Never say never.
「見てくれジョージ! この数式! これなら無駄が省けてさらに推進力は15%は上がるぞ!」
ズダダダとコミックスの擬音のような音を立てて、黒髪美女……いや、少女が扉を開け放つ。――時刻はまだ夜も明けきらぬ早朝である。俺は農家じゃないぞとジョージはボソボソと呟きながら体を起こし、そのまま自分が使っていた枕を盾にした。
「やはりだね流線形の設計にして、逆にこちら側は少し伸ばしてみたのが良かったよ。どうしたジョージ!? ほらボサッとしてないで見てみてくれ」
まともに女性と付き合った事も無いジョージの目の前には、下着に近い格好の少女が、興奮も冷めやらぬままにベッドで距離を詰めてきている。――ナスターシャ・スメラギ。いや一度死んでしまったが霊が、以前の記憶ごと甦った元同僚のスメラギだ。その時は同い年の男だったというのに。
「寝る前にふと思い付いて数式にしてみて良かった。うん。やはり星々に想いを馳せるのは夜に限る。そう思わないかジョージ」
ぐいぐい迫る美貌に情報が遮断される。とりあえずジョージに出来ることは盾にしてる枕を投げて怒鳴ることであった。
「すまん! 出直してくれ!」
なんでだジョージという叫びが、鶏の鳴き声と一緒にこだました。
世は宇宙開拓時代の奔りであった。月にロケットを飛ばし資材を持ち返るとそれを使って更なる技術革新を繰り返す。そんな最中に過去の同僚――見た目は随分と可憐になってしまった――と、共同のカンパニーを作って早二ヶ月。初めの内は遠慮していたスメラギも、じょじょに本性を表してきた。まず没頭するとそれ以外のことは何も考えてない。根っからの研究肌なのだ。外に出る時はしっかりと自分の体の才能――美貌を使い、丁寧な口調ながら相手にしっかりと自らの意思を貫く。裏で天使だなどと噂されている時すらある。だのに家に戻れば一気に崩れて今までのスメラギに戻る。俺が知っているこちらの方が素なのだろう。
だがそんなあれこれがあったとしてもナスターシャ・スメラギは天才だ。基礎の発展、そして時として発想の飛躍。一人でも延々と技術を向上させていくだろう。ジョージは必死にそのレベルに喰らいついている状態だ。
「先程はすまなかった……」
流石に朝から興奮して押しかけたのは反省してくれたらしい。少しだけしおらしくなったスメラギが湯上がりの火照りもそのままにキッチンのテーブルにつく。シャワーが朝にも入れるという最近の贅沢にはまっているのだ――割りと生殺しである。ジョージは素数を数えることが増えたな……と、一人呟いた。
スメラギが作ってくれた食事を食べ、そして堂に入った所作で入れられた珈琲を飲みながらジョージはこのドタバタの起源を思い出していた。
あれは三ヶ月前。このままだと祖国に帰されると泣きついて来た時の事を思い出す。いくら賞を取って称賛されようと才女だろうと、まだ親元から離れるのは早い年頃。自由の国とはいえ、本人も色々と思うところがあったのだろう。
ある日仕事の打ち合わせの後に、スメラギが大事な話があると引き止めたのだ。借りているホテルの部屋で二人、慣れたはずなのに何やら緊張感で息が詰まる。いじいじと切り出さないスメラギに、何度か帰るぞと脅しをかけて、ようやく話が始まった。
「すまないジョージ……。今世において僕の……いや私の父が非常に厳格で……。今回の渡米も賞を取ったことでようやく許可が降りている状態だったんだ。だけど、社会的には未成年だし。ホテル暮らしもいつまでも続けるのはどうかということもあるし……」
普段自分の理論をズバズバと放つスメラギには珍しく、髪の毛をいじいじと触りながら上目遣いで歯切れ悪く話す。
「……つまり……だな。あの、こういうのは僕が言うのもあれかもしれないが……」
「スメラギ。お前の夢には手を貸してやるから、早く話してくれ」
いい加減こちらも間がもたなくなってきたジョージの言葉に、スメラギは嬉しそうに目を輝かせてとんでもない事を言い放った。
「同棲して、さらに会社を興そう!」
その時ジョージの口から出た珈琲は、ナイアガラの滝のように飛び散った。
何はともあれ、ジョージとスメラギはそんな流れで会社を興した。『ジョージ&ナスターシャ航宙研究所』というそのまんまの名前である。
ジョージが元々住んでいたアパートに会社の所在地を登録し、単純にスメラギが引っ越してきた形だ。電話帳にも二人の名前と共に載っている。
