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 我ながら、なんて生意気でかわいげのない女なのかと落ち込みながら、リーラは袖で目元をぬぐいロシェット伯爵邸への道のりをとぼとぼと歩いていた。


 クロードは怒っただろう。あの時点ですでに激怒していたのだから、それ以上に。


 なぜあれほどムキになってしまったのだろう。


 本気で彼とキンブリー前子爵とを重ねたわけではなかったのに。


(メイドに手を出しているくせに、一途がどうとか言うからよ……)


 それなのにリーラを名ばかりの妻にした。


 どちらにも不誠実だ。


 だから少し、苛立った。果実酒のせいもしれない。


 明日からどんな嫌がらせがはじまるのか、考えるだけで暗澹たる思いだ。


 暴力だけはやめてほしい。冷たい言葉で罵られることも嫌ではあるが、耐えられる。痛いのは嫌だ。


 と、考え事ばかりしていたリーラは、またしても前方不注意によってなにかに衝突した。今回はリーラのほうが弾かれた。


 障害物を見上げる。木かと思いきや、青年だった。しかも貴族の身なりをしている。彼はリーラ同様驚いた顔をしたが、すぐに物腰やわらかに微笑み、まっすぐ立てるように手を貸してくれた。意外とがっしりしていて固い手のひらだった。


「ごめんね、大丈夫?」


 顔をのぞきこまれたリーラは、ええ、とうなずきつつ、少し距離を取った。これでも一応、人妻なので。


 名ばかりの妻ではあるが。


「こちらでなにをしてらっしゃるのですか?」


 この先にはロシェット伯爵邸しかない。その奥に広大な林があるが、こんな時間に誰も足を踏み入れたりはしない。


 リーラの質問に対して、彼は気まずげに赤銅色の頭をかいた。


「思ったよりもひどい嵐だったせいか、馬車がぬかるみにはまってね」


「あら、それはお気の毒に。人を呼んできましょうか?」


「もう救援は呼んだよ。ひとまずひとりで歩いて訪問先に向かっていたところで……」彼はリーラへと手を向け、わかるだろうと言うように肩をすくめた。「後ろからお嬢さんがぶつかってきた」


「すみません、ちょっと……考え事をしていたもので。訪問先というのは、もしかしてロシェット伯爵邸ですか?」


「うん。ロシェット伯爵は友人でね。まあ、僕が思っているだけかもしれないけど。なにせ結婚したのに、一言もなかった」


 ああ、とリーラは曖昧な生返事。理由が理由なだけに、親しい友人には知られたくなかったのだろう。もし来ることを事前に知らせていたら、クロードから口裏合わせの指示が出されていたに違いない。


 友人関係がぎくしゃくしようと、亀裂が生じようと、リーラには一切関係ない話ではあるが。


「ところできみは、どこの誰だろう? きみもこの先へ?」


「そんなところです」


「それなら一緒に行こうか? こんな夜遅くに女性のひとり歩きは危険だからね」


 彼はウインクをひとつ。クロードの友人だと疑わしいくらい、茶目っ気のある人だと思った。







 屋敷に到着するまでに自己紹介はしなかった。リーラは意図的に、そして彼に至っては単純に忘れていたからだった。


 なんとなく、彼はリーラのことを侍女かなにかだと思っているようだ。


 なので玄関を開けたマーティン(人間)の豆鉄砲を食らったような顔を見て、リーラは内心ほくそ笑んだ。


 マーティンは状況がいまいち呑み込めなかったのか、リーラを見て、客人を見て、またリーラを見た。とりあえず客人を中へとうながしつつ、なにがどうなってこうなったのか? と目で問いただしてきたが、気づかないふりでやり過ごした。


 むしろマーティンのその手にある、見覚えのない犬用の首輪の方が気になるところだ。新しく犬でも飼うのだろうか。


「それにしても久しぶりだなぁ、マーティン。驚いたかい?」


 マーティンは生真面目で堅苦しい家令の仮面をつけ直して、丁重に応じた。


「お久しぶりでございます、ジーン様。ようこそお越しくださいました。お疲れでしょう、どうぞおくつろぎくださいませ」


 ジーンと呼ばれた青年は、勝手知ったる様子でソファにかけ、マーティンに言われるまでもなく、すでにくつろいでいた。


 反対に使用人たちは一気に多忙となり、壁の向こうで慌ただしく走り回っているのが容易に想像できる。足音も聞こえてきそうだ。


「クロードの反応が楽しみだな。親友がはるばるやって来たと伝えてくれよ」


 マーティンの視線が一瞬リーラへと動いたが、すぐにジーンの言葉に従って主人を探しに行きかけたところで、タイミングよくクロードが、なにごとだと使用人たちに問いながら入室してきた。なぜか、新品の犬用のおもちゃ持参で。


