汝ら、その川を越えてゆけ
両岸どころか川面も暗く、そしてまた誰にも出会わずに夜になった。昼と思しき状態からさらに暗くり、もうほとんど何も見えない。静かな流れから岸にボートを動かせば今夜泊まれそうな小屋が見つかる。
「またこんな小屋か……」
ジョーは冷えた身体を引きずってそこへ入っていった。
何日目だろうか。気付いたらここにいた。ただ分かるのは他には誰もおらず、ただただ川を下るしかないのだということ。流れは緩やかだけど確かに下流へと流れていき、逆に上流を目指そうにもそこは暗闇だけが存在して向かうことも出来ない。染み込む闇を恐れて、ただただ下流へ流されていく。だから、他に人を見つけた時にジョーは自分の妄想かと思った程だった。
「私のボート……まぁ筏レベルだけど、急に動かなくなっちゃって。危うく溺れるところだったわ」
川の中の孤島で力なく手を振っていた彼女は、その金髪だけが僅かな光の中で輝いていた。
「僕はジョーだ。この川はなんなのか分かるかい?」
ボートに乗るのに手を貸してやりながらジョーのが尋ねると彼女はかぶりを振った。
「私はルーシェ。私にもさっぱり分からないわ……。昨日ベッドで眠りについたのは覚えているけれど……」
光を意味する彼女の名前はジョーには希望に見えた。
二人になったボートは、相変わらず引っ張られるように下流へと進んでいく。しばらく進むと今度は川の中程に随分と豪華な小屋――いやモーテルが見えた。
「昨夜までは小屋しか無かったのに……。ルーシェ、君は見覚えは?」
「私が学生時代に旅行に行った先で泊まったモーテルだわ」
少し驚いた顔でルーシェは答える。確かに言われてみれば昨夜までジョーが泊まった小屋もずっと見覚えのあるものだった。あれは両親と以前住んでいた田舎の畑の脇に野ざらしになっていたほったて小屋だった。
「僕らの記憶が再現されているのだろうか」
「だったら、ここは素敵な場所のはずよ」
ルーシェが小気味良く靴を鳴らして桟橋を渡ると、モーテルに入っていった。いつの間に桟橋が現れて、ルーシェが靴をいつ履いたのかも分からなかった。見下ろせば自分も随分と上等な靴を履いている。なんにせよ、温かな場所は今日も大歓迎だった。
「いいモーテルだね」
「満足頂けたようで何より」
さっきまでのどこか落ち着かない雰囲気ではなくしっかりと櫛を通したルーシェの姿はジョーには眩しかった。気付けば用意されていた食事に舌鼓を打ち、二人で誰もいないロビーで珈琲を飲みながら満足の息をもらしあう。
「でも……君はどうしてここに。全く身に覚えがないのかい?」
「ジョー、あなたは……?」
逆に返されてジョーは思案する。確か彼はどこかで眠りについたはず、それは一体いつの事だったか……。深く思い出そうとするとズキズキと耐え難い痛みが走り、ジョーはカップを落としてしまった。そのカップもそのまま音も立てずに消えていく。
「……ごめん……そこがどうしても思い出せないんだ」
「ごめんなさい。無理させてしまって」
――嗚呼、もっと早くにこんな子と知り合っていたら、俺はきっと幸せだっただろう。このまま俺は……――
一瞬よぎった何かはそのま霧散し、二人はそれぞれの部屋で床についた。
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翌朝、ボートは何故か二人乗りにちょうどいいサイズになり、そしてそれに乗り込んだ途端にモーテルは消え、そして今までを覆すかのように流れは速くなった。舵はほとんど利かず振り落とされないようにするのが必死な二人。先の方から静かな轟く音が聞こえてくる。
「ねぇ! あれ! 滝じゃないかしら!」
「なんだって!? どうにか岸に向かわないと!」
二人はお互いにもう叫ばないと聞こえない程の音の中、二人のボートの横を筏に乗った年配の男性が叫びながら進み、そして筏からはじき出されそのまま見えなくなる。よく見ればあちこちで同じように誰かが消えていく。――駄目だ。俺ならそれをどうにか出来るはずだ。
その時脳裏に閃く数字【Gの6218】。ジョーはルーシェに必死で叫ぶ。
「ルーシェ! 思い出せ! 君の【座席番号】は! 思い出すんだ!」
なんのことを言われているか分からないという顔だったルーシェも、ボートにしがみつく以上に痛みに耐えながら何かを思い出す。
「Bの3568番! 窓際よ!」
それを聞いてジョーは身震いすると、自分の本当の姿を思い出す。丁寧にシワを伸ばした制服。胸の階級章。腰には電子銃。非番だが、私服が面倒だからと《《この格好》》で良かった。すぐにイメージ出来る。ジョーはルーシェを一度抱き寄せると耳元で囁く。
「いいか。最後まで諦めるな。最後までだ。滝から落ちたとしても、俺が助ける、いいな」
その力強い言葉にうなずきながら、ルーシェも答える。
「美味しいワインを飲みましょう。月の砂漠が見られるいい店を知っているの。……だから、必ず助けてね。あっちの私も」
それに強く頷くと、ジョーは自分を叱咤する。これは夢だ。早く現実に戻るんだ。本当に《《死んでしまうぞ》》。
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ジョーが目を開けると、酸素不足のランプが大量に光り、緊急警報で明滅した赤い光が非常事態を知らせている。重力制御も甘くなった船内は散々な物が浮き上がりひどい有様だ。
月へと向かうシャトル。長距離だから乗客がみんな寝ていた所で何か事故があったらしい。見渡しても客室乗務員も力なく浮いている。仕方なく自分をしっかり固定していたシートのベルトを外すと【Bの3568番】を目指す。そこで眠っている彼女を見て、現実でも綺麗だと思いながらも各座席に備え付けの装置から酸素マスクを口元に当ててやる。呼吸が安定してくる。これなら大丈夫とコクピットへと向かえば操縦士が昏倒している。ディスプレイを覗けば酸素ボンベを損傷したのが分かる。デブリにでも衝突したのかそこから一部空気が漏れ一気に船内の酸素濃度が下がり、皆昏倒したようだ。
「船内の酸素濃度を生成装置でカバー……。穴からの流出の速度を隔壁で遅らせ……辛うじて間に合うか。メーデー、メーデー、こちら旅客機サンサルバドル。月面基地応答願います。当方事故により、酸素濃度低下、乗客に命の危険あり。至急救援願います。メーデーメーデー……」
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【旅客機サンサルバドルが、月面へと向かうコースで小型のデブリと接触。酸素供給に不具合を発生させ、あわや乗客乗員合わせて約百六十名が死亡するところだったが、その場に居合わせた月面救急隊のジョー・カムイ氏が奇跡的に意識を取り戻し乗客の命を救うという偉業を遂げた。ジョー氏は後日月面管理局と月面都市代表のフォン・ブレイナー氏より感謝状が授与されるとのこと。ここ一世紀の間で一番の事故になるものを防いだとして厚く式典も行われ……
また、月方面のデブリ対策も一層の排除が急がれ……
ユニバーサルスペースジャーナル トップニュースより】
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「あの時のあの食事も美味かったが、やはり生きてこそだな」
「そうね。でもあの川はなんだったのかしら」
一人の男性と一人の女性が静かに乾杯する。喉を通るその香りが生を感じさせてくれる。東洋では死者は川を渡るという。あの先に行っていたらきっと……。
「なんであれあの先の暗闇に落ちなくて良かったよ。この光を楽しめるなら」
そう言って彼は、光の化身のような彼女の髪に口づけを落とすのだった。