ユートピア。どこにも無いその場所。
駿馬だった。
それが彼を一瞥すると森の奥へ走って消えていった。もう目で追う事も出来ない。その馬の額に角が生えた様に見えたのは自分が疲れているからだろうか。そういえば先程から視界が揺らぐ。ラリーは額をこすって目眩を取ると、馬を去った方向へと森を分け入って行った。
少女は祈りを捧げていた。生きていること。活きていること。そして息をしているということに。
いつものように祈りの時間を終え、すぐ側で従者の様に待っていた彼に声をかけようとして、その従者の筋肉にまだ躍動の名残があるのに気付いた。どこへ行っていたのかしら。手を伸ばして彼に触れようとした時、葉をかき分けここでは初めて見る姿が少女の瞳に映る。
「君は……」
”お父様”と同じく、声を出して喋る彼に少女は驚きながら返事をした。
「私はグリエルマ。ここの守護者です」
その彼は口を大きく開けるとそのまま停止してしまった。
ラリーには目の前の光景に畏れすら感じていた。森を分け入っていたはずが、急に誰かの私的な空間を覗き見してしまった様なそんな気恥ずかしさ。そして敬虔な祈りに圧倒されていたのだ。何を祈っているのか分からないけれど、それは強い祈りだった。自分の母星の教皇ですらこの祈りの半分にも満たないのではないだろうか。思わず漏れた声に返答がある。だがそれよりも……
――母星……なんだそれは……。
彼は何かを思い出そうとして、ズキリと頭に痛みを覚え、そのまま草の間に倒れ伏して意識を失った。
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『裁定は我が判断を下す事とする』
「分かりました”お父様”」
誰かの話し声で目が覚める。あの少女の声と、もう一人は誰であろうか。身じろぎした所で、横にいた角の生えた馬がいななく。隣室からぱたぱたと足音が聞こえ、先程の少女グリエルマがやって来た。
「お目覚めですか? 急に倒れてしまわれて」
覗き込んで来るその綺麗な瞳に吸い込まれる様な錯覚を覚えた。声を返せずにいると、耳の真横で馬のいななきが聞こえて驚いて身を放す。
「トラスト。駄目よ。怪我をしていらっしゃるかもしれないのに」
角が生えた馬に話し掛ける彼女は、まるで意思が疎通出来ているかの様だ。
「そうだわ! ”お父様”が貴方様を呼んでおられるのです。御身体の調子が悪くなければですけれども」
「……恐らく大丈夫だと思う」
頭痛はだいぶ取れていた。さっさと行けとばかりに、馬がまた嘶いた。
椅子に腰掛けた背中だけがラリーを迎える。こちらを振り向く事なく”お父様”と呼ばれた人物は挨拶もそこそこに話し始める。
『体調はいかがかね』
「多少頭が痛む以外は問題無い様に感じます。どうやら僕は何も覚えていない様ですが……」
何かの駆動音の様なものが聞こえた後に、ならば良いと返事が来る。今のは何かと問い掛ける前に、また声がかかる。
『君の”信じたるもの”を見せてくれ。その為にしばし、ここで暮らすとよいだろう』
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グリエルマに連れられ小高い丘の近くの畑に案内される。角が生えた馬――トラストが手伝えとばかりに小突いてくる。鍬なんて物は扱った事も無い為、土が自分に反抗する様に降り下ろした衝撃が腰に響く。
グリエルマを見ると作物へ丁寧に水やりをしていた。彼女が歌を紡ぎ水を撒くと植物がみるみる育っていく。その不思議な光景と彼女に見惚れていると、またトラストに小突かれる。
「貴方様は、ニンゲンなのですよね。お父様から伺いました」
水を撒き終えてこちらへとやってきたグリエルマ。不思議な物言いをする彼女に、ラリーは思わず尋ねる。
「君も人間だろう?」
「いえ、私は……」
不自然に生まれた沈黙は、トラストの嘶きで掻き消された。ばつの悪い空気がその場に残るが、今のやりとりは無かったかの様に二人はまた作業に戻った。ラリーは心の中でその質問を繰り返しながらだったが。
