12
リーラがちょっとひどい目に遭っているので、ご注意ください。
ここさえ乗り越えたらクロードはちゃんとしますので……よろしくお願いいたしますm(_ _)m
よくわからないが、ジーンと話した翌日、医者が伯爵家へとやってきた。
屋敷の人間すべてを対象にした健康診断だと言うが、これまで医者になどかかったことのないリーラは、最後の最後まで逃げ回っていたのだが、とうとうジーンとクロードに挟み撃ちされて捕まってしまった。悪魔の所業だ。
大の男に両腕を拘束されて連行されるリーラは死刑囚さながらの表情をしていたことだろう。
医者はマーティンよりもずっと老齢の男性だった。
肌を見せることに抵抗するリーラに、彼は根気強く健康診断の大切さを説いた。
そこまで言うのならと、渋々、リーラは診察台でされるがままに診察を受けた。肌を暴かれて、体中を触診されたが、彼が医療行為と割り切って行っていたため、なんとか羞恥心を抑えて耐え抜いた。
医者はリーラの体を診ても嫌悪に顔を歪めることはなく、これからは月に何度か話し相手になってくれるという。遠慮したのだが、老人の暇つぶしにつき合ってくれるとありがたいと言われてしまうと、断り切れなかった。
もし祖父がいたのなら、こんな感じなのだろうか。おじいちゃんと呼んでくれてもいいと冗談を言ったので、おじいちゃん先生と呼ぶと、彼は鷹揚に笑って小さな子供にするように頭をなでてくれた。しわしわの、乾いた大きな手のひらだった。
これまでリーラの頭をなでてくれるのは兄だけだった。よくがんばったねと労ってくれるのもまた、兄だけだった。
全然違う手のひらだったのに、優しいそのぬくもりは同じだった。
リーラは里心がつき、すっかりとヴェルデが恋しくなってしまった。
どうしようもなくなり、兄から届いた手紙を開いて自分を慰める。
着実に借金を返しつつあることと、リーラを気遣う言葉の数々。
会いたいが、会ってしまうと耐えてきたものがぽきりと折れてしまいそうで、リーラは一切の泣き言を綴らないようにしていた。
(それにどうせ、検閲している)
下手なことを書けばなにをされるか。
この間はジーンのことを書いた。兄からは彼がどこの誰だか気になっているような返事が来たが、残念ながらリーラには彼の素性などわかりっこないので、今回は健康診断のことを書くことにした。年に一度くらい、領民たちにも健康診断をしたらどうだろうか。確かに予算はかかるが、病を得て働けなくなる前に予防ができるのは大きいのではないか。リーラたちのように虐待されている子供がいれば、手遅れになる前に救出できる。
(あら? 健康診断って、いいことばかりじゃないの)
リーラの何倍も生きているおじいちゃん先生の言うことはやはり正しかったのだ。
かりかり筆を進めていると、マーティン(ねずみ)が机の上にやってきた。
この友達はどうやらリーラが健康診断の後こっそりもらったクッキーの存在を嗅ぎつけたらしい。
一枚差し出すと、マーティンは、ちゅうと鳴いて礼を言い、それを持って壁の穴へと潜っていった。
「そういえば……どぶねずみは病気を持っていると言うけど、はつかねずみは、大丈夫よね……?」
驚くほど考えたこともなかった。同じ釜の飯を食べた仲間なので、たとえ病気を持っていても邪険にはしない。
「動物もなにか、検査とかが簡単にできればいいのに」
おじいちゃん先生に次会ったとき相談してみようと本気で思ったところで、ふいにノックもなしに部屋のドアが開けられた。
リーラの部屋に無断で入って来るのはクロードくらいなものだ。顔をしかめてそちらを向く――が。
「……え」
クロードだ。確かに。だが彼は、はじめて見るような、ぞっとするほど剣呑な形相をしていた。これまでの怒った顔がかわいく思えるほど、全身から憎悪のようなものを立ち上がらせて。