既に一定の評価を得ているスメラギに新規の仕事を依頼したい層、ジョージの地味ながらも丁寧な仕事ぷりについてきてくれる顧客。この両者の需要はいい具合に噛み合い、会社は二人で食べていくには充分な売上を計上していった。
だがジョージとしては、日々スメラギが無意識に魅了してくることもそうだが、それよりも悩んでいることがあった。
例え見た目、体が女子とはいえ、中身は同僚(男)だったスメラギだ。こちらが想いを寄せるなんてことは失礼じゃないか。ましてや女子として扱うということはスメラギへの裏切りではないのか。あいつはこんなにも俺を頼りにしてくれている。それなのに、その信頼を裏切るようなことは出来ない。俺への気持ちは友情だし、俺もこの気持は……友情。そう、友情なんだ。だのに、どうして苦い気持ちになるのか。毎日のようにそれを考えても答えは出なかった。
その翌月の会社の業績も、元々ジョージの汎用ながらも安定して作り出していたプログラムに、スメラギの突飛なアイディアが上乗せされることによって、さらに右肩上がりになっていった。
「やっぱりジョージ、君と組んでいると僕はやり易いよ。あ、昨日の発注の件はファクシミリで納品の旨伝えておいたよ」
「お、おう。早いな」
スメラギはまったく頓着せずに売上の紙を投げて寄越す。共有財産として売り上げの管理はジョージの采配に任されている。だが、ジョージは自分に自信を持てなかった。
――結局俺はただスメラギの才能に寄りかかっているだけなのではないか。
スメラギの事は人として尊敬している。飽くなき探究心と、どこまでも前を見る姿勢に惚れ惚れする。――だが……それは恋心なんかではないんだ……。
毎日のように笑顔を振り撒くスメラギに対して、ジョージは悩みを打ち明けることなんて出来なかった。
「ジョージ。今度のアメリカ航空宇宙局のコンペティションに、この間考えたやつを出してみようと思うんだけど、どうかな?」
ある日の事、長くなってきた髪の毛を適当にくくりながらスメラギはそんな提案をしてきた。いつのまにかキッチンに置かれていたチラシには【この宇宙開発の流れを躍進する為に民間のアイディアを広く募集す】と、戦時高揚のように勇ましいことが書いてある。かなり幅が広いコンペのようで、宇宙に関わることなら、なんでもござれという規模だ。その分、予選でふるい分けされるだろうが、一定以上の評価を得れば広報活動の支援や、助成金も出るという。しかし、競争なんだなとジョージはため息をつく。
競争――いや、実際これは戦争だった。人の血は流れないが、先に宇宙で利権を抑えたものが勝つ戦い。大国同士、また参入しようとしている小国も沢山の思惑と、そして夢を見て争いあう。よい方向に進んではいるとは思うが、人類は宇宙に進出しても互いを牽制しながら潰しあってしまうのだろうか……。
「なぁ……スメラギ」
「ん……」
少し高さが足りなくて踏み台に乗ってシンクで食後の洗い物をしながら、声だけ投げてくる。日差しが当たった髪がまるで濡れた羽のように輝いているのについ見とれて続きを止めてしまい、どうしたかと聞かれ、慌てて声を出す。
「お前はなんだってそんなにも宇宙に行きたいんだ。それは好奇心だけじゃないだろう」
鼻歌まで歌っていたスメラギが動きを止める。洗い物の手を止めて、ゆっくりとジョージが座っているソファーへとやってくると隣に落ち着く。
「……憧れた人がいた。だけど、その人は僕に永遠の命を与えた後に、宇宙に帰ったんだ」
スメラギは噛み締めるように、遠くにある何かをみつめるように静かに語る。
「だから……何百年、何世代かかるか分からないけれど、会いに行きたいんだ」
その眼差しは恋にも似ていて、ジョージの胸はきつくきつく締め付けられる。
「地球じゃ駄目なのか。相手はお前のことを忘れてるかもしれないんだぞ」
どこかへ行ってしまいそうな横顔を、自分の方に向けたくて、思わず肩を抱き寄せようとした手をごまかそうとして、強い言葉が出てしまった。――ただ、置いていかれてしまいそうで怖かった。
俯いてしまったスメラギの背中がとても小さく見える。慌てて取り繕うとした時に玄関の呼び鈴がけたたましく鳴る。無視しようとしたが、あまりにもしつこく鳴るのでスメラギをそのままにジョージは仕方なく玄関を開ける。
「今取り込み中なので後にしてくれませんかね……? 新聞ならユニバーサルスペースジャーナルを定期購読してるから間に合っ……」
