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 お世辞にも居心地がよいとは言えないロシェット邸において、ジーンはリーラとは正反対の感想を持ったらしく、なかなか帰るそぶりを見せず数週間が過ぎた。


 すっかりロロもいつもの調子に戻り、庭でジーンに猪毛ブラシで毛並みを整えてもらい、ご満悦。


 穏やかな陽気の昼下がり。リーラはベッドに寝転がっていた。


 セトのところに行こうとしたタイミングでジーンが庭に出てきたせいで、こうして部屋に引きこもっているというわけだ。


(早く帰ってほしいような、そうでもないような……)


 ジーンがいる間はクロードも使用人たちも彼にかかりきりで、リーラのことは存在ごと忘れているようだった。どこでジーンが見聞きしているかわからない以上、陰口や嫌がらせの類もなく、この屋敷に来てはじめて平穏な日常を過ごさせてもらっている。


 その点は本当に感謝しているのだが。


 問題がひとつ。


「おーい! リーラちゃーん!」


 リーラは名前を呼ばれ、渋々窓辺まで行くと、ジーンが笑顔でこちらに大きく手を振っているのが見えた。


「ロロのおもちゃってどこだっけー?」


(そんなこと自分の友達に聞けばいいのに)


 なぜリーラに頼る。侍女だと思っているから仕方なくはあるが、彼に構われる度に、クロードに物言いたげににらまれるのだけは納得いかない。それは自分が蒔いた種だろうに。


 リーラは屋敷のあちこちに落ちているロロのおもちゃを拾い集めてジーンの元へと運んだ。


「どうぞ」


「ありがとう。ロロはどれが好きかな?」


 おもちゃの山から、年季の入った泥汚れで茶色になったロロお気に入りのボールを取り、差し出すと、ロロは目を輝かせジーンを仰いだ。はやるその期待に応えるように、ボールは綺麗な弧を描き遠くへ飛んでいく。ロロは風のように疾駆した。


「……もう行ってもいいでしょうか?」


「せっかくだし一緒に遊ぼう。ほら、ロロもきみにとても懐いているようだから」


「だけどわたしは……ただの侍女ですので」


 卑屈にそう言ったリーラをちらっと見てから、ジーンは愉快そうに笑った。


「そうかもしれないけど、人生ってなにが起こるかわからないものだろう? 僕らだって、まかり違って親戚にでもなるかもしれないじゃないか」


(それはないんじゃないの?)


 あのクロードが彼に文句を言いつつも従っているのは、彼の方が身分が上か、頭の上がらない立場の人だからなのだろう。


 そんな人が、たかだか伯爵家の侍女(だと思っている娘)と親戚になるなどよく言えたものだ。人類みな友達という考えの人なのだろうか。


 ボールをくわえて帰ってきたロロは、しっぽを振って次の投球を催促している。ジーンはリーラへとボールを手渡してきたので、できる限りの力で遠くにボール投げた――つもりだが、飛距離はいささか短い。


「ああ、やっぱり」

 

「やっぱりって、なにがでしょうか?」


「リーラちゃん、左脚に大きな怪我をしたことがない?」


 リーラは瞬いた。理由はもう忘れたが、幼い頃、キンブリー前子爵の長男に階段から突き落とされたことがある。今はもうすっかりと忘れるくらいには治っているが、当時はそれこそ、三ヶ月近くはずっと左脚を引きずって歩いていた。


「どうしてご存知で?」


「はじめ会ったとき、ぶつかった後にうまく踏ん張りきれなかっただろう? 怪我をしているわけでもなさそうだったから、なぜだろうと思って。しばらくきみの歩き方を観察していた。左右の足の出し方が微妙に違うね。きみの歩き方には左を庇って歩いていた癖が残っている。無意識に左に力を入れないようにしているから、ボールも遠くへと飛ばない」


