上
ある爽やかな五月の午後のことだった。
私はアルバイトで貯めたお金でやっと手に入れた、重たいNikonの一眼レフカメラを首にぶら提げ、自転車に跨った。優しい風が頬を撫で、眩い光のなかを走り出す。耳にさしたイヤホンからは、シューマンの〈トロイメライ〉が流れる。短い髪が、音楽を聴く耳の横で揺れた。
大学に入学してから、高校時代につき合っていたカレと別れ、私は腰まであった長い髪をバッサリと切った。我ながら実に潔く、その言葉の通りバッサリと。
ぼんやり、空の白い雲を眺める。と、その時だった。ひゃっ! という叫び声が耳に飛び込む。大きな街道に出て右折した瞬間、右側から走ってきた自転車と正面衝突してしまったのだ。
私は慌ててブレーキをかけ、胸の前にぶら下がる一眼レフカメラの無事を確認した。ぶつかった相手のことよりも、まずカメラのことを心配した。ーー、大丈夫だ、無事だ。
相手は中年の肥ったおばさんで、自転車ごと転んで路面に投げ出された。彼女は肩から落ち、自分でも何が起こったのか分からなかったらしく、数秒の間、死んだ芋虫のように静止していた。右腕が躰の下に、不自然な格好で潜り込んでいる。
「う……、うう…、いぃ、ったい、痛い、痛い、痛い! んもぅ〜、な、ん、な、のよ、痛い、痛いっ!」
はじめは呻き声だったのが、ちらっと私の顔を見た途端、その眼は憎しみの色に変わった。
女は立ち上がり、右腕をぶらんぶらんさせながら、物凄い剣幕で叫び出した。
「おらぁー! なに、ぼうっと突っ立てんのよ! 警察と救急車を早く呼びなさいよ!」
私は怖くなり、その場に立ち竦むだけで、躰を硬直させていった。
ーー、怖い。
こういう居丈高な人間に出くわすだけで、私はこの世界のすべてから切断されたくなる。この世界からの、切断。私という生き物が、この〈世界〉という名の得体の知れない魔物に縛られている。だから時々、手元のナイフでそれを切り裂きたくなる。そのとき〈世界〉は、どんな色をした血を流すだろう。あるいは痛みのあまり悶え、咆哮するだろうか。
救急車より先にパトカーが現れた。
私はすぐに数人の警察官に囲まれ、まるで犯罪者のように扱われた。女は相変わらず片腕をブラブラさせながら、何かをわめき立てている。どうやら、私を完全な悪者に仕立て上げようとしているらしい。この小娘に百パーセントの瑕疵があるのですよ、と。私は、悪怯れるつもりはないが、媚び諂うつもりもなかったので、冷静に事実だけを述べた。
それがまた、女の怒りに油を注いだらしい。
「お巡りさん、聞いてくださいよ。この人は私が転んで身動きできないのに、放ったらかして、逃げようとしたんですよ」
「……、え?」放ったらかしにしたのは事実だが、逃げようとしたというのは事実に反していた。興奮のあまり、この女は話をかなり盛っていた。私の罪は、どんどん重くなっていくようだった。
「信じられます? こんな可愛い顔して、轢き逃げしようとしたなんて!」
「まあまあ奥さん、この子も悪気があって飛び出したんじゃないんですから」
三人のうちの一番若い警官が、相手に分からないよう、片目を瞑った顔を私に向けながら言った。彼は現場に着いた時から妙に馴れ馴れしかった。またか。人を外見だけで判断する人間の、なんと多いことか……。私の中で、黒いシミが広がっていく。
私は軽く息を吸い込み、自動機械のように言葉を放った。
「この肥った中年女が死のうが生きようが、私にとってはどうでもいいことです。ただ、事実でないことには承服しかねます。もし私を裁くのなら、正当な理由の提示をお願いします」
現場は凍りついた。
私を庇ってくれた警官も中年女もすっかり無口になり、それからは事務的な現場検証が淡々と進められた。軽い尋問を受け、路面には白墨のようなもので倒れた自転車と女の横臥した形が縁取られた。殺人事件の現場かよ、とツッコミを入れたくなったが、これ以上自分が不利にならぬよう言葉を抑制した。