ここまで言いかけた所で、ジョージは首を掴まれて体が持ち上げられる。痛みよりも先に何事かと目を白黒させる。何せ身長は比較的高い方、痩せ形で軽いとはいえ(スメラギに太るなと野菜ばかり食べさせられている)、子供のように持ち上げられる事など成人してからは一度も無い。
いわゆる『ネック・ハンギング・ツリー』と呼ばれる状態で、苦しいながらも無理矢理相手の方へと見やれば、立派な髭の筋骨隆々の紳士がスーツのボタンを弾き飛ばしながら何かを喚いている。
「うちの天使ナスターシャを囲ってる馬の骨は貴様かぁ!」
その叫び声に飛び上がってやってきたスメラギは、さらに大声で割って入るのであった。
「お父様止めてください! その人は私の大事な人なんです!」
珈琲が四人分――もう一人男性に隠れて見えなかったが小柄な女性がいた――用意され、当たり前のようにジョージの横にスメラギが座り、先の男性がまた青筋を立て、そしてその横にいる女性が静かながら強い声で止めに入る。
「あなた……うちの娘が世話になっている方にいきなり訪問した上にその態度。司法に引き渡されても弁護は出来ないわよ」
「だがアリョーナ。こいつが娘を返さないからだな……」
「あなたはちょっと黙ってて。ナスターシャ、そちらの方がジョージさんね。いつも話してくれてた」
「話していた……!? パパには手紙しか無かったというのに。二人だけで電話もしていたのか! パパにはその天使の声を……っ!」
「あ・な・た?」
ようやく黙り込む男性――おそらく噂のスメラギの父親であろう。それにしても電話代がやけにかかるなと思ったら家族に国際通話していたのか。家族思いなんだな。と、ジョージが珈琲を飲みながらボケッとしていると、母のアリョーナが話を向けてくる。
「で、ジョージさん。あなたはナスターシャにとって、なんですか?」
「お母様!」
スメラギがカップを乱暴に置いて立ち上がるのを目力で黙らせてアリョーナは続ける。
「ビジネスパートナーとして、ナスターシャはまだ未熟でしょう。いかに発想が優れていようとも。あなたは何故ナスターシャが側にいることを許すのです? 友として、妹として? それとも……」
真横で立ち上がったまま、赤くなったり青くなったりして固まるスメラギ。同じく対面で似たような反応をするスメラギ父。親子だなと思いながら、ジョージはゆっくりとカップをテーブルに置く。
「娘さんは、とても出来たビジネスパートナーであります。自分のような凡庸な人間には過ぎた人材とすら言えるでしょう」
それを聞いてスメラギはまた赤くなったと思うとゆっくり座ってそのまま俯いている。
「同時に友であり……、自分にとっても……、大事な人であります」
またサッと顔を上げるスメラギ。同じく顔を上げて睨むスメラギ父。
「……分かりました。あなた帰りましょう」
「しかし! アリョーナ!」
「あ・な・た?」
この家の力関係がよく分かった気がした。あっという間に大柄な体を外へと追い出し、玄関へと向かいながらアリョーナは、名刺に連絡先を書き付けて、スメラギとジョージに渡す。
「しばらく観光しているわ。何かあればホテルに連絡下さいね。それと……ナスターシャ?」
「はい……お母様……」
アリョーナは、スメラギを軽く抱き締めると耳元で何かを囁く。瞬時に赤くなってうずくまるスメラギ。
「お、おい大丈夫か……スメ……ナスターシャ」
「では、ジョージさん。娘をお頼み申します」
笑顔と共に閉じられたドアの向こうで、俺は認めんぞと叫び声が聞こえた気がした。
気まずい空気のまま会話も無く、ジョージとスメラギは業務に勤しんだ。普段なら空腹のタイミングでジョージの腹具合を計ったかのようにスメラギが声をかけてくるのだが、あれから部屋から出ても来ない。ジョージは電話でクィックデリバリーを頼み、居間で待った。
今までも言い争いや喧嘩もあったが、年の功――そんな事をいえばスメラギが激怒するから言えないが誉め言葉だとジョージは思っている――の影響で決定的な亀裂になることも無かった。思えばいつもリードしていたのはスメラギだった。いつからそれに甘えていたのだろうか。
「それにしてもあいつ……母親に何を言われたんだ……」
最後の言葉に力が抜けたスメラギを運ぼうとしたら、凄まじい速度で逃げられた。必死に顔を見せないようにしながら。あの言葉では駄目だったのか。あいつの胸に響く言葉は。俺の言葉では……。いや、今自分で確認したばかりじゃないか。甘えるなと。
