心を伝える魔法陣〈マジック・スクウェア〉
拙作を読んでいただいた方々に、限りない感謝を。
机の上に置いてある古びた羊皮紙には、ある魔法陣が書いてあった。
デスクに深く腰掛けた男はゆっくりと息を吐き、目を閉じる。
彼は、これをとある女性の為に作った時の事を思い出していた。
*
私は彼女と会う前の年まで王都の魔道を学ぶ学園の研究室に居た。
普通は15歳から3年間通って18歳からは魔導師なり、錬金術師なり薬師なりとして働く。
だけれども私はそのまま学院に研究生として残る事が出来た。
研究が面白かったのと、僕の研究に興味をもってもらった人がおり、教授の勧めもあってもう二年間のみ通う事が出来たのだった。
ただ、卒業後はその人が作っている研究所に来る事。これが彼が出した条件だった。
卒業後は教授職になろうかとも思ったけれども、カレッジと言う制度が始まってそんなの時間は経っておらず、教授職の人員の数はまだまだ不足していた。
――教授になってしまって、自分の研究に費やす時間が無くなるのは困る。
そう思っていたから、格別の配慮に感謝した。
そして、20となった時、その研究所に研究員として招かれる事となったのだった。
*
僕は、その商人が出資して作られた魔道具の研究所に、約束の時間ちょうどに着いた。
王都から馬車で半刻ほど離れた村の畑の中に建てられている石造りの三階建てくらいの建物は、周りの牧歌的な光景にはひどく不釣り合いに見えた。
三階建てくらいと言ったのは、その建物には窓一つ無かったから階数が解らなかった為だ。
僕は馬車を降りると、入り口に足を踏み入れる。
磨いた大理石が敷き詰められたホールには、誰も居ない。
「すみません! 」
声を上げたものの、返って来るのは冷たい床に反射した残響だけだった。
困ったなと僕は思う。
相当大規模な建物なのに、人の気配どころか、魔力の流れも感じられない。
ドアを開いて奥に行こうとしても、ドア自体に取っ手すら無く、横に引こうが押そうが全く動かす事が出来なかった。
待ち合わせの時間には間違いなく着いたはずなんだけど…と懐にある時計を見ようと手にした時、右手側のドアが開けられ、一人の女性が出てきた。
栗色の長い髪を後ろで纏め、ワンピースを揺らしながら現れたその女性に、僕は一瞬で目を奪われた。
「…スタンリーさん? 聞いてますか? 」
彼女の透き通るような、ちょっとキツめの緑色の目をボーッと見つめてしまっていた間、何か言われていたらしい。
ここに出てきた所をみると、この研究所での受付嬢か案内係だと思われた。
これだけ美しい受付嬢は、王都のどんな商会でも見た事が無かった。
「あ、ああ。すまない。ジョゼフ・スタンリーだ。今日こちらに伺うように言われたのだが。」
「存じ上げております。こちらへどうぞ。」
彼女は先に立って歩き出す。
僕も無言でカバンを持ち上げると、彼女の後に続いた。
金属製のドアが開けられると、魔力の流れが微かに感じられる。
どうやら、外と中と魔力の流れを遮断する構造になっているようだった。
「こちらのドアから先は、魔力の管理区域になっております。指定された時以外は、間違ってもお使いにならないよう。」
注意を受けながら先に進む。
内部は白塗りの狭い廊下の左右に、これも金属製のドアが設けられており、その中で研究や検討が行われているようだった。
「この建物には、何人くらい人が居るの? 」
「今日は…そうですね。百人くらいが出勤してますよ。」
「そうは見えないですね…。」
「遮音と遮蔽、魔術的な障壁が設けてありますからね。」
「ずいぶん厳重なんですね。」
「…たまに…本当にたまに、とんでもない事が起こったりしますから…。」
僕が歩きながら質問すると、最後の質問には言いづらそうに彼女は答える。
カレッジでも遭遇した、跳ねっ返りな研究者はここにも居るようだった。
彼女はここで何をしているのかを聞くタイミングを測っていたのだが、どうにも糸口が掴めないまま、階段を上がり二階の奥から二番目の扉の前に着く。
「こちらが、スタンリーさんの研究室となります。」
取っ手の無いドアを押し開ける彼女に続いて、僕もその部屋に入った。
