1
空腹は最高のスパイスというが、生まれてこのかた空腹でなかったときの方が少ないリーラにとって、それは慣れ親しんだ生への渇望であり、ときに敵であり、ときに戦友のような、切っても切り離せない存在だった。
そして今現在――。
誰もいない、ロシェット伯爵邸の厨房に忍び込んだリーラにとって、空腹は間違いなく敵であった。
ひっきりなしにきゅるきゅる声高に鳴っては、誰かに見つかるのではないかと何度もあたりをうかがい、自分の薄い腹をにらみつけてから、リーラは漁った。――生ごみを。
こうして夜の闇に紛れてごみ漁りをしていると、みっつ年上の兄、ヴェルデの言葉をいつも思いだす。
「いいかい、リーラ。貴族屋敷の貯蔵庫の食料は、じゃがいもひとつに至るまで、すべてこと細かに記録されているんだ。盗んだらすぐにばれてしまう。だけどここは腐っても子爵家だから、まだ食べられるものがたくさん捨ててある」
ほら、と言って差し出された、半分腐りかけたりんごの味は、一生忘れることはないだろう。自分だって死ぬほどお腹が空いていたのに、戦利品のそのりんごを譲ってくれた兄の笑顔は、リーラの宝物のひとつだ。
ヴェルデと一緒なら、どんな苦痛でも耐えられた。
どんな屈辱だって――。
だけど今は、ひとりきり。
助けてくれる兄は、ここにはいない。
リーラは唇をかみ、黙って首を振る。自分で選んだ道だ。元より艶のない黒髪が顔の横でへたりと揺れた。今はこの状況に嘆くよりも、空腹を満たすのが先決だ。
キンブリー子爵家から借金の担保としてロシェット伯爵家に嫁いで、早一週間――。
リーラはまだ食べられる野菜や果物の山を満足げに眺め、それから……。
激怒した。
やはり我慢ならなかった。
食べ物の匂いに誘われてきた真っ白なねずみと張り合い、しなびかけた野菜の皮を必死でかじる。生きるために食らう。
なぜ自分は、こんな目に遭わなければならないのだろう。
夫からも、使用人たちからも隠れて、ねずみとごみを漁るような屈辱にまみれた新婚生活。
許せなかった。リーラを侮るロシェット伯爵家の使用人たちも、初日以降顔を見に来もしないロシェット伯爵も。
思えば生まれたときからずっとそうだった。
もはやそういう星のもとに生まれついたとしか思えない。
そう割り切れるざっくばらんな性格ならば、どれほどよかっただろう。
リーラはその屋敷の人間ひとり残らず呪いながら、再びしなびたにんじんの皮をもそもそとかじりはじめた。
*
リーラと兄のヴェルデは、異母兄妹だった。
リーラの母も、ヴェルデの母も、元はキンブリー子爵家に仕えるメイドだった。その美しさからキンブリー子爵に手をつけられ、その結果、ふたりの兄妹はこの世に生を受けた。
しかしキンブリー子爵家にはすでに正妻が産んだ長男がいて、当然だが、その正妻と長男はリーラたち母子のことを快く思っていなかった。
隙あらばいびられる毎日。父親であるキンブリー子爵が子供たちを顧みることはなく、それどころか率先して子供たちを痛めつけ、ふたりの母親は我が子を守るために矢面に立ち、そしてふたりがまだ幼いときにともに短い人生を終わらせたのだった。
リーラの記憶には悲しいことに、母である彼女たちの姿はない。物心ついたころからの思い出も、愛情も、知識や常識もすべて、半分血の繋がった兄のヴェルデから与えられたものだけだった。
それからずっと、ヴェルデがリーラを守ってくれていた。ふたりきりの兄妹だと、お互いを心の支えに生きてきた。どれだけ痛めつけられても、どれだけ蔑まれても、ふたり一緒だから耐えられた。
ヴェルデはいつも泣いていたリーラを励ますように、頭をなでてはこう言った。
「ぼくはいつか、この家を乗っ取るよ。どんな手を使ってでもね。使用人たちもみんな入れ替えてしまおうね。そうしたらリーラに、毎日新鮮な野菜で作ったサラダやスープ、焼きたてのパンもたくさん食べさせてあげる。だからもう、泣かないで」
そうして妹思いの優しい兄は、リーラが十五のとき、その夢物語を現実のものへと変えてしまったのだった。
元々領民たちから嫌われていたキンブリー子爵とその妻、長男は、社交界のために王都へと赴いた際、不慮の事故で全員揃って命を落とした。
行ったきり音信不通な子爵たちを、領民のだれひとりとして、探そうとはしなかったという。