 ジーンのときの半分の時間でロロはボールを持ってきた。ジーンはまた遠くへと投げる。


 これまでそんな指摘をされたことはないし、走るのは確かに苦手だが、リーラ自身も他人と比べておかしいと感じたことはなかっただけに、ジーンの目ざとさに驚くばかりだ。


「ちゃんと治療しなかったの?」


 リーラは思わず笑ってしまった。治療なんて。


「医者に診てもらわなかっただけです。病院に行きたいと言えば、また殴られるのがわかっていたので」


 リーラの場合ほとんどヴェルデにかばわれていたし、運悪く怪我をさせられても、兄が手当てしてくれていた。それにあの男の息のかかった医者など、それこそ恐ろしい。


 どんな顔をするだろうかとつぶさに見つめていると、彼は不思議と腑に落ちたというように苦笑すると、ボールを持ってきたロロへと腰をかがめ、その頭をわしゃわしゃとなでた。


「クロードも相変わらずだな。ロロ?」


 同意を求められたロロは、はっはっ、と息を吐きながら次の投球を期待してしっぽを振り回す。


「あいつは昔から、かわいそうな生き物を放っておけないたちだったから」


(は?)


 何を言い出したのだ、この人は。


 ぽかんとするリーラに、ジーンは小首を傾げた。


「この屋敷の使用人たちは、孤児だったり、行く場所をなくして困っていた人だったり、クロードが見兼ねて雇った人たちだと聞いたよ。きみも……おんなじじゃないの?」


 リーラの反応をうかがうように、彼は黙って見上げている。


 この屋敷の使用人のことなんて、知らないし、まったく興味もない。


 だけど、もしかして……リーラと似た境遇だった人もいたのだろうか。


 だったら余計に。


 この仕打ちはないのではいか。


 憎しみがよりいっそう増すだけだった。


 ジーンはロロへと目を戻した。ロロは注目されて嬉しいのか、彼の頰をべろんと舐める。


「ロロも、もとは捨て犬だよね」


「まあ、ロロが捨て犬……」


 もとの飼い主はなんてばかだったのだろう。こんなに愛らしい犬を捨てるなんて。


 もし家計が苦しくて手放さざるを得なかったのなら、それはとてもつらい話だ。ロロは幸せに暮らしていると教えてあげたい。


 リーラもしゃがんでロロの耳の後ろをかいてやった。


「リーラちゃんは人間は嫌いだけれど、動物は好きなんだね?」


「人間が嫌いだとは言っておりませんが」


「でも、嫌いでしょう?」


 ぐうの音も出ない。


 いや、嫌いな人ばかりではない。


「兄は好きです」


 セトも好きだ。村や街の人たちも。


「お兄ちゃん子なんだ? ……お兄さんが、助けてくれていたの?」


 だいたいは察しているだろう。彼にはそれを口にしない優しさがあった。


 ジーンとヴェルデは少しだけ似ている。線の細い中性的なヴェルデに比べたらジーンは長身で体格もいいが、見た目ではなく、纏うその穏やかな雰囲気が似ていると思った。


 リーラはヴェルデを思い浮かべて、自然と顔を綻ばせた。兄のためなら死すら怖くない。しかし兄のためを思うのなら、リーラは笑顔で生きていなければならない。


「ええ、どんなときでも兄が助けに来てくれた。兄はわたしのたったひとりの、かけがえない大切な家族です」


 ジーンがなにかを言おうと口を開けかけたとき、無粋な不機嫌声がふたりの間に割って入った。


「なにをしているんだ」


 クロードが声同様仏頂面で寄ってきて、ロロはしっぽを大回転させながら足元にまとわりついた。やはり飼い主には敵わない。


「こんなところで遊んでないで、さっさと仕事に戻れ」


 要約すると、さっさと見えないところへ行け、ということだ。


 ようやくお役御免。リーラは歯向かうことなく従った。


「では、失礼いたします」


 部屋のある方角へと歩いていくリーラを、クロードが物言いたげに見つめていたことには気づけるはずもなかった。









「かわいいよね、あの子。うちにもああいう子がほしいな」


 ジーンが興味を示していることに、クロードははっきりと不快感をあらわにした。


 リーラはクロードのものだ。所有物だ。いくらジーン相手でも、簡単に譲りはしない。


「あれは誰彼構わず噛みつくような女だぞ?」


「噛みつかなければ生きてこられなかったのだろう? それにご覧の通り、僕は噛みつかれていない」


 ジーンは両手を広げて見せ、クロードは渋面で押し黙った。