 憂さ晴らしなのか、街でロロ用のお見舞い品を呆れるほど買い漁ってきたようだ。


 片手を上げて、やあ、とほがらかに笑うジーンに、クロードはほんの一瞬呆けた顔をし、即座に眉をぎゅっと寄せて身構えた。


「どうしてここにいる? なにを企んでいる」


「なにも企んではいないさ。きみが結婚したって小耳に挟んだから、お祝いの言葉でもと思って立ち寄ったんだよ。それで噂の奥方はどこだい?」


 にやにやとしたジーンに渋面のクロードは、すぐそこで突っ立ったままのリーラを見た。なにも言っていないだろうなと眉を上げる。答える義理もない。ふいっとそらしてやった。


「残念だったな、妻は体調を崩して実家に戻っている」


(この男、しれっと嘘をついた)


 ジーンは驚いた様子でソファの背から身を起こした。


「えっ、それって、もしかして……? ああ、でも、そうか。そうだよな。おめでとう? で、合っているかい?」


 クロードとリーラはきっと、同じ表情をしていただろう。苦虫を噛み潰したような顔。どうやらジーンはとんでもない誤解をしているようだ。


 クロードは即座に否定した。ジーンの正面にかけて、手のひらで先走らないよう制して。


「言っておくが、おめでたじゃない」


「いいよいいよ、隠さなくても。愛する奥方が本当に病気だったら、きみがそばに行ってつき添わないはずがないだろう?」


 たしかに。それは一理あるとリーラは思った。クロードのロロに対する愛情の深さだけは、唯一尊敬できるところだ。


 もし彼が本気で誰かを愛したなら、愛された女性は幸せだろう。嵐の中なりふり構わず駆けつけてくれる恋人なんて、なかなかいない。


 ジーンはクロードのことをよく理解している。


 だが、友人だからこそ目が曇ってもいる。


 彼が、愛してもいない女を妻にしたとは、思いもしないのだから。


 クロードならばどんな令嬢だって選びたい放題だったはずなのだ。青年伯爵であり、見目麗しく、富にも恵まれ、領民たちの話によれば王族からも覚えがめでたいとか。


 リーラを妻にする必要なんて、これっぽっちもなかった。


 たとえば、侍女として身柄を押さえておくことだってできたはず。愛人にして娼婦の真似事をさせてもよかった。


 だけどそうはしなかった。


 体裁が大切だから? だが、貴族の男が愛人のひとりやふたり囲っていたところでなんら問題はない世の中だ。


 こうして友人に嘘をついてまで、彼はなにがしたいのか、リーラにはますます彼のことがわからなくなった。


「ところで、なぜ彼女がここに?」


「ああ、この子? ここまで一緒に来たんだよ。新しい侍女かなと思ってたんだけど、違った?」


「いや? まさしくその通りだ」


(ここぞとばかりに便乗した……)


「かわいい子だよね。そういえば、名前はなんだっけ?」


「侍女の名前なんてどうでもいいだろう」クロードはリーラに射るような視線を向けた。「きみは仕事に戻りなさい」


「……はい」


 仕事ってなによと内心ぶつぶつ文句をたれながら、リーラは侍女らしく努めて返事をした。


 もしかすると、ジーンがいる間はずっと、侍女を演じなければならないのだろうか。


 だけど考えようによっては、クロードと接触する機会が減るということでもある。一日中友人の相手をしなくてはならないのだ。リーラがいたことさえ、忘れてしまうに違いない。


 それでいい。


 忘れてくれれば。


 心を傷つけられるよりは、忘れられている方が、ずっといい。


 





 リーラの分の夕食は、ジーンのお腹に収まった。腹ぺこだったらしく、おかわりまでしたとか。


 リーラはというと、夜中にマーティン(ねずみ)に起こされて、ねずみ撃退グッズをなんとかしてくれと切実に訴えられて、屋敷のいたるところに仕掛けられたそれらをことごとく潰して回った。感謝の印に、穴あきチーズをわけてもらった。持つべきものは動物の友達だ。


