出て来た。
ウォークインクローゼットに吊るされた質素なリーラの衣類をまるでぼろ雑巾のように見せる、新品のドレスやらワンピースやらブラウスやらスカートやらが左右にずらりと並んでいるのだ。
クロードの趣味で揃えてあるのか、派手なものや露出の多いものはないが、それでもリーラの目からしたら上品すぎて普段使いにしにくいものばかり。
いくらなのか想像もつかないが、ロロが飛びついたら一発でおしまいなのは確実だ。ロロと戯れられないのなら、シーツ一枚の方がましである。
それとも。
(よく考えたら、別にわたしのものとは言われていなかったわ)
リーラは夜着から自前の服に手早く着替えて戻ると、クロードは目に見えて機嫌が低下した。
「用意してあった服があっただろう」
「あれではロロと遊べない」
愛犬ロロの名を出されるとクロードは黙って引くしかない。ロロ至上主義。そこだけは尊敬する。本当に。
「多少汚れても構わないものを選んだつもりなんだが」
クロードが気にしなくてもリーラが気にするのだ。
だいたい、今日は朝からなんなのだ。
まるで……そう。本当の妻にするみたいに。
離縁はしないと言ったからなのだろうか。だったら考え自体に相違がある。
離縁しないとは言ったが、妻になるとは一言も言っていない。そのふたつは似て非なるものだ。
情けをかけはしたが、許してはいない。
そもそも彼は初日、リーラになんと言ったのだったか……。
「きみとの間に子供はいらない?」
はっとして息を呑んだクロードに、リーラは精一杯美しく微笑んだ。あのとき彼がしたように。
「はじめにそうおっしゃったのは、あなたですよ?」
彼が嫌々でも初夜をやり通す気さえあれば、リーラだっておとなしく従った。どれだけ雑に扱われても、子供を得たらその子を慈しんだはずだ。
しかし過ぎた時間は戻らない。
もう二度と。
どことなく青ざめている様子の彼に、リーラはいくつか代替案を提示した。伯爵家の存続のために、やはり子供は必要だ。
「どこかから養子を迎えてもいいですし、愛人に産ませてもいいわ。誰の子でも、わたしが自分の子供のように育てるのでご安心ください」
愛人の子供だからと言って、冷遇したりしない。自分と同じ目には、決して遭わせない。
だがどの道、育てるのは乳母で、教育するのは家庭教師だろう。
それならリーラはあまやかすだけでいい。膝に乗せて絵本を読んだり、クッキーを焼いてあげたり。
リーラはヴェルデと違い、独学で勉強しては来なかった。最低限、読み書きと計算くらいはできるが、貴族としての教養は明らかに不足している。
兄が子爵家を継いでからは、どこに嫁いでもいいようにと家庭教師がついたが、それだって、結婚してからなにひとつ生かされていない。
それにリーラのような華もない陰湿な娘を連れ歩いていたら、クロードの評判も下がるだけだろう。
贅沢はしないから、この屋敷のすみっこで死ぬまで養ってくれたらそれで充分なのだ。そして後悔してほしい。自分の愚かな復讐心が招いた結果を。そんな思いで離縁はしないと言ったのに、どうしたらリーラが妻としての役割を果たすと勘違いができるのか。
「アイビーに産ませればいいわ。若くて健康そうだし」
美男美女で、男女どちらでも綺麗な子供が生まれることだろう。
クロードはリーラが真面目にそう言っていることに絶句していたが、体の脇で握りしめた拳を震わせると全力で否定した。
「アイビーとはそういう関係じゃない!」
「は? だったら初日のあれは、なんだったのよ」
リーラが令嬢とは思えないドスの利いた声と半眼で問い詰めると、彼は一転、冷や汗を流しながらぎこちなく目をそらした。
「あ、れは……その……、嫌がらせだ」
結婚前から愛人を囲っているのもどうかと思うが、それもどうなのだという話だ。
「とにかく、最低限自分で言ったことの責任は取ることね!」
