笑っておくれサファイア、踊っておくれ宇宙クジラ
祖母がロッキングチェアを揺らしながら語るおとぎ話が、小さいアンドリューの大好きな時間だった。いつもいつの間にかやって来る少女サファイアと一緒になってハンモックに揺られ祖母と同じように体を揺らしながら聞きふける。サファイアは何故かいつも何も話さなかったけれど、祖母の話を確かに楽しんでいる蒼い目が特徴の少女だ。
――泉のほとりの妖精の話、森の奥で出会った樹木の精の話、宇宙を駆ける一角獣の話、そして真空を疾走る竜の話。
そんな中でもアンドリューが大好きだったのは宇宙クジラの話だ。何度も聞かされても飽きる事なくおねだりしてしまう。
「ねぇ、おばあちゃん! 宇宙クジラのおはなしして!」
「はいはい。本当にアンドリューは好きだねぇ。あれは、おばあちゃんがまだおまえさんたち位に小さくて、地球から旅立って随分してからだったねぇ……」
空、いや宇宙という名の大海原で、先祖たちはたどり着くかも分からない旅に疲れ果て希望を欲しがっていた。そんな時に窓辺から星を見ていた祖母は見たのだという。宇宙の海をたゆたう巨大なクジラを。
「とってもゆっくりと泳ぎながらだけど、ちゃーんとこっちを見ていたんだね。綺麗な、そりゃあ綺麗な蒼い目で。そう、サファイアちゃんのようにね。その目でばあちゃんたちを見ていたと思ったら、まるでこっちだよというように泳ぎ始めたんだよ」
そうやって辿り着いたのがこの惑星だったという。地球からの第一世代は、惑星から空を見上げ、宇宙クジラが見えれば手を振ってこの希望の大地への案内を感謝していたのだという。
そんな祖母も惑星最高齢という時間の流れには逆らえず、静かに息を引き取った。葬儀の時も、いつの間にかサファイアはやって来ていた。参列の端でそっと涙を拭いながら、やはり一言も発さずに。
「来てくれてありがとう」
葬儀の後のアンドリューの言葉にこくりと頷き、口の動きだけでサファイアは【またね】と伝えてきた。それがアンドリューが彼女を見た最後だった。
そしてアンドリューが、胸の中に祖母のおとぎ話をゆっくりと育てながら大きくなっていくにつれて、いつしか宇宙クジラは姿を見せなくなった。その頃は宇宙各所に広がっていった人類がお互いに連絡を取り始め相互に発展していった時代だった。宇宙の過渡期であったといえる。そして今目の前の事、明日の現実を考える事に忙しく、人々は宇宙クジラのことは次第に忘れられていき、いつかしか誰もが宇宙クジラのことを話さなくなった。
――アンドリュー以外は。
小惑星帯でその尻尾を見たと聞けば亜空間をくぐり抜け巨大な宇宙竜の化石を発見。ラグランジュ点でたゆたう姿を見たと聞けば空振りに終わりスペースデブリの群れ……。また宇宙掃除業者の巨大な機械に飲み込まれかけた事もある。そうこうする内、宇宙の船乗りたちの話の中で銀河の汐の流れにアンドリューは気が付いた。
「宇宙には強い力と弱い力がある。そして天体の重力で沢山のものはお互いに引かれ合っている。でも必ずその流れの終着点があるはずだ」
その考えを信じアンドリューはアルファ・ケンタウリ方面へと船を進めた。銀河の中のサルガッソー海と呼ばれる星域において、ついに宇宙クジラと思しき巨大な物体を発見したのであった。
その大きな顔は近付けば山にしか見えず、胸ヒレは中規模の宇宙船並にある。光を反射しないその体は遠くから見れば闇そのもの。実はアンドリューもぶつかりかけてようやくそれが宇宙クジラだと気付いた程だった。
船を停泊させるのにちょうどいい穴を見つけ慎重にそこへと接舷させる。腹に響く振動の後に、まるで大地に触れたかのような安定感。クジラ側はこちらの衝撃でも小動ともしない。アンドリューは、はやる気持ちを抑えながら船外活動服を着込むと、自身の幼い頃からの夢であるその場所へと乗り込んだのだった。
聖堂が幾つも入りそうな程に巨大な口は、しかし静寂に包まれていた。喉の奥だろう方向には暗い穴が真っ直ぐに伸びて途中で下へと向かっている。およそ生命の気配は感じられない。そもそも外から見ても生きているようには見えなかった。――遅かったのだろうか。だが、調査する事で何か生態がつかめるかもしれないと、アンドリューが足を踏み出した時にそれは見えた。
「…………」
ぼんやりと白く発光し暗闇に佇む少女の姿だ。船外活動服もつけずに……と、そこでアンドリューは気付く。靴の吸着機能を使ってもいないのに、自分の足が床面にしっかりとくっついている事に。重力があるのか。それに酸素もあるのか!? 少女はその蒼い瞳をアンドリューの目と合わせると、ふいっと背中を見せて奥へと向かう。
「待ってくれ!」
考える前に足は動いていた。まさかあの瞳は……いや、こんな所に彼女がいるはずもない。そもそも最後に見た時と同じ背格好ではないか。だが前を進んでいく白いドレスをひるがえす彼女を追いかけずにはいられなかった。
