第4話
無理無理無理ムリムr――
バタンッ!
――咄嗟に右の扉を開け、中に入ってドアを締める。
「ァァァ」
どこからしているのか分からない声が響く中、わたしは必死に部屋を見渡した。ドアを背にして、絶対ドアが開かないように。
そこは洗面所だった。浴槽も隣接されていて、一応半透明なドアで仕切られている。窓から入り込む光がなかったら、真っ暗だったことだろう。
そして、性懲りもなく目に入ったのは、
「また、放火器…………?」
違う。そこにはさっきと違って消化器と書かれている。
…………消化器? 消火器じゃなくて?
「ァァァァァ!」
扉が重いッ!
わたしはすぐにそこから端まで滑り込むと、背で抑えていた後ろのドアが倒れ込んだ。その上には、やはり首なしが倒れ込んでいる。
迷ってる暇なんてない。
すぐにその消化器を手にして、気づいた。そこには先程の放火器のように安全ピンが刺さっていない。
「死ぃぃねぇぇぇぇ!」
レバーを思いっきり握ると、勢いよく液体が飛び出した。それは一瞬にして触れた首なしと、その周囲の壁を溶かし崩す。
「ぁっ」
意外に強い反動で、勢いに負けてその液体は右側にも大きく撒かれた。
「うっそぉ……」
全身綺麗になくなった首なしと、玄関の出入り口を無視して、ここから外の手すりが見えるほど、壁が綺麗サッパリ消え去った状態を見て、この消化器とやらの威力に笑いがこみ上げてくる。
「ははは…………勝った、のかな?」
これがアレば、一体目が戻ってきても余裕で凌げるだろう。
そう考えると、私が足を踏み出しす前に、グシャリという音が左から聞こえた。反射的に振り向き、駆け寄ろうとするも、ある可能性を思いついて、つんのめる体を抑え、そのまま後ろに倒れ込んだ。
そして下を見て絶望する。
「嘘でしょう……?」
私から廊下まで、そして外まで、消化液に満たされた床が延々と続いていた。
先ほど崩れ落ちるような音は一体目がこの消化液に触れ、溶け落ちた音だろう。
どうする?
というか、なぜこの床は溶けないの?
いや、床が溶けたところで穴が空いて結局進めなくなるんだけど。……放火器を使うのに躊躇した私が、消化器を使って詰み、かぁ。でも使わなかったら死んでたよね。いや、そうでもないのかな? あのバカでかいのに、実は戦闘力とかなかったんじゃない? すっごく遅いし。ゾンビみたいに噛み付く頭もないし。手足も異常に細いし。だとすれば、放火器とか、消化器とか、すべて自滅を促すための――
「違う違う」
――だめだ。
今更そんなことを後悔しても意味はない。実際は強かったのかもしれないし、触れたら終わりだったのかもしれない。私は消化器を使うことを選んだ。なら、考えるべきは次だ。次はどうする?
「…………行ける、かな?」
ここから玄関外の廊下、つまり外まで、障害物はない。幸い外の手すりの下までは、大して消化液が広がっているようには見えない。走り幅跳びの要領で飛んでいけば、出られるかも。
当然、失敗したら溶け落ちて死ぬ。
天井まで届くほどの巨体が、触れた部分から跡形もなく溶け落ちたのだ。あの液体で浸された床に着地すれば最期、私も消えてなくなる。
幅は……1mよりは広い。2mは、どうだろう。
普通の走り幅跳びなら余裕で超えられる距離。でも、助走に取れる距離が短い。幅跳びと考えると広いかな。2mは飛べない。
どうにかしてこの液体を流せれば良いんだけど。
一応洗面台に着いた蛇口をひねるが、当然何も出てこなかった。
祭壇で手にしたガマ口財布をポケットから取り出すも、特に変わった様子はない。中を見てもなにもないし、手を突っ込んでも何もない。ここをどうにか出来る不思議アイテムを期待したけど、そんなものはなさそうだ。
諦めきれずにボロボロの洗面台の下も漁るが、やはりなにもない。
「はぁ」
これ以上は先延ばしにしかならなそうだ。
ここでうだうだすれば自体が好転するということはないだろう。お腹が空いて力が出なくなるだけだ。のどが渇いて死ぬだけだ。
覚悟を決めよう。
この距離を飛び越える覚悟を。
命を賭ける覚悟は、終わらせたはずだ。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
駆ける。僅かな助走の後、思いっきり跳ぶ。
できる。
地が足から離れた瞬間確信した。
余裕だ。
世界がゆっくりと動いていく。
火事場の馬鹿力か、思ったより高く――
「ぁ」
――頭が、何かにぶつかった。
天井は高い。ぶつかるはずがない。しかし、消化液で削ったのは壁だ。あまりにも綺麗に溶けているから意識の外にあったが、その高さは洗面所や室内廊下の高さには遥かに及ばない。液体が放物線状を描いていたからか、中央の高さは跳び始めの入り口部分より高かったが、それでも頭をぶつけた。
「ぁ、ぁ、ぁ――」
必死で体制を立て直す。
ぶつかる予定だった、外の壁に、外の手すりに、飛距離が届いていないことを感じる。
終わりだ、死ぬ――
「あぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァ!」
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「は、ははは」
――結論から言うと私は死ななかった。
無我夢中で伸ばした両腕が、鉄でできた柵、手すりを掴み、顎と胸を盛大にぶつけて、私は生き残った。
「これが、対価か」
足は、当然床にぶつけた。
消化液が撒き散らされた、床に。
膝下から先はなくなり、しかし意外にも血は撒き散らされていなかった。溶かされた場合は傷口が塞がるのかな?
痛みも感じない。
少なくとも、今のところは。
私は手すりを伝って、消化液に浸されていない床に身を投げる。
「あっつ」
コンクリの床は暑かった。膝や腕が痛い。それでも、私は何も考えずに進んだ。例えこの状態で帰還できても、その後どうするのか。
腕で体を引きずりつつ、地を這った。
あんなガマ口財布一つと、私の両足。まったく釣り合っていない。あのガマ口財布が何であろうとだ。命を懸けた事、それそのものは、この期に及んでも尚、後悔する気なんてサラサラない。何度同じ場面に出くわそうが、私はガマ口財布を手にとって見せる。それでも、これからのことはもう考えたくなかった。
やっとたどり着いたエレベーターの入口前で、障害者用で低い位置に設置されている『開く』を押す。
ああ、両足をなくした私でも、良子は可愛がってくれるだろうか?
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「……………………え?」
私は、目を覚ますとエレベーターの中から、外を見上げていた。
何があった?
私は記憶を掘り返す。
寝ぼけた頭で、何があったのか、なんでここにいるのか、このエレベーターは何なのかを理解した瞬間、
「あ、あッ!」
私は駆け出した。
私が出た瞬間、エレベーターは役目を終えたとばかりに閉まっていく。
「あ、え?」
そこでようやく気づいた。
私は走っている。
二本足で走っている。
「は、はははははは!
アハハハははは!!」
夕暮れの中、奇声を上げる私を見る人はいなかった。廃墟の周りには誰もおらず、私は正気に戻るまで鳴き続けた。