ジョージは箱詰めの焼きそばと海老を甘辛く炒めたのを箱のまま持つと、スメラギの部屋へと向かう。前に教えてもらった日本神話のアマノイワトのなんとやらだ。匂いで誘えばいい。
「お、おうースメラギ。腹減っただろ? チャイナデリバリーしたから食おうぜ」
身じろぎする気配だけがする。出ては来ないが、必死にこちらの様子を見守っている。ジョージは深く息を吸うと静かに続ける。やはり言葉として言わないといけないよな。
「俺は……お前の側にいていいのか……、ずっと悩んでいた。そもそもお前の才能の邪魔をしてしまうんじゃないかと。だから親御さんが来た時に、連れ帰ってもらった方が……もしかしたら良かったのかもしれない」
息を飲む気配がして、鼻をすする音もする。
「ぼくは……【じゃま】かい?」
「そうじゃない」
「じょーじ、きみをおもって、ぼくは、ひっしに、もどってきたんだ……」
「そうじゃない! 聞いてくれスメラギ!」
お前を泣かせる為に言葉を紡ぎたくなんかないんだ。
「俺は自分の才能に自信なんてない。お前の傍に立っていていいのか……いつも悩んでいた。だが、今日お前がいなくなるかもしれないって思った時に、この家が……こんなに狭いのに、やけに広く感じたんだ……つまり……」
ドアが静かに開いて、スメラギが俯いたまましゃくりあげている。そのスメラギを胸に抱き締めて、ジョージは続ける。
「お前を女性として見るのはいけないと思った。お前が羽ばたけるように俺は手助けしないと思っていた。だけど違うんだな。お前にも俺が必要なんだな」
「……ぶるずあいばか……。誰が、誰がどうでもいい人間の為に……、国も人生もまたいでやってきたと思ってるんだ! 僕の気持ちくらい気づいてくれよ、この【にぶちん!】ばーかばーかバカジョージ」
ひどい悪態にジョージも若干泣きそうになるが、スメラギから回してきた腕はとても強く、離すもんかとそれは語っていた。
「恋人じゃないなら、無理にいなくてもいいのよって母様に言われたんだ」
予選をあっさりと抜けて、本選のあるコンペティションの会場に向かう車の中、外を見ながらスメラギはぽつりと話しだした。あの時のことを。
「それを言われて、勝手に身体が崩れて……。君が僕を抱き抱えて運ぼうとしたろ。その時に気付いてしまったんだよ。女としても君の側にいたいんだって」
前の世で、どうしても戦争へのシナリオを変えたくて無茶をした。いつもなら人生が一つ終わったら、前の事は忘れたり【仕方がないことだった】と割り切っていた。だけど、今回はジョージに悲しい想いをさせてしまったとハッキリと感じていた。生まれて物心ついて自分で動けるようになって、世界情勢も足りない情報もなるべく調べた。あの会社が無くなって、君の事は分からなかった。
僕の今世の家族は大事にしてくれている。大事にし過ぎてるとも言えるかもしれない。渡米したいなんて行ったら勿論大反対さ。仕方ないから、研究方面をひたすら伸ばしてコンテストやらなんやらで結果を見せて。後は受賞はアメリカでやるからね、本人が行かないといけないねって、強引に来たんだよ。
でも母にはバレてたんだね。全部裏できちんと片付けてくれてたんだよ。頭が上がらないよ。
多分、逃げ道になろうとしてくれたんだ。最近悩んでいたから……。ダメなら戻っておいでって。
――気付かなかった?
当たり前じゃないか。言わなかったもん。言える訳ないだろう。自分でも分からない悩みを。君がよそよそしいのは気付いていた。その度になんで胸が痛いのかなんて、自分でもそんな気持ちをすっかり忘れていたよ。何世紀ぶりだろうな。
――言わせるのかい? それを。
ずっと窓から外を見て話していたスメラギは、運転しているジョージに顔を寄せると頬に口を落とす。
「僕からは以上だ。君の意見が聞きたいな、ジョージ」
辺りはどこまでも広がるハイウェイで、付近に車がいなかったのが幸いの運転の乱れが見られたという。
こんな僻地にあるというのに、コンペティション会場は大賑わいだった。データとして渡してある資料とは別に、プレゼンテーション、発案者の説明・スピーチの時間が設けられている。むしろデータが相当に完成されたものでなければ、こちらのプレゼンが本命とも言える。実際、広々とした作りのホールは、あちこちで練習に余念が無い者たちの動きが見える.
