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 お盆も過ぎたというのに、東京の暑さは止むことがなかった。たまに吹く風も熱風だ。

 東京地方裁判所は想像していた以上に小ざっぱりとした、近代的なビルだった。犯罪者の匂いは周到に消され、矩形のビルディングは紺碧の空を背景に浮き上がって見えた。私はおのぼりさんのようにカメラのシャッターを押し、じっとその入り口を見つめた。


 このビルの中に、地裁、家裁、簡易裁判所などが一通り入っている。

 出頭通知には〈過失傷害保護事件〉という、なんとも物々しい名称が付され、私は裁かれることになった。この間、示談が済んでいたから大丈夫だろうとタカを括っていただけに、微妙にショックを受けていた。というよりも、脱力していた。


「どうした、リリィ。緊張してるのか」

「まさか。ただ、あの中年女を恨んでるだけよ。なんだか、ハメられたみたいで」


 私はエレベーターの、十三という数字のボタンを押しながら祖父の言葉に応えた。それは本音だった。あの女さえ突っ込んで来なければこんな事にはならなかったのだ。


「ふうん……」彼はちょっと考えてから、上昇する箱の天井を見上げて言った。

「お前が怪我を負わせた人は母子家庭でね。あの日、子どもが熱を出したという連絡が保育園からあって、急いで仕事を切り上げて、帰る途中だったそうだ」

「……、そうなの?」

 そういえば、〈被害者〉の女性はしきりに時間を気にしていた。私の中で、急に同情の気持ちが湧き起こってきた。

「嘘だよ、嘘。リリィがどんな反応をするか知りたかったから、カマをかけてみた」

 祖父の頰の、何本かの縦じわが横に広がった。悪戯いたずらっ子のような顔をして、小指のない左手で自分の顎を撫でた。

「意地悪ね」

 私は頰を膨らまして、祖父を睨みつけた。


「……、あのな、リリィ。大抵の人は思い込みで生きているんだよ。今みたいなちょっとした嘘を聞いただけでも、ずいぶんと気持ちに変化があったろう?」

「まあ、ね。たしかにあの人にも、私の知らない生活があるんだよね。……、ダメだね、私って」

「ダメなんてことはないさ。リリィはダメじゃない。ただ、もう少し視野を広げてみる必要がある。そうしたら、何か分かるかもしれないよ」


 短い沈黙のあと、目の前の扉が開き、私たちは光に満たされた。そしてエレベーターを降りてから、長い廊下をまっすぐ進むと、突き当たりの右手の部屋が〈交通講習室〉だった。

 

  ✳︎

 

 そこは窓のない会議室といった感じだったが、意外にも、何らかの事故を起こしたと思しき人々でいっぱいになっていた。


 私くらいの普通の大学生もいれば、真面目そうな女子高生、鼻ピアスをしたヤンキーっぽい男子中学生、さらには善良そうな保護者たちがそれぞれ長机の席に着いていた。罪人らしからぬ人々がみな、これから何が起こるか分からずに、ちょっと緊張した面持ちで正面のプロジェクタースクリーンを見つめていた。


 向かって右側の壁には、三つの扉が不自然に取り付けられていた。各扉には番号があてがわれ、プレートに〈調査室〉の文字が刻印されている。


「さっきの話だけど、たしかに、お爺ちゃんの小指を見て、変なふうに思う人っているよね」

 私は幼い頃から、祖父に後ろ指をさす人や妙な噂話をする人を目の当たりにしてきたので、大人たちの偏見を不思議に思っていた。お爺ちゃんはこんなに優しいのに、と。


「リリィ、やっぱり、まだまだ分かってないな」祖父は真顔になって言った。「お爺ちゃんはね、若い頃、人に言えないような悪いことをたくさんした。三年前に死んだお婆ちゃんを、さんざん泣かした、ダメな男だ……。法的に、形だけは裁かれたけど、罪というのはそんなに簡単に消えるもんじゃないんだ」

「よく分からない」

 ポシェットから取り出したコンパクトに映る私の顔は、沈鬱な表情をしている。

 祖父の過去の罪なんてどうでもよかった。むしろ、こんなに暑い夏なのに、いつも長袖シャツを着ている祖父が不憫に思えた。酉年生まれの祖父は、背中に立派な不動明王の彫り物をしていた。私はそれをずっとカッコいいと思って育った。何も知らない他人の評価より、私が祖父を大切に思っている、その事実こそが重要なのだ。