部屋は白い壁紙にウォールナットの梁。家具も応接セットとデスク、デスクの背後には壁一面の書棚が設けられており、これもウォールナット材で出来ていた。
ただの研究室としては破格の豪華さに、思わず僕は目を見張ってしまう。
部屋に入る際には、カードのような魔道具を持参していないと入れないようになっていると説明を受ける。
「会長の肝いりですからね。あなたには主任研究員としての地位が与えられますので、この部屋は、この部署で二番目に良い部屋となります。」
「一番目にいい部屋は? 」
「魔法陣研究室長の部屋となります。」
「それじゃ、案内してもらえる? ご挨拶もしたいし…。」
「それでは…。」
先ほどと同じように彼女が前に立ち一番奥の部屋に向かう。
彼女はノックもせずにドアを開けると、そのまま奥へと入って行く。
「入室の際には、ノックもしなくて良いの? 」
「いえ。ノックはしていただかないと。部屋の主の許可が無いとドアは開かないようになってますし。」
「それは、どういう…。」
彼女はにこりと笑うと、中央に置いてあるデスクに掛け、机の上に肘を立てて指を組む。
「はじめまして。スタンリー主任。私が魔法陣研究室の室長、オーレリア・バークレイと申します。」
そう言って再び立ち上がると、僕に握手を求めたのだった。
*
「この話は何度聞いても傑作だな。」
昼食の時間、研究員のグラントが言う。
「まさかあんな若い人が室長だなんて思わないだろ? 」
僕がせめてもの抵抗を示すが、周りに居た人すべてが笑いだした。
この研究所では、同じ研究室に居るものは、全て一緒に昼食を摂る。成果の発表なり悩んでいる問題の話だったり、お互いに刺激し合うのが重要と言う観点からだ。
実際、研究者は一人で黙々と取り組む人種が多い。だから問題が起こってもそれに気が付きにくく、また解決策も見つからない事が多い。
そのため、この昼食会で今日はこんな事をしたと話合う事によって、他の視点からの考えを聞く事が出来、それによって、研究も大分進むようになっていた。
今日は室長のオーレリアさんは外出していて居らず、そのため僕が標的となってしまっていたのだった。
すでに僕がここに来てから半年ほどの時間が経っている。
春先だった季節も、既に冬の声が聞こえ始めるほどになっていた。
「確かにあんな若い美人が室長だとは思わないよな。」
「まだ22歳だもんね。主任年上大丈夫なの? 」
「そうは言ってもね。手紙に着いたら室長が迎えに行くと書いてあったんだろ? 」
「それを見惚れてボーっとして忘れちゃったなんて…。」
皆、口々に好き勝手な事を言って笑う。
おもちゃにされている事に気が付いた僕は、室長の事を考える事にした。
彼女の魅力はその美貌だけでは無い。
冷たそうに見えるその姿も男心をくすぐられるが、研究所の裏手にいつの間にか住みついた猫用の小屋が出来ていたり、職員がお土産に買って来た甘味を見ると、ソワソワと落ち着かなくなったり、人を叱った後に他の研究員にフォローさせたり…。
僕はそんなところ全てが好きになっていた。
ゴミを捨てに建物の裏手に回った時、猫にニャーと話しかけていた時には、心臓がどうにかなってしまうかと思ってしまったほどだ。
ただ、この辺りを熱く語り過ぎて、グラントに煙たがられて来たので、最近は自重する事にしている。
魔法陣の研究がされるようになってから、まだ日が浅い事もあって、この研究所のメンバーも若手が多かった。
元々錬金術師だった者が多く、室長のオーレリアさんも元は錬金術畑の出身。そこで成果を認められて、この研究所に招かれていたのだった。
魔法陣そのものの研究が、実際に使われる時の魔術と違って研究が遅れていたのには訳がある。書かかれている術式…。模様の事だが、これを少しでも変えると魔力を流し込んでも発動しなくなる。
空中に浮かぶ、実際に魔法を起こす魔法陣が出なくなるのだ。
そのため、魔法陣は神が作ったものだとされ、長い間、触る事はまかりならんとされてしまっていた。
しかし、何故ダメなのかの理由をはっきりさせないと気が済まないのが研究者と言う人種である。魔法と言うものが理論として体系化されて行くにつれ、ますます魔法陣の謎について考える人も多くなって来ていた。