クロードはこの件に関しては、検討するとは言わなかった。
意気消沈したまま、詫びのひとつもなく部屋を出て行ってしまった。
*
クロードは書斎にて、ヴェルデに宛てて借用書の内容を一部変更したいので、本人か代理人に一度こちらに来れないかという信書をしたためた。
そこへマーティンが、数日前より待っていた情報を持って部屋へとやって来た。
おおよその内容はもうわかっているが、聞かないといけない。聞きたくなくともだ。
「クロード様。やはり例のキンブリー家の元使用人たち、解雇されたことを逆恨みして根も葉もない噂を広めていたようです」
クロードは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
これで完全に自分のしていたことの無意味さが証明されたわけだ。
実の父親とその家族から虐待されようやく解放された少女を、愚かな自分は、今度は借金のかたに強引に兄から引き離し、飼い殺しにして冷遇し続けた。
弁明の余地もない。
あの日から腹の奥がじくじくとした痛みが断続的に続いている。この痛みに名をつけるとすれば、後悔。それしかない。
「過ぎたことをいつまでも引きずっていても仕方ありません。それよりも今はこの家の後継者問題について悩んでいただかないと」
「そんなことわざわざ言われなくてもわかってる」
クロードの当初の予定では、彼女が耐えきれずに逃げ出して借金を一括返済させてキンブリー家を潰す、もしくは、借金返済の後に離縁し、裏で手を回して評判の悪い男の後妻にでもする予定だった。
そしてクロードは復讐を終えた後、誰でもいいので身分の釣り合いのとれた令嬢と再婚して後継を残す予定で。
しかしいつの間にか、手放すという考え自体がクロードの中からなくなっていた。彼女は自分の所有物。誰かにやるなど冗談ではない。本気でそう思って、心のどこかで安心していたのだ。自分が見限らない限り、離れていかないのだと。
それが今や、立場がまるっきり逆転してしまっている。負い目があるので彼女が離縁を望まないのなら、クロードはそれに従わざるを得ない。そのことに安堵している自分もいるので、利害は一致しているはずだった。
なのにだ。今度は別の問題が浮上した。
リーラは子供を産まないと堂々と宣言した。
彼女が望まない限り、養子をもらうか、愛人に自分の子を産ませるしかない。
養子ならまだいい。だがそれには問題があった。祖父が慌ててクロードを探して引き取った程度には、近しい親類縁者がいないのだ。
かといって愛人に子を産ませる。これは論外だ。我が子を自分のような庶子にするつもりはない。なにより、好きでもない女を子供のためだけに抱けというのは、無理がある話だった。
となるともはや道はひとつしか残されていない。
「リーラに産ませるしか……」
「クロード様! いくら相手が小癪な娘だからといっても、さすがにそれはいけませんぞっ!」
「そういう意味じゃない!!」
復讐を考えたときですら、無理やり奪おうとは考えていなかったのだ。それではあの男と同じになる。先走りすぎだ。
「でしたらいいがなさるのですか? 今のクロード様は、非常に申し上げにくいのですが……控えめに言っても、蛇蝎のごとく嫌われておいでです」
「それほどか」
「奥様はまだしも蛇の方が好きかもしれません」
「それほどか……」
(俺は蛇以下か)
自分の蒔いた種ではあるが。
「もし奥様に産んでほしいと願うのならば、まずは信頼を勝ち得ることが先決でしょう」
「……できると思うか?」
「努力次第かと」
「……好意を、抱いてくれるだろうか?」
「……はて?」
マーティンは卑怯にも耳の遠いふりをして明言を避けた。
こんなところでマーティン相手に愚痴を言っていてもはじまらない。
結局クロードにできることと言えば、持てる力のすべてを駆使して、リーラに贖罪し続けることしかないのだから。