 チーズをつまみつつ、せっかくなのでロロの様子をうががいに行くことにした。


 具合もずいぶんとよくなったようで、リーラを見るとしっぽを振ってとことこ近寄ってきた。


「もう大丈夫なの? 早くまたボール遊びをしたいわね」


 ロロは賛成とばかりにぐいぐい頭をこすりつけてきた。


「ロロ……ありがとうね。わたしを迎えに行くようご主人様に進言してくれて。おかげで一晩中寒い思いをしなくて済んだわ」


 ロロは小首を傾げ、お互い様だというように、わふ、と笑った。


「そうね。困ったときは助け合わないとね」


 ロロがリーラの膝に前脚を乗せて寝そべり、やわらかな黄金色の毛並みをなでなでしていると、部屋のドアがふいに開いた。誰だろうかと振り返る。クロードだった。


 考えてみればこれほど簡単な問題はない。ロロのことしか頭にないこの男が、夜中におとなしく眠っているはずがないのだ。


 彼は顔をしかめ、リーラとロロを交互に見やり、ロロを挟んで反対側に腰を下ろした。カーペットにあぐら。どんな格好をしていても似合わないということはないらしい。


「いいクッションが見つかったようだな、ロロ」


 ロロは頭をなでられてごきげんにしっぽを振って返す。


 クッション扱いされたリーラは唇を結んで、脳内をすかすかの綿にすることでやり過ごす。


 どれくらい経った頃か、クロードが気まずげに視線を彷徨わせてから、口を開いた。


「……友人が帰るまで、姿を見せないようにしていてくれないか? セトのところに行っていてもいいし、部屋にこもっていてもいいから」


 提案された内容はさほど難しいことではなかったが、彼への反抗心から素直にうなずきはしなかった。


「いつかバレることよ」


 想定内の返しだったのか、クロードは意地悪げに口の端を上げた。


「愛し合っている夫婦らしく、四六時中にこにこしながらくっついて場所をわきまえず抱き合ったりキスしたり、濃密な愛情表現を人前でさらしたいのなら、それでもいいが?」


「お断りします」決断は早かった。「わたしはともかく、あなたにそれは無理でしょうし」


 ふんとそっぽを向くと、クロードはむきになって言い返してきた。


「ばかにするな、演技くらいできる」


 どうだか、と思っていると、クロードの手がロロからリーラの頭に移動した。つ、と髪から輪郭をなぞるその感触に驚いて顔を上げると、優しげな瞳とぶつかり、思わず呼吸が止まった。


 彼は今、演技をしているのだろう。リーラへの嫌悪感なんて一切感じられない微笑みをたたえて、あまい声音でありふれた愛の言葉を囁く……。


 はじめて会ったとき、彼のことを、王子様のようだと思ったものだ。


 それは今でも変わらない。


 彼の見た目が変わったわけではないから、それは当然だ。


 変わってしまったのは、リーラの彼を見る目。


 これだけ素を見せつけられていたら、なにが演技でなにが本心かくらいは、誰だって見極められるようになる。


 確かに彼の演技は完璧だった。


 一般的な、熱に浮かされた男の演技としては、及第点。


 だけど本人はどれほど気づいているのだろうか。


 こんな風に、相手に淀みなく愛を囁ける人間は実は少ない。


 こんなもの、想い合った恋人同士だからできる睦言であって。


 相手を本気で落としたいのなら、必要なのは口先だけの言葉ではなく、真摯な態度ではないだろうか。


 本気だからこそ、相手が自分のことをどう思っているのかで一喜一憂する。好きになってほしくて、相手の喜ぶことを全力でする。


 人を貶めるためにキスができる男に、それがわかるはずもない。


 人を本気で愛したことなんてないのだろうこの男の言葉には、胸に響くような切実さがない。こんなのは、ペラッペラの中身のない三文芝居。


 そのときが来たら、せいぜい本物の恋を前に懊悩すればいい。


 自分がどれほど未熟な人間か思い知って後悔すればいい。


 大丈夫。もう惑わされない。


 彼への期待はもう塵ほどもないのだから。


「……なぜ、そんな顔をする?」


 自分がどんな顔をしているのか、あいにくリーラにはわからなかった。


 それでも、恋に落ちた少女の顔でないことだけはわかる。


「あなたの演技が下手だったからじゃないでしょうか?」


 不機嫌さを隠しもしないクロードを無視して、リーラはロロに断りを入れると、スカートのしわを伸ばしながら立ち上がった。


「安心してください。あなたのご友人と関わるつもりはないので。わたしだってあなたと夫婦だなんて、思われたくありません」


 ドアへと向かう背中に、クロードの声が落ちてきた。


「侍女のお仕着せを用意しておく。明日からそれを着ろ」


 新手の嫌がらせだ。


 しかし今着ているくたびれたワンピースよりはましかもしれないと思い直し、リーラは少しだけ笑ってしまった。





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