「自分の主観が論理的に正しいとは限らない」

「……?」

「知ってるかな? モンティ・ホール問題と言うんだけど……、右側の壁に、ちょうど三枚の扉があるだろう? あれと同じ。アメリカのテレビ番組でこんなゲームがあったんだ。三つの扉があって、一枚だけ当たりの扉があるんだ。つまり、扉の向こうに景品がある。で、挑戦者にまず一枚、開けずに選ばせた上で、司会者のモンティが別の扉を一枚開けてしまう。こいつはハズレだ。すると、残り二枚のどちらかが当たりということになるよね」

「まあ、理屈ではそうね」

「そう、では問題です。挑戦者は、最初に選んだ扉を変えるべきだろうか?」

「ん? 二分の一の確率だから、どっちにしたって同じだと思うんだけど」

「その答えはね……」


 祖父がまた悪戯っ子のような顔して、答えを言おうとしたその時、背後の扉から家裁調査官が入ってきた。

 

  ✳︎

 

 自転車事故を起こした者には三つの責任があるらしい。過失傷害のような刑事上の責任、運転者講習を受けるなど行政上の責任、そして被害者の治療費を負担する民事上の責任。私は法律についてはちんぷんかんぷんだが、何らかの責は負うべきだろうと、すでに観念していた。


 しかし、それよりもさっきの答えが早く知りたくて、やきもきしていた。祖父は涼しげな顔で調査官の話に聞き入っている。


 全体の講義が終わると、今度は聞き取り調査が始まった。あの三枚の扉の向こうに、事故の加害者たちが順次吸い込まれて行った。


「ねえ、さっきの答えだけど、どちらの扉を選んでも結果は同じなんじゃないの? 半分半分で」

「普通はそう思うよね。でも、もし景品が欲しいならば、挑戦者は別の扉を選ぶべきだ、というのが答えだ。その方が確率が上がる」

「そうなのっ⁈」

「高校中退のお爺ちゃんには、本当のところはよく分からない。けどね、主観や直感なんて、たいして役に立たないことくらい、お爺ちゃんや昔の仲間たちはよく知っている」

 私の番号が呼ばれる。三枚のうち右端の扉が開き、私たちは〈1302調査室〉に向かった。

「さて、扉の向こう側には、どんな景品が隠されているだろうか」

 祖父は意味深なことを言って、私を先に扉の向こうへと促した。

 お爺ちゃん、ハズレかもしれないよ? そう言おうとしたが、私は口をつぐんだ。

 

 懺悔室のような小さな小部屋では、簡単な質問を受けただけだった。女性の若い調査官と向き合い、事故当時の事実をありのままに話せばよかった。そして、過去の補導歴の有無や家族のことを少し訊かれただけで終わった。

 

 講習室に戻り、反省文を書かせられる。どうすれば事故を防ぐことができたか、など簡単に書けるものだった。祖父も、黙って保護者としての反省を書いていた。

 提出された反省文を小脇に抱え、調査官は審査のために別の部屋に移動した。


 調査官の聴聞と反省文の内容から、今後の私たちの行方が変わってくると脅されていたので、戦々恐々とする人たちもいるらしく、部屋は静まり返っていた。悪くすればこのあとさらに審判が行われ、不処分か検察官送致などの結果が待っていた。

 

 しばらく時間が経ってから、裁判所書記官が入室し、全員に結果が伝えられた。

 はたして、そこに居る全員が審判不開始と告げられた。

 つまりおとがめなしということで、みな一様に安堵の表情を見せた。斜め前に座る鼻ピアスの中学生も、母親の顔を見て微笑んだ。

 

 裁判所を出ると、相変わらずの暑さに辟易したけれど、青い空の色は、さっきと少し違って見える。


「ねえ、お爺ちゃん。あの扉は当たりだったと思う? それとも……」

 私は空を撮ってから、カメラのレンズを祖父に向けた。ファインダーの中の祖父は、以前より痩せたようだった。この夏の暑さのせいなのだろうか、風で乱れた白銀の髪が額に垂れ、いつもよりやつれたように見える。


「世界には〈モンティの扉〉と次元を異にする別の、〈人生の扉〉というのがある。思い込みから抜け出たとき、初めて人は自ら選んだ道を歩むことができる。つまり、リリィが当たりだと思えば、当たりだよ」

 そう言って、祖父は優しく微笑んだ。

 

 それから一月後に祖父は他界した。彼は娘の母にも孫の私にも、重い病気を患っていることをずっと隠していた。


 秋になり、大学の新学期が始まっても、私は空を撮り続けた。今にして思えば、家庭裁判所の〈モンティの扉〉の向こうにあったものは、きっと当たりだったのだろう。なぜなら祖父の言葉通り、私がそれを当たりであると決めたのだから。【了】

 

 

 

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