ついに教会も魔法陣研究の禁止を諦め、在野の人間がこぞって研究に乗り出した。
僕もそんな未知の世界に魅せられた一人だったのだ。
「でも、主任も可哀そうよね。」
「まったくだな。気持ちを伝えようにもあの『鉄壁』じゃあなあ。」
「手紙すら受け取らないんでしょ? 仕方ないよ。」
ワイワイと周りで騒ぐ我が研究室の面々。
肴が僕なのには文句を言いたかったが、こうなったらもう止められない。
「振られたら慰めてあげるよ。」
突然そんな話を振って来るマリア。
ただ、顔を見るとニヤニヤと笑っている。僕に対するいつものからかいだった。
「俺は慰めてくれないのか? 」
「あんたは二日したら忘れるでしょ? 」
グラントが言うと、マリアにそう突っ込まれていた。
気のいい面々との素晴らしい日々。かれらとの研究は、驚きと刺激の連続だ。
だが、実際に、みんなの言う通りだった。
この時代、交際を申し込むには、まず手紙を渡して話をする事を申し込まなくてはならず、それで承諾を貰ってはじめて交際をして欲しいと言う事が出来たのだった。
直接誘うなんてもっての外で、それをした男は紳士という称号を剥奪される。
オーレリア室長は、その美貌から見初められる事も多く、交際を申し込む手紙は至る所から届いた。だが、彼女はその一切を受け取らず、直接手渡そうとした人には、その場で突き返していた。
そこでついたあだ名が『鉄壁』だった。
オーレリア室長は羊皮紙に書いた魔法陣しか受け取らない。そんな風に言われていたりもした。
それを知って、羊皮紙に手紙を書いて渡そうとした者も居たが、にっこりと笑った彼女が魔力を込めると一瞬にしてその思いの籠った羊皮紙は灰になってしまった。
それを行ったのはグラントだったが、さすがにショックを受けたようで、二日間は無口なままだった。
三日目には魔道具の研究室に居るステラを口説いて振られていたので、あながち二日間しか覚えていないと言うのは間違いでは無さそうだと思う。
ただ、僕には秘策があった。
そのため、通常の研究と並行して、その企みも進めていた。
そして、年が明けて春風がこの研究室にも吹いて来るころ、僕は彼女の心を射止めたのだった。
*
私は、懐かしい思い出を座りながら反芻するように味わう。
一人称が僕から私に変わって、もうどのくらい経つだろうか。
あの後、婚約を皆に発表した時の騒ぎと言ったら無かった。
グラントは、どうやって手紙を渡したのかしつこく聞いて来たが、私はとぼけておいた。
そんな彼も、今や研究所の室長をしている。
人は変われば変わるものだ。
そんな事をしている場合ではない事を思い出す。
言い訳すら聞いてくれない妻に、どうやったら話を聞いてもらえるかを考えなくてはならない。
確かに結婚記念日に帰りが間に合わなかったのは事実だ。それについては言い訳のしようも無い。
ただ、研究所で新たな発見があり、その報告を聞いていたら、いつの間にか時間が過ぎていたのだ。
ふと目の前の羊皮紙が目に入る。
私たちをつなげてくれた思い出の品だ。
お詫びに何か気を惹けるようなものを用意しようとして、古い箱をひっくり返してしまったらその中から転がり出て来た。
いつ仕舞ったのかさえ記憶に無かったが、私はこの奇跡に感謝をする。
意を決して羊皮紙を手に取った私は、隣の部屋に向かい、ドアをノックする。
「どうぞ。」
ドアを押して部屋に入ると、キツい目がさらにキツくなっている妻が居た。
私の姿を見ると、片方の眉だけ上げて黙っている。
研究所の室長時代も、叱る前はこんな風だったなと余計な記憶が頭をよぎる。
私は黙って羊皮紙を渡す。
不審な顔を向けながら、彼女はその羊皮紙をほどき、魔法陣を確認すると魔力を流す。
空中に魔法陣が浮かび、彼女はそれを眺める。
魔法陣の中心には、『一度お話しを聞いてもらえませんか? あなたのジョゼフ・スタンリーより。』と書いてあるのが読めた。
「話を聞かせて貰おうかしら? ジョゼフ・スタンリー。」
彼女はあの時のように、緑の瞳をいたずらっぽく動かしながら、私にそう答えた。
いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたなら幸いです。