「だから私は考える」
一人の聖職者が語っている。取り巻きは信徒なのか、練習だというのに既に感極まって泣いている者もいる。中心で話をしている若い人物は確かに何かカリスマ性のような物がある。
「人の意思を教義によって、一つにまとめ、そしてそれによって宇宙という孤独の空間を突き進む。それこそが大事なのだよ」
横をスメラギとジョージが通過した時にそんなことが聞こえてきた。ぼそりとスメラギが「それは王権制に近いな……」とツッコミを入れている。じろりと睨めつけられて、ジョージが咳払いしながら、スメラギを背中で隠し通過する。
「……スメラギ……」
思わず出てしまったと、舌を出してごまかすスメラギが、前から来た壮年の男性と一緒に走ってきた子供にぶつかる。
「あいたー! お父様、ぶつかっちゃったー!」
「おっと、大丈夫かなレディー。私がきちんと我が子をつかまえておらず……申し訳ない」
「あなた、キョロキョロしてるからですよ。うちの子がご迷惑を。大丈夫かしら?」
走ってきた小さな子どもを抱きかかえると、男性の肘に触れながら女性が微笑む。いかにも幸せそうな家族の姿に、ジョージもスメラギも見とれてしまう。
「いえ、うちのやつが前見てなかったんで」
「ごめんなさい。元気なお子さんですね」
スメラギが【よそ行きのナターシャ笑顔】を作る。そんな中で開会のブザーが鳴り、それぞれが指定された席へと慌てて戻っていく。
「あなた、あの娘ちょっと不思議な感じだったわね」
「横にいた青年を見ただろう。自然とフォローしている。いいカップルなのであろう」
「うちみたいにねー!」
こらこらと怒りながらも、父であるヴォロー博士は終始笑顔であった。
**********
宇宙に進出する際の宇宙船の話をする者、長期間の航行の為の睡眠装置について語る者、はたまた生活の利便性の為に何でも作れる調理装置の話をする者等、本当に様々な物が披露された。未だ机上の空論でしか無いものから、実際に試作品を持ってきた者もあり、万国博覧会のようであったとユニヴァーサルスペースジャーナルも特集の為に取材を念入りに行っていた。そうこうする内に、スメラギたちの番である。
「では次の方『ジョージ&ナスターシャ航宙研究所』お願いします!」
既にメディアで取り上げられた事もあり、顔を知っている人間が多いからか、拍手は他の発表者よりも多かった。それが一通り落ち着くのを待って、スメラギは静かに語り始めた。
「私たちは、今、歴史の分岐点にいるといってもよいでしょう。それ程の大事な局面に差し掛かっています。人工は増え、仕事も場所も飽和し、そして奪い合うという事象があちこちで発生しています。振り返ればいつの時代も、場所や物を取り合って我々は進んできました。それは動物であった頃の本能とも言えるかもしれません。それも基本的には【場】が狭いから起こった争いといっても過言ではないでしょう」
少女の静かな語りに場内は静まりかえっている。コンペティション会場だったはずなのに、ただ一人の少女の静かなる言葉の重みが、場を支配している。横にいるジョージにもその重さは現実の重さのように感じられる。よく平気だなと、スメラギを見ると微かに震えている。彼女も怖いのだ。これから話す事が。決断はいつも重く痛みを伴うとよく哀しい顔で話していた。俺がいるぞと、思わず睨むように前を見れば何か伝わったのかスメラギの強張っていた肩から力が抜けて震えも止まる。
「折しも、宇宙という広大な【場】は、人類には余りある程の懐があります。争う前にそこに目を向けるのは、とても有意義なことであると考えます。誰かと争ったら違う場所に移ればいい。先住民と争わなくても次へ、また次へと半途を広げればいいのです」
先程まで語っていた聖職者が眉を潜め、先のヴォロー博士はなるほどという顔でスメラギを見ている。そしてあの子は難しい話によく分からない顔をしている。
「小さなタンポポに笑顔を。隣人に花を。少しの優しさの積み重ねが社会を世界を広げていきます。そこになんの貴賤があるでしょうか。その為に我々は努力し、進むことが出来るでしょう。だから……だから、笑っておくれ幼な子よ。君が笑ったらお父さんもお母さんも笑う。それだけの話だよ、小さなレディ」