女は救急車で運ばれ、私は近くの警察署で調書を取られた。母が仕事で留守なので、近所で一人暮らしをしている祖父が迎えにきてくれた。私は大学一年生だが、まだ保護者の庇護が必要なのだ、とあらためて思う。
五月の空は、どこまでも青く眩しかった。
「迎えにきたよ、リリィ。さあ、こんなシケた部屋からサッサとおさらばして、一緒に帰ろうや」
取調室に入ってきた痩せ身の祖父は、渋い顔をして言った。オールバックの白髪が、暗い灯の下で銀色に鈍く光った。
✳︎
髪を切ると、背負っていた重荷がなくなったようで、気分も軽くなる。
元カレの撮る写真は美しかった。高校時代、〈美しい写真を撮る〉カレに惹かれたから、私は彼と付き合うことにした。しかし有りがちなことに、それぞれ別の大学に入り、関係はどんどん希薄になっていった。二人の間に肉体関係はなかったし、別に私はそれでいいと考えていた。自然消滅したって、良かったのだ。
でも……、あの夜、カレの下宿で酒を飲んだあとのことだ。酔った勢いで、カレは私を押し倒した。私の体は緊張のあまり固まってしまった。カレが強張る私の耳元で囁く。
「なんだよ、リリィ。今夜こそ、ヤらせてくれるんだろ?」
まったくクソなセリフだと思った。毎晩母を殴っていたあの男も、口から同じようなクソな言葉しか吐けない動物だった。孫に向けられたそんな言葉を聞いたら、〈お爺ちゃん〉はカレを殺しにいくかもしれないと思った。昔、カタギに戻るために小指を詰めた、祖父に。
私はカレに抱かれながら、心の底で黒い涙を流していた。
自転車事故からわずかに時が流れ、夏になっても私は髪を伸ばすことなく、ショートの毛先が首筋を優しく撫でた。
あの事故以来、私はずっと空の写真ばかりを撮影した。晴れの日も雨の日も風の日も、朝焼けも夕焼けも、空という空を撮り続けた。元カレが撮る〈美しい写真〉への対抗意識は微塵もなかったが、いまの自分にとっては〈空〉が何よりも必要だった。
「ねえ、リリィ。ポストの中に、へんな封筒が届いてたよ」
私はリビングでシューマンを聴きながら、一眼レフカメラの手入れをしていた。レンズを丁寧に拭き、何度もファインダーに右眼を当てていたので、母の言葉が耳に入らなかった。
「あら、家庭裁判所からだって。なにこれ、リリィ、あんたが出頭することになってる」
「出頭?」
現実味のない言葉が突然降ってくるものだ。
身に覚えのない罪で私は裁かれるのか? あの中年女の右腕の脱臼は、傷害保険がおりて事なきを得たはずだった。私は深いため息を吐いてカメラをテーブルに置いた。
「ママはこの日、フランスでシンポジウムがあるから、行けないわ。……、んーと、そうだ、お爺ちゃんなら暇だから一緒に行ってくれるかも」
母は地球の滅亡を食い止めるために人類の責任を問う、という難解な哲学シンポジウムに出席するらしいのだが、工学部の私にはさっぱりその意義を理解できなかった。地球にも人間にも責任なんてない、単なる工学的存在なのだ。交換可能な部品のように、地球がなくなれば火星にでも移住すればいい。そう言うと、倫理学者の母とはいつも口論になった。
「いいよ、もう大学生なんだから、一人で行ける」
「なに生意気なこと言ってんの。あんたまだ未成年者でしょ? あんたがお子ちゃまの間は、子どものしでかした事に対して、保護者にも一定の義務と責任があるのよ」
「また、責任、か……」
「何? なんか文句あるの?」
「別に……、じゃあ、お爺ちゃんと行く。帰りにイタリアンでも奢ってもらうよ」
そう言って私は、ファインダー越しに母の顔を覗いた。私には、あまり似ていなかった。【続く】