老人の椅子
「あぁ、今日も良い座り心地だ」
老人は居間の片隅にある、少し古くなった椅子に深く腰掛けると、ふぅっと息をついて手すりを撫でた。寄りかかる背もたれはキシキシと音を立て、老人の背中を受け止める。
毎日、毎日この椅子はこの身体を抱きとめていた。日に日に弱っていく老人の身体を。
しかし、この椅子にはそれしかない。例えこの老人がこの椅子に座っている時に息を引き取ったとしても、この椅子はただ受け止めることしかできない。
「それでは可哀想ではないか?」
誰かが呟いた。いや、呟く人などこの空間にはいない。ここには老人と椅子しかないのだから。それでは誰が?いや、誰というわけではない。恐らくその空間に見えないながらも存在する神であろう。それも椅子の九十九神という特定された神だ。
神は、老人が寝ている夜の間に例の椅子に憑依した。とは言っても、見た目がいきなり豹変するという超常現象まがいなことが起きるわけではない。変わったことといえば、感情と安らぎを与える力を与えたこと位である。
大したことではないようだが、それでもこの二つは椅子にとって大事なのだ。感情を持った椅子は、座った人と繋がることができる。相手方はそう思っていないのかもしれないが、こちらには伝わってくるのだ。座った人がどんな思いを抱えているのか、それが分かるだけでもかなり違ってくる。
与えるべき安らぎが異なるのだ。座っている人が寂しい感情を抱えていたら、慰めるような安らぎを与えなければならないし、ただ座って休みたいだけでも、最高にリラックスさせるのが椅子の仕事なのだ。
しかし、そんな力をわざわざ持たなくても、座る方がその時の気持ちに合わせて勝手に座るのではないか。と言われてしまえば、確かにその通りとしか返す言葉は無い。けれども、この椅子には僅かながらに魂が宿っていた。神の持つ力には遠く及ばないが、使用者である老人から宿った、僅かな感情が芽生えていたのだ。
そうなってくると、この椅子はもどかしさを感じるようになった。もっと理解したい。そうしたら確かな安らぎを与えることができるのに、というただの椅子にはどうにもできないもどかしさだ。
それを見かねた椅子の神は、その椅子に憑依することで、足りない力を補ったのだ。
もちろん、そこには憑依した神の自我はなくなり、あるのは強くなった元の椅子の感情である。憑依したというよりは、取り込まれにいったという方が正しいかもしれない。
今の椅子は、こんな椅子である。
夜が明けて、老人は寝室から居間へ降りてきた。
朝食を済ませ、いつものように老人は腰をかける。そしていつものように「いい座り心地だ…」と手すりを撫で……その手を見て首を傾げた。するといきなり立ち上がり、どこかへと行ってしまった。
いつものように座ってくれなかった椅子。下手に感情を持ってしまったせいで生まれた、取り残されたような感覚が、彼の全身に寂しいという感情を植え付ける。
こんな風に、途端に終わってしまうのだろう。日常なんてものはいつ変わって、無くなってしまってもおかしくないものだ。無常。それがこの世界の原則。なにかが変われば、それを取り巻く他のなにかも変わる。
きっと、あの老人は気づいたのだろう。長年触れてきた椅子の、ちょっとした違和感。違いに。
椅子は嘆いた。こんなことになるのなら、あの人の側に居続けられないのなら、こんなちっぽけな力など返してやる。と。いらない、いらないと駄々をこねるように身体をバタつかせたいが、そんなことはできやしない。
そんな時、老人が再び居間へと現れた。その手には真っ白な濡れ雑巾が握られていた。
すると老人は、いつも手すりを撫でるよりも少し強く、椅子の身体を拭いていった。
「ああ、やっぱり…」
老人はその手の感触を確かめると、小さく頷いた。
「神さまでも宿ったようだ…。いつもよりほんのり暖かい…」
その椅子を崇めるように、丁寧な手つきで椅子を拭き続ける。
椅子は、主人から伝わる感謝に身を委ねつつ、先ほどの早とちりを恥ずかしく思っていた。そんなにすぐ変わってしまう間柄ではなかったことを、すっかりと忘れてしまっていたらしい。
身体を拭き終えた老人は、いつもより深く、どっしりとその身体に身を委ねた。
「あぁ〜、やはり素晴らしい…」
椅子から感じる安らぎに、感嘆の声を漏らす。
椅子は感謝の意を込めて、身体を拭いて疲れきった老人の身体を抱きしめた。
「ありがとう…」
老人は呟いた。見えないはずの腕を感じ取ったかのように、手すりを優しく撫でた。
すると、その動きは急に止まりだした。スッとなにかが抜けていき、残っていた全ての体重が背もたれにのしかかった。
椅子の上で、息のつかない安らかな眠りについた。
「ありがとう」
残った魂に椅子の魂は話かける。
老人の椅子、という役目は、これで終わりだ。
椅子の神は、寄り添い合う二つの魂を見てただただ微笑んだ。