悪天候が続き、農作物の多大な被害を受けた領民たちに、慈悲のかけらもなく税を引き上げたキンブリー子爵。彼らの思いは、至極まっとうなものだった。
もっと早く見つかっていれば、あるいは……。そんな風に思う人などいなかった。皆無だった。この世の誰ひとり、彼らの生存など望んでいなかった。
その一件はつつがなく事故として処理された。
真相は神のみぞ知る、というやつだ。
そしてヴェルデは、かねてより自分たちを見殺しにしていた使用人たちを総取っ替えし、新しいキンブリー子爵家の再建をはじめた。
無駄に使われていた税を抑えて、残されていたわずかな金銭と不必要な貴金属、美術品、装飾品、家具などを売って農作物の被害に当て、なんとかはじめの一年を乗り切った。
これから天候に左右されない新たな特産品もいくつか増やして、収入を見込めるだけの黒字を出し、ようやく慎ましくも穏やかに暮らせる――。
そう思った、その矢先のことだった。
キンブリー子爵に生前貸しつけていた借金を返してほしいと、ロシェット伯爵本人が訪れたのは。
その日はちょうど、キンブリー一家の喪が明けた日の翌日のことだった。
呼び鈴が鳴り、来客かと玄関を開けた先に立っていた身なりのいい青年に、リーラははじめ、大いに驚いたものだ。
上背があり、街でも見たこともないような秀麗な顔をしたその貴公子は、リーラを見て一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに気を取り直し用件を告げた。
「キンブリー子爵にお目通り願いたい」
そう言った彼の神秘的な銀髪や、高い位置からリーラを見下ろす少し冷たそうな濃青の瞳に見惚れてしまい、深く考えずに中へと招いてしまった。
案内の最中、彼は自分がロシェット伯爵であるとだけ口にした。
(本物の貴族はこういう人のことを言うのね……)
これまで社交界にデビューする余裕もなかったリーラの知る貴族とは、キンブリー家の人間だけだった。下品で底意地の悪さのにじむ卑しい目つきの子爵と、そっくりな長男に、化粧が濃く素顔があやふやな正妻。貴族とはそういうものだと勝手に思い込んでいたが、どうやらそれは誤りだったのだと認識を改めさせられた。
兄のヴェルデは整った容姿をしているが、線が細く儚い印象の青年だ。リーラは歩きながらロシェット伯爵の横顔を盗み見、世の中にはこんな王子様みたいな人がいるのかと、あっけにとられていた。
しかし、好意を持って彼を見れたのは、そのときまで。
応接室で、ヴェルデと向き合って座った彼の口から慈悲なく言い放たれた借金の額の大きさに、リーラは危うく卒倒しかけた。
借金の総計は、現在のキンブリー領の領地経営で得られる収益五年分の額に相当していた。純利益だけに換算すればその倍近くは返済に時間がかかると思われた。
ヴェルデは難しい顔で、優雅にティーカップを傾けるロシェット伯爵に対峙している。手元には借用書。リーラにちらっと見えただけでも、偽造の可能性は限りなく低いと思われた。
「しかし……この契約を交わした父は、すでに亡くなっています」
「あなたもわかっているはずだ。これはロシェット伯爵家とキンブリー子爵家間の契約で、個人的な借用書ではない、と」
兄は押し黙った。贔屓目に言ってもいつ背後から刺し殺されてもおかしくない状態だったあの男が、万が一死んでも借り逃げされないように考慮しての、この契約書。ヴェルデのひとつ上なだけだというこの青年伯爵、相当抜け目がない人物らしい。
「だが俺も鬼ではない。こちらの経営が安定するまでは、と待っていた限りで。もちろん、今すぐに全額耳を揃えて一括返金しろなどと非情なことは言わないが……」そこで不自然に区切り、ロシェット伯爵はなぜか、ヴェルデの後ろに立っていたリーラを見た。「そこに記載されている通り、担保はいただいていこうかと」
「担保……?」
リーラは不安げにヴェルデを見やった。兄は借用書をにらみ、静かに怒り狂っていた。普段温厚な兄をここまで怒らせることとは。リーラは借用書へと目を走らせた。条件の項目に、担保として娘リーラを差し出すと悪筆で記されていた。見覚えのあるキンブリー前子爵の字だった。
(わ、たし……?)