 そうなのだ。リーラは、ジーンにだけは丁寧に受け答えをしている。嫌がるそぶりもなく、だ。


 しかもクロードがいることにも気づかず楽しそうに話をしていた。


 ロロ相手以外ではじめて見せる微笑みは、クロードが苛立つほどやわらかかった。


 どんな魔法を使ったのかとジーンを見やる。


 彼は肩をすくめて、これでも妹がいるからねと、答えになっていない言葉でごまかした。


「忙しいくせに、なんの目的があって、こんな辺鄙なところまで来たんだ」


「目的、ね……」


 ジーンはリーラの去っていた方を一瞥してから、なに食わぬ顔でクロードへと戻す。


「言っただろう? きみに会いに来たんだ」


 あくまではぐらかす気らしい。


 しかしクロード自身後ろ暗いことをしている自覚があるので、深追いすると逆に追い詰められそうで、諦めて話を切り替えた。


「噛みつかなければ生きてこられなかったって、なんの話だ」


 ふたりが一体どんな話をしていたのか探りを入れると、ジーンは思いがけず真剣な眼差しを向けて言った。


「あの子、リーラちゃん。一度医者に診せた方がいい。きみのためにも」


「なぜ?」


 知らない間に怪我でもしていたのだろうか。内心動揺するクロードに、ジーンは呆れた様子で腕組みをする。


「なぜって……。親から日常的に虐待されていたんだろう? 長いスカートで隠れてわからないかもしれないけれど、歩き方だって少し不安定だし、体の使い方も妙にぎこちない。日常生活に支障はないみたいだけど、本人に聞けば医者にかかったこともないと言う。そういうのは体よりも精神に影響を及ぼすだろうから、念のためそっち方面に頼れる医師に診せておいた方がいい」


 クロードはジーンの言っていることが理解できなかった。


「虐待? あの娘がか?」


 そんなはずはない。キンブリー前子爵に目の中に入れても痛くないほどかわいがられていたと、元使用人たちも口を揃えて証言しているのだ。


 クロードはかぶりを振った。


 ジーンの気のせいだ。


 そうに違いない。


 そうやって自分に言い聞かせるが、ジーンが不確かなことを事実確認もなく口にするような軽薄な人間ではないことも、よく知っていた。


「だから拐って来たんじゃないのか?」


「そういうわけでは……」


 厳しい口調のジーンに、クロードはあいまいに言葉を濁した。担保として拐ってきたとは口が裂けても言えなかった。


 ジーンに射抜かれ、クロードの背筋に冷や汗が伝う。にらみ合いの末、彼が先に視線を外してくれたので、ほっと息をついた。


「まあ、いいよ。きみが気づかなくてもおかしくない程度だ。どちらにしても、一度診てもらうといい。事によっては彼女の親を捕らえないといけない」


「その必要はない。彼女の親は、死んでいる」


 それだけははっきりと言えた。


 死んでいるのだ。


 事故で。


(……本当に、事故で?)


 ふいに、当時抱いていたはずの疑惑が浮上してきた。


 馬車が崖下に落ちる事故が、年間にどれほどあるだろうか。


 少なくとも、クロードはあまり聞いたことがなかった。


 野党に襲われて殺されるのならわかる。警護の不十分だった貴族の馬車などが襲われる事件は時折耳にするからだ。


 だが。キンブリー前子爵と妻と長男の三人を乗せた馬車の車体だけが崖下に転落することが、果たしてあるのだろうか。


 金目の物が残されていたこともあり、単なる事故として処理されたが。


 確かにあのとき、奇妙だと思ったのだ。


 馬車をひいていた馬は、馬車を走らせていた御者は、どこへ消えてしまったのか――と。


 しかしその違和感は、すぐに激しい怒りと憎しみの中に埋没してしまった。


 心臓がどくどくと嫌な音を立てて早鐘を打つ。


 現実に引き戻すように、ロロがそのやわらかな頭を膝にこすりつけてきた。


 そこではじめて、クロードは自分の膝が震えていることに気がついた。


 なにか重大な間違いをしているのではないか。


 なにか見落としているのではないか。


 なにか。


 なにか。



 なにか――。



「クロード? 大丈夫か?」


 ああ、と上の空で答えて、抱っこを求めて飛びついてきたロロを抱きしめた。


 そのあたたかな毛皮に触れながら、なぜだろう、心はどんどんと冷めていくのを感じていた。



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