スメラギが先のあの子に笑顔を向ける。それに笑顔で応える家族。
「宇宙と共に広がり、そして進むべき。それが今の人類に必要なこと。それに携わる全ての技術が、この先の未来を変えていく。それが私、スメラギ・ナターシャの提案するプランそのものであります」
要は具体的なプランではなく、道しるべ的な物を提示したのだ。会場はざわついているが、ジョージにはとても納得が出来た。こいつはこの為だけに、このコンペに参加したのだ。これを伝え、未来へと伝える為に、残してもらう為に。あの時に戦争の火種を消そうとしたように。いつも、いつもこいつは戦っていたんだ。未来の為に。
思わずジョージは拍手をしていた。それに重なるように会場からも拍手は増え続け、そして割れんばかりの音が場を支配した。
結局コンペティションの優勝は「冷凍睡眠装置」の開発者の手に渡った。憤慨した聖職者が暴れる一幕もあったが、それでも皆が満足な結果だったと思われる。また、スメラギの提案した【道筋】は、特別賞ということで賞状と額が贈られた。
あれから沢山の事があった。たった十年で冷凍睡眠装置は実用化にまで達し、長期の宇宙航行を視野に入れ安全性は高まり続けた。
ヴォロー博士のバイオメカニクスを応用した人造ロボットは高水準で働ける労働力の礎となった。ただ、実験の際の不幸な事故により妻と子供が死亡。その失意のどん底にいた彼に聖職者が声をかけ取り込んでいたという。他にもヴィクター博士というあまり良い噂を聞かない人間も取り込み、聖職者の彼は信徒たちを引き連れ、プロトタイプの船で外宇宙へと旅立ってしまった。
地球にいるよりも外へという機運は、スメラギの狙い通り、利権目当ての商売屋も、夢を描く若者も巻き込んで大きくなり、まだ橋頭堡である月の整備が終わる前に飛び出す者は後を絶たなかった。
――今日もまた、バルコニーに寝そべっていた二人は打ち上げられた宇宙船を見た。人類の希望の旗のように、それはたなびく白い煙を伴ってどこまでも昇っていく。エンジンの推力で強引に大気圏も突破出来る程になった今なら、人類は無理に月から旅立たなくても出ていけるのだ。
「……スメラギ……お前の希望通りになったな……」
もうかなり嗄れた声は落ち着きが増していて、スメラギの耳を心地よく震わせる。だが、最期の煌めきにも感じてジョージに顔を向ける。
「お前さんは満足……してないな。これもまだ途中なんだろう」
スメラギは、若い時の美貌のまま静かに歳を重ねた手でジョージを撫でる。
「俺はお前の足枷になりたくなかった。だが、俺も……宇宙には行ってみたかったが、怖いんだよな」
自分がいると、手を握られ、力無くそれに返す。
「沢山の光が宇宙へと向かっていく。あれは希望の光だろ、スメラギ」
「そうさ……。僕らが灯した光だ」
じゃあ、もう大丈夫だな、目印もあるし。そう言って静かにジョージは力を無くした。スメラギはいつまでもいつまでも、静かにそれを握っていた。
ジョージが死に、何も手につかないまま過ごしていたスメラギの元に分厚い封筒が届いた。送り主はジョージ。慌てて封を開く。
【アメリカ野郎から、日本の高貴なる御方へ。
へっ、そんなのどうでもいい。お前はお前だからなスメラギ。珈琲がゴミ箱に入るかどうかで悩んでいたのが昨日のようだ。
お前と共に歩めた人生楽しかった。誰よりも近くで見られたお前は眩しかった。俺はその光を追っているだけだった。
結局、アメリカ野郎な癖に、俺は一度も言葉で伝えなかったな。
愛してる。誰よりも。
先に宇宙で星になってる。見付けてくれ。
じゃあな。見付けたら言ってやるよブルズアイって
ジョージ】
それと共に、大量の株の保有書類。それはユニバーサルスペースジャーナルのもの。これだけあれば【どの人生でも】生活にも研究にも困らないだろう。
「バカ……おおばか……。なんで、勝手に。勝手に残してくんだよ……」
床にはただ、次々と雨が降った。
「Never say never.」
あきらめるな。
出来ないなんて言うな、