――彼女は人間だろう? 彼女は……
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目が覚めたら採れたての野菜を頂き、果実で喉を潤す。川へ行けば清浄な水が心と渇きを埋めてくれる。数日そんなのんびりとした時間が過ぎていき、記憶が戻らないままだが、ラリーはいつまでもここに居たいという気分になっていた。
そんな日々が続いた中、その日は珍しくトラストが姿を見せなかった。グリエルマとラリーは二人で小高い丘にのんびりと歩いて行く。
ざぁっと風が吹き見下ろす森は葉ずれの音でまるで潮騒の様だ。
――海……自分はそれが存在する場所にいたのだろうか。思い出そうとして痛みに頭を抑える。そこへグリエルマが優しくラリーの額に口付けをする。
「痛みは取れましたか?」
「あぁ……」
頭痛の代わりに胸が針に刺された様に痛んだが、それは無くしてはいけないものだとラリーは感じた。自分を見詰めるグリエルマの視線から逃れる様に、ラリーは話題を変える。
「そういえば、僕をニンゲンと呼んでいたけれど、グリエルマも人間じゃないのかい? 何やら不思議な力はありそうだけれども」
ゆっくりとラリーから目を離し、グリエルマは後ろを向くとそっと背中をはだける。赤面して目を逸らそうとしたラリーに、グリエルマが静かに意志のこもった声でそれを留める。
「ご覧下さい。これが私ですよ」
背中から白鳥の様に純白の羽根が現れていた。明らかに服で隠すのには不釣り合いのそれは、グリエルマが一息つくと消え去り、ただ純白の陶器の様な背中だけがラリーの視界の中で輝いている。背中越しにグリエルマは声を不安げに声を掛ける。
「私が怖くなりましたか?」
「いや……」
綺麗だと口に出そうとした時、轟音と共に空が裂ける。空だと思っていた見上げたそこは、巧妙に偽装された岩盤。その隙間から小さな船が入ってこようとしているのが見える。――あれは母星の……。思い出そうとするとまた頭痛がしたが、その間にどこからかトラストが嘶いて現れるとグリエルマをあっという間に連れ去って行った。ラリーは慌てて後を追った。
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「お父様、空から何かが!」
『やれやれ……。本当にしつこい奴らだ。トラスト、頼んだぞ』
トラストはグリエルマを優しく下ろし、頬に顔を寄せて一舐めすると外へ飛び出していった。
「一体何が……」
ようやく追い付いたラリーはトラストと入れ替わりに部屋へ入る。
『再び問おう異邦人よ。君はグリエルマの姿を見てどう感じたかね。して、君の祈りの根幹とは何だね』
真横でグリエルマが期待を込めて息を飲む。少しだけ間を置いてラリーは伝える。
「綺麗でした。天使かと思いました」
『では、その天使が兵器だとしたらどうするかね』
再び沈黙が流れる。それでも焼け付く様な自分を見つめるグリエルマの視線にラリーは応えたいと思う。そして問いへと答える。
「変わりません。彼女は彼女です。その彼女の心を、兵器では無く人として守りたいと僕は思います」
何かの駆動音がうるさい位に部屋に鳴り響き、そして部屋の片隅が電子音と共に開くと”お父様”は語る。
『ならばよし。行くがよい異邦人。グリエルマと共にここを去るがよい』
ラリーとグリエルマの二人は部屋の隅から現れた機械の腕にチューブ状の通路に押し込まれ、強制的に移動させられた。
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有無を言わさずに床が動いて二人を運んでいく。その先は宇宙船のドックであった。見慣れた自分の船に頭痛と共に視界の中で光が炸裂し記憶が蘇る。
母なる星の教義に違犯し、いずこかへ去った生物学者ヴォロー博士を探して来い。可能であれば捕縛。駄目ならば聖なる裁きを下せと。