思わず小さく悲鳴を上げると、ぱたん、と、ドアが無情にも閉ざされた。逃げ道が、塞がれた。
震え上がったリーラは椅子から転がり落ちながら、部屋の隅へと後ずさりした。
なにを怒っているのだろう。なにを怒らせたのだろう。恐怖と混乱で、頭の中がぐるぐると回って思考がうまくいかない。
リーラの動揺をよそに、クロードは一歩一歩確実に近づいて来た。
「服を脱げ」
真顔で命令されて、愕然とした。
とうとうこの身を差し出さなくてはならないのか。リーラは絶望した。もはや純潔だけが最後のよすがだったのに。
震える唇から声も出せずにいると、クロードはそれを拒絶と判断したらしく、さらに語調が荒くなった。
「いいから服を脱げと言っただろう! 聞こえなかったのか!」
突然結婚が決まったリーラは、閨のことなどなにひとつ習っていない。こうして妻を脅してことを進めるのが普通なのかさえわからない。
恐ろしくなって、膝が笑って立っていられなくなり、リーラはとうとう腰を抜かした。幸い尻餅をついた先はベッドで、たいした痛みもなく済んだ。
しかし迫ってきたクロードに、そのベッドへと押さえつけられそうになり、髪をふり乱しながら泣き叫んだ。
「嫌っ、来ないで……!」
「うるさい!!」
振り回した両手を掴まれて、シーツへと縫いとめられる。
怯えるリーラのにじんだ瞳に映るのは、切羽詰まった、余裕のない男の顔だった。
両腕は頭上でひとまとめにされて、前びらきのポタンを片手でひとつずつ外されていく間、リーラはもう、抵抗をしなかった。なにもかも諦めて、ひたすらに時間が過ぎるのだけを待った。
服の合わせ目が開かれ、シュミーズに覆われていないむき出しの両肩が外気にさらされた。
そして。
なにかを探すように視線を彷徨わせていたクロードは、リーラの左肩にある古い火傷の跡を目にすると、弾かれたようにリーラの肩から手を離した。
「それ、は……」
リーラは答えなかった。
いや、彼の声などもうとっくに、聞こえていなかった。
あの頃、いつも願っていた。
こうしてじっと耐えて待っていた。
早く嵐が通り過ぎることだけを、ただひたすらに、待ち続けていた。
恐怖や痛みが過ぎ去るのを。
自分をかばって兄が目の前で殴られているのを。
弱いリーラは、直視できずに。
今も弱いまま。子供の頃のまま。
兄が名前を呼んでくれるのを、大丈夫だよと言ってくれるのを。
ただひたすらに、待っていた。
待ち続けていた。
*
リーラの診察をしたのは、祖父の代から懇意にしている町医者だった。彼は痛ましげな面持ちで、クロードとジーンに診断結果を告げた。
「虐待を受けていたのはほぼ間違いないでしょう。もうだいぶ薄くなってはいますが、体のいたるところにその痕跡が残されています。ジーン様が気にされていた足についてですが、足首の骨にわずかな変形が見られました。おそらく折れたまま放置されていたことによるものでしょう。ずいぶん昔の骨折のようですし、幸いにも痛みもなく、日常生活に支障はなさそうですが……。これまできっと、全速力で走ることはできなかったのでしょうね……」
「ああ……かわいそうに」
それほどのことが隠されているとまでは思っていなかったのだろう、ジーンが我が事のように心を痛めてうめくのを横目に、クロードは蒼白な顔をうつむかせて沈黙を守っていた。
突然信じていた世界が崩れ落ちた。孤児院から引き取られたときだって、これほど足元が揺らぐことはなかった。椅子に座っていなければ、立っていられなかった。
クロードを見るときのリーラの嫌悪に満ちた藤色の目が眼裏に蘇り、愚かな自分に深々と突き刺さる。
耳に入って来る真実を前に、しかし心はそれを拒絶していた。それは誰のためでもない、自衛のための拒絶だった。
キンブリー前子爵は子供を虐待していた。
これほどわかりやすい事実はない。息をするように嘘をつく男だとクロードは知っていた。知っていたのだ!