他人からしてみれば、自分の娘を担保にするのは苦渋の決断かもしれないが、キンブリー前子爵にとってのリーラは虫けら並みに無価値に等しい。娘を差し出すだけで借金を踏み倒せるのなら、腹の底で笑いながらそうしたに違いなかった。
「リーラを……妹を、どうしろと?」
ヴェルデの声は落ち着いているようで、硬かった。
ロシェット伯爵は、穏やかに笑った。目は少しも笑っていなかったが。
「借金の担保として彼女をいただくのは、お互い外聞が悪いのでは? 幸いにも私は独身で、婚約者もいない」
そこでロシェット伯爵はおもむろに立ち上がって、ソファの後ろで立っていたリーラのところまで歩いてくると、頤を掴んで上を向かせた。固い男の人の手だ。心臓が跳ねる。異性とこれほど近づいたことはない。それに王子様のような男性にこれほど間近で観察されて、自分とのあまりの違いに、逃げ腰になった。
視線がかち合うと、彼はあまやかに目を細めた。どんな娘でもとろけさせるような笑み。頬を染めたリーラは、ますますこの場から逃げ出したくなった。
「小柄だが、顔の造作はまあ悪くはない。少々野暮ったくはあるが……」
彼は小声でそうつぶやくと、すぐに興味を失ったかのように顎から手を離し、リーラはほっと息をついた。
「リーラ」
兄に優しく名前を呼ばれて、リーラはまだ赤らむ顔を上げた。
「部屋に行っておいで」
リーラはヴェルデとロシェット伯爵の間で視線を彷徨わせた。どちらもリーラに席を外してほしいと思っているようだった。これからリーラ抜きで話を詰めるつもりなのだろう。
だが、考えなくとももう答えは出ている。学がなくてもわかる。リーラは担保として、この青年貴族の元へと嫁ぐことになるだろう。彼が譲歩しない限り、それだけは決して揺らがない。そして彼にそのつもりはない。
つまり自分は金で買われるのだ。
これから先の未来を――。
しかしそのときリーラが憂いたのは、自分のことではなく、兄のことだった。
兄は少し腹黒いところがあるが、まともな神経を持った人間だ。いくら体裁を整えたと言っても、売られてきた花嫁が厚遇される可能性はかなり低い。そうなれば兄は間違いなく、自分を苛み呪い続ける。
だったら。
兄がその決断を口にする前に、リーラが自ら受け入れるしかない。どんな結果になろうと、自分の決めたことの責任は、自分で負えばいいのだから。
もしかすると、それなりには大事にしてもらえるかもしれない。そうでなくても、政略結婚なんてよくある話で、好きな相手と結ばれないのは当たり前のことだ。幸いリーラには想う人もいない。そう自分を納得させた。
これまで兄におんぶに抱っこだった。だけどヴェルデには心に決めた人がいる。ただでさえいくつも障害があるのに、こんなことで台なしにしてほしくなかった。これから先、兄が守るのは妹ではない。彼が守るのは愛しい彼の家族でなくてはならない。
兄の幸せの邪魔だけはしたくない。一度くらい、兄の力になれたらいい。これはきっとちょうどいい機会だった。そう思うことにして、リーラは静かに微笑んだ。
「兄さん、わたしはこの方の元に行こうと思います」
「リーラ……? なにを言い出すんだ」
ヴェルデが反論する前に、リーラは先制した。
「兄さん、これは悪い話じゃないわ。わたしも結婚できるし、担保として彼の妻でいる限りは、借金返済の催促も永遠にされない。それに借金があるとわかっているのだから、持参金も要求されないでしょう? 身ひとつで行けばいいなんて、気軽じゃない。そうですよね、伯爵様?」
リーラはロシェット伯爵へと目を移した。か弱そうな娘が急にぺらぺらしゃべり出したことに面食らった様子だったが、すぐに人をとろけさせる例の笑みでうなずいた。
(言質を取ったわ)
この国は貴族といえど離縁するのにかなりの時間を要する。しかも結婚後三年以内の離縁は双方の同意、もしくは、それなりの理由がない限り不可能である。もし万が一リーラがロシェット伯爵の不興を買い三年後に離縁されようとも、離縁を承認されるまでの期間も借金返済の猶予となるはずだ。
どれだけ大丈夫と言ったところで、ヴェルデはリーラを見捨てないだろう。
ならばリーラを自由にするために借金は返さなくてはならない。
しかし猶予があるとないでは大きく変わってくる。
これで少しは兄の有利に話を進められたのではないか。離縁さえしなければ、兄が借金で苦しむことはない。それにヴェルデの手腕ならば、労せず数年で全額返済することも夢ではない。そうしたら担保であるリーラは自由だ。それまでの我慢。大丈夫。耐えられる。
リーラが猫をかぶってロシェット伯爵に媚を売ってもいい。籠絡できそうな相手ではなさそうだが、返済が厳しそうならばいくらだってしっぽを振ってみせる。
リーラがやり切った気持ちでいると、ロシェット伯爵はひとつうなずいた。
「身ひとつで。こちらとしても、それが望ましい。我が家はすでに人手が足りているので、言葉通り、リーラ嬢にはひとりでお越し願いたい」
リーラは望むところだとうなずき返すと、ロシェット伯爵に手を取られた。なにごとかと瞬く間に、手の甲に彼の唇が触れた。一気に頰に熱が集まる。
こんな王子様みたいな人が、妻にしてくれると言うのだ。例えそれが借金の担保としてでも、期待してしまう。夢を見てしまいそうになる。
こんな自分でも、愛されるのではないか――と。
そんな、ありもしない夢を。
兄のヴェルデだけが懸念をたたえた表情で浮かれるリーラを見つめていたが、最後は渋々認めてくれた。
いくつか条件を交わして、半月後、リーラはロシェット伯爵家に嫁いだ。
よく晴れた日のことだった。