ラリーは想う。今横で自分を信じて見詰めているグリエルマを、教義に反するからと裁きを下せるのかと。無垢に見詰める瞳の光を消し去る事が出来るのか。これが”お父様”が言っていた信じるものの問い掛けか。
「グリエルマ……。僕は……」
すっと、グリエルマの手がラリーの手を優しくさする。
「何が起きようとも、如何様にもなさって下さい。私はあなた様を信じたいと思います」
その手を、瞳を見詰め、その瞳の中の理性を知性を信じ、ラリーは一つ頷くと自らの宇宙船へとグリエルマの手を引いて向かった。
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『侵入から短時間でよくやるものだ。そこまでして教化したいのか』
トラストが本来の兵器としての力を存分に発揮し、侵入者たちを屠っていくが、人数に差があり過ぎる。森は焼け少しずつこの部屋へと教化の為の部隊が迫って来る。
『潮時であるな』
生態兵器も生き物であると主張し、母なる星を出奔したヴォロー博士は、この打ち捨てられた資源衛星を改造し、静かに元兵器たちと暮らしていた。一体が停止し、二体目……三体目、いつしかグリエルマとトラストだけになっていた。森の下には戦う事無く命を終えた彼らが眠っている。
だがある日、付近で漂流していた船を発見してしまい、それを回収。教化部隊の斥候らしき青年は低酸素で記憶に障害があった様でしばらく様子を見ていたが……。悪しき者では無かった様だった。
『お父様!』
グリエルマから通信が入る。どうやら何事も無く彼の船に乗り込めた様だ。
『グリエルマよ無事だな。彼に代わってくれ』
ラリーを呼び付けグリエルマをモニターが見えないように移動を指示する。
『さて、ラリーよ。君の探していた博士だが、まだ教化する意思はあるかな』
かぶりをふってこちらを見詰めるラリーに、カメラを移動させ人影を見せる。それは宇宙服。中にはしゃれこうべが一つ。息を飲むラリーの声を確認して、カメラはまた部屋だけを映す。
『これがかつてのヴォロー博士だ』
『かつての?』
『そうだ。今はデータを引き継いだここの統治機構であるこの部屋そのものが私であり、今のヴォロー博士だ』
驚いたラリーが、内容を飲み込んだのを確認し”お父様”ことヴォロー博士でもあるコンピューターは、口調を変えて告げる。
『トラストが止めてはいるが、我が母星の教化部隊は頑固だ。この惑星ごと静かになってもらうとしよう』
『死ぬつもりなんですかっ!』
駆動音が様々な音色を奏でる。笑ったのだ。
『この身体になって久しく私は生物学的には生きてはいない。だから君は死なぬよ、ラリーよ。グリエルマを頼む。あの娘の力は破壊にも使えるが、平和に役立ててくれ。今の君ならそれが出来る事だろう。グリエルマ……幸せにおなり』
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モニターに、そして宇宙船の窓から見える小惑星に、グリエルマは何度も声を上げる。ラリーが今まで見た事が無い激した感情は、しかし胸が締め付けられる哀切に充ちている。少しずつ窓という額縁の中で小さくなっていった小惑星が、一時赤く光ったかと思うと、太陽の様に輝く。それで終わりだった。
ラリーは泣き崩れるグリエルマを、ただ後ろから優しく、強く抱き締めるしか無かった。
「角が生えた馬とデータか」
可愛らしい少女は、喋る度に口からこぼれ落ちる薔薇の花びらで覆われていく記憶素子を優しく手に抱く。
「生存者といっていいんだかわかんねーが……。連れて帰るか」
『了解ですっ! 姉御ぉ!』
その記憶素子と、傷だらけの馬が、誰かにとって、とても大切なものだというのを彼女は今は知らない。だが、出会うべくして人は出会うのだと彼女は知っている。
「希望は捨てちゃダメなんだぜ」
その柔らかな笑顔は、希望に満ち満ちていた。