外では子供たちを溺愛するふりをして、家では暴虐を繰り返す。見てなくとも容易に想像できることではないか。
それなのに、復讐心がクロードの目を曇らせ、自分に歯向かって来る彼女への苛立ちに心が狂わせた。
こんな簡単なことすら、見えていなかっただなんて。
(だったら、なんのために……俺は)
リーラとヴェルデを陥れることで復讐心を晴らそうとした。憎い男の子供たちで。
それすらもお門違いだということに、こんなに経ってから気づかされるとは。
いっそ、知りたくはなかった。
そのせいで彼らに恨まれたとしても、知りたくはなかった。
すべて無駄だったのだ。
まただ。また、キンブリー前子爵の嘘に踊らされていただけだったのだ。
クロードの亡き両親のように。
クロードがしたことは両親の復讐などではなく、憐れな娘にさらに傷を負わせただけのこと。
(……いや。みんな騙されているんだ、あの女に)
キンブリーの娘ならば嘘をつくのもお手の物だろう。
クロードはここに至ってもなお、自分の目で確かめるまでは頑なになにも信じようとはしなかった。
ひとりになってすぐ、クロードはリーラの部屋へと足早に向かった。
彼女は手紙を書いていたのか、机に向かっていた。そしてクロードが入ってきたことを知ると、羽ペンを落として部屋の隅へと逃げ出した。
まるで化け物でも見るような目で、クロードに怯えて後ずさる。
許せなかった。
理不尽にも、そんな目で見られることに耐えられなかった。
早く確認を終わらせたくて、服を脱げと命じる。だが彼女は震えるだけで従わない。医者には見せたくせにと焦れたクロードは、ベッドにへたり込んだ彼女を押し倒した。
嫌がる彼女の両手首を頭上でまとめて、片手でボタンを手早く半分ほど外して、服をはだけさせた。
すぐに目に入ったのは肩だ。力加減を間違えば折れてしまいそうなほど華奢な肩。その青白い肩には、火傷による引き攣れた痕がうっすらと残されていた。
クロードは自分の背中にひりつくような痛みを覚えた。この痛みを知っている。同じ痛みを。ほかでもないクロード自身が身をもって知っていた。
だから思わず、彼女の肩から手を離した。
医者の言うことは正しかったと、ここに来てようやく認めることができた。
古傷など意図して作れるものではない。指先が一瞬触れただけの背中にも、いくつかの凹凸が感じられた。それもやはり、クロードが慣れ親しんだ自分の体に残る痕と一緒だった。
だとしたら。
自分はどうすればいいのだろうか――。
今さら彼女に誠心誠意謝ったところで、許してもらえるとは思えなかった。
兄の元へ帰す。それが一番人道的な解決方法であるが、そうなると離縁という形を取ることになる。離縁した女性がまともなところに嫁ぎ直せるとは思えなかった。
(どうしたら……)
後悔の念に苛まれていたクロードだったが、先ほどからぴくりとも動かないリーラを怪訝に思い、その肩を軽く揺すった。
「……どうした?」
起きてはいる。だが、様子がおかしいことに目の焦点が合っていなかった。
ひゅっと息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて騒ぎ出す。クロードは慌ててリーラを抱き起こした。
「おい! 大丈夫か!?」
反応はなく、軽く頰を叩いてみる。それでもリーラの指ひとつ、動くことはなかった。
「リーラ!」
はじめて口にした名前は違和感しかなく、それでも必死に呼びかけた。口に馴染むほど、何度だって。
このまま彼女が自分を置いてどこかに行ってしまったら。
それがとても恐ろしかった。
命など簡単に手のひらからこぼれていく。体の傷だけではなく、心に負った傷で死んでいく者もいる。
失ってはじめて、気づくのだ。ぽっかりと胸に空いたその存在の大きさに。
「おいっ、どこにも行くな!」
クロードは償わなくてはならない。自己満足と言われようと、これから先、一生をかけてでも許しを請い続けなくてはならない。それが正しいことでなくても。
そのためにリーラの体を抱きしめて、頭や背中をなで必死に呼びかけ続けた。
そうしてクロードが思いつきでヴェルデの名前を出したとき――。
ぴくり。腕の中の体が動いた。そのときクロードの中に占めた感情は歓喜と、わずかな嫉妬だった。
その藤色の瞳を自分へ向けさせたいと思い、彼女の顔をのぞき込む。
しかしリーラは、ぼんやりと焦点の合った目に映るのが大好きな兄でなく、自分を辱めた憎い男だとわかるや否や、全力で暴れた。
「嫌っ、離して! 触らないで!!」
「リーラ! 落ち着け!」
嫌だと泣き叫ぶ彼女から離れると、憎悪に濡れた藤色の目がクロードを射抜いた。彼女の瞳に確かにクロードが映っている。しかしそれは憎しみの対象として。いくら探そうとも、それ以外の感情は、かけらほどもありはしなかった。
「出て行って」
リーラはシーツを手繰り寄せて肩から羽織った。その間も、クロードから目をそらさなかった。
「出て行って!」
拒絶。
謝罪どころか、話ができるような状態ではなかった。
今は引き下がるしかない。彼女の望み通り部屋を出ると、ドアの向こうからすすり泣きが聞こえてきた。
後悔だけが灰のようにクロードの上へと降り積もって行く。
どこで、なにを間違えたのだろう。
それすらもわからないまま、ドアの向こうが静かになるまでその場に立ち尽くすことしかできなかった。