まるで大型の船の船室のように、左右に人が一人くぐれる程の穴が連なり、その真ん中の通路を少女は走っていく。誰もいないそこは幽霊船に迷い込んだようだ。何度も少女に声をかけるも、その度にちらりとこちらを見るが走りを止めない。大きくカーブした道を曲がる時に見えたその瞳は、やはり記憶の中にあるのと同じ綺麗な蒼だった。
その後も随分と奥まで進む内にアンドリューは辺りが次第に明るくなってきたのに気が付いた。壁が、床が、自ら光っているのだ。それに見とれている内に少女の姿を見失う。
少女を見失った箇所まで進むと床に巧妙に隠された扉があった。上向きに開く扉を渾身の力で持ち上げれば、中は真っ暗闇。ええいままよとばかりに、アンドリューはそこへ飛び込んだ。
自由落下ではなく、ゆっくりと体が落ちていく。暗闇であったはずのそこでは、像が幾つも結ばれては消えていく。幼いアンドリューが祖母と話している笑顔の時間。ロッキングチェアで揺れる、ハンモックで揺れる、宇宙の波に静かに揺れる。ゆれる。
ゆ……れ……る……。
心地よい揺れに任せて眠りかけるが、覚醒用の船外活動服のアラームで意識がハッキリする。目をしばたたかせてゆっくりと下側にある硬い地面へと足をつけると左右を見渡す。小さな扉から微かな光が漏れている。その中へ入った時、アンドリューは息を飲んだ。淡い蒼の光を放つ五枚の花びらをまとった枝が幾つもある樹木。それが目の前で咲き誇っている。いや、これは枯れ落ちる所なのだろうか。花弁が一枚、また一枚と千々に乱れ落ちていく。思わず手を伸ばしてその花弁を手のひらで受け止めた時にアンドリューは視線に気付く。その手にそっと触れてくる淡い光に。
「サファイア、君なのか」
「…………」
儚い笑みを浮かべてサファイアは頷くと、口の動きだけで伝えてくる。【語って。物語を。おとぎ話を。あなたの話を】
アンドリューは思案する。先に見た像は、アンドリューを見る物だった。あの懐かしの日々であった。何度も何度も反芻したのだろう、擦り切れそうな記憶。思い出。だとしたら、新しい思い出を注いでやらなければ、彼女は枯れてしまうのか。
「この樹が、君なのか。サファイア」
「…………」
もう今にも消えそうにサファイアは頷く。嗚呼……いつからだ。いつから彼女に誰も話をしてやれなかったのだ。いつから彼女の中の言葉は死へと向かっていったのか。枯れていったのか。今、自分はなんのためにここに来た。いや、彼女に呼ばれたのだ。誰だおとぎ話を殺したのは。俺たち人間なのか。だとしたら、宇宙クジラの生きる糧は物語であり『言の葉』なのか。
愕然としながらも、アンドリューは自然と口から話していた。サファイアがいなくなってからの事、宇宙で必死に宇宙クジラを探した事。宇宙クジラのあまねく噂を。次第に熱が入り、どんどんと進めるにつれ、サファイアの体が幻の儚さから現実味を帯びてくる。アンドリューを握る手に力が入っていく。
「そして、僕は、こうして君に出会えたんだ。再び」
サファイアは静かに頷くと、一言つぶやいた。
「ありがとうアンドリュー」
その時、外から宇宙クジラを観測していた者がいたとしても微細な変化には気付けなかっただろう。宇宙の塵であちこち細かく傷ついていた体が修復され、つやつやと光るかの様に存在感を放ったことを。まるで一つの星のように、頭頂部手前に切れ目が出来るとそこに確かな蒼の輝きが、眼が蒼く宇宙に現れたのを。
隅々にまで活力を取り戻した宇宙クジラは、一声吠えた。反響定位。自分の位置を確かめる為に。自分自身を確かめる為に。その音波を超えた波は宇宙中に響いた。
【私はここにいる】と。
その日、かつて宇宙開拓時代のおとぎ話と言われていた宇宙クジラが、宇宙中で一斉に観測された。大型の宇宙船をも超える大きさのそれは、だがひどく優しげに我々人類の船を避けながら、ヒレで優しくどかしながら、生への歓びにあふれてひとしきり吠えた。
その声は、我々人類の耳には確かに聞こえはしなかったが、もしかしたら星の歌と呼応し、宇宙という暗闇の中で一つの燈火を呼び覚ましたのかもしれない。
ただ一つ言える事は、その時に人類は同時多発的に「我々は一人ではない」ということを胸の奥に刻まれ、あるものは涙を流し、あるものは喜びの吠え声をやはり上げたという事であろう。
ユニバーサルスペースジャーナル 宇宙クジラの夜明けより
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「どこへ行こう、サファイア」
「どこへでも。私たちの新しい物語はここからはじまるのだから」
甦った宇宙クジラ、サファイアはその瞳の輝きをなお一層光らせながら、宇宙の海の中で体をひねると深淵を泳いでいった。体内の核である樹木をこれでもかと輝かせて。