ボク、私、俺の悩み事 その1
ボクは小さい頃に両親とサヨナラをさせられました。
最初のサヨナラは父でした。
父は祖父が立ち上げた会社を継ぎ、祖父と助け合いながら切り盛りしてきたそうです。 そのかいもあって、市から業績を称えられたこともあったそうです。
ボクが小学校に通う前の年の朝でした。 普段より早く起きたボクは、父と母が話し合っていたところを目にしました。 母は机にあった物を背に隠したことを今でも覚えてします。
父はそんな母を見てから、ボクの頭に手を置いて「行ってくる」と言い、いつもより大きな鞄を持って仕事に行きました。
次のサヨナラは母でした。
母はボクが小学校に上がると同時に、友人が経営している居酒屋で働くようになりました。 「ちょっとだけお母さん、借りるね」と母の友人が行ったのを覚えています。
それっきり、毎日を一人で暮らすことになってきました。 唯一、母に会えたのが朝でした。 たまに居眠りをしていました。
三年生になるころ、母はランドセルではない、大きなリュックをボクに背負わせました。 中にはいっぱいのお菓子とパンが入ってました。 「こんなに食べられない」と言うと「すぐに食べないで大切に食べるの」と母は言い、ボクたちは車に乗りました。 知らない道をいつまでも走り、着いたのは山の麓でした。
「夕方になったら、迎えに来るからそれまで遊んでて」
「学校は?」
「お休みって言ってあるから。 いい?」
ボクが頷くのを見て、母は来た道を帰っていきました。
夕方になっても、母は迎えに来ませんでした。
父と母は、ボクには分からないサヨナラをして、姿を消しました。 父と母の言葉がサヨナラであることを理解するには、当時のボクは小さすぎました。
お嬢様がいなくなり、また夜の庭園に一人になりました。 お嬢様が渡してくれた手紙をぼんやり見つめながら、頭の中は父と母のことを思い返していました。
それもお嬢様が言った「ここを卒業したら、また会いましょ」がきっかけでした。 長いこと忘れていたことです。 できることなら一生思い出すことなく生きていきたかった、と思える嫌な思い出。 出来事。
だけど思い出すことができて、お嬢様の言葉には父と母と同じサヨナラを含んでいるように聞こえました。 身を斬られるほど衝撃的で、咄嗟に声を出すことも身体を動かすことができませんでした。
また動きませんでした。 昼のときもそうでした。 ボクが男だとバレないようにするあまり、咄嗟に動けずにお嬢様に助けれてしまいました。
こういうことに弱いのでしょうか。 予想だにしないことが起きると、焦ってしまいます。
それではいけません。 ボクは貴船家に仕える人の一人です。 ボクの不始末が貴船家に影響を与えることもあります。 治さなければいけないボクの癖。
……たとえ治すことができても、お嬢様のそばにいられないなら意味がないのかもしれません。 このままどこかに行ってしまおうか……。 歳も歳になったことで、アルバイトをすることができるようになりました。 十分な生活を送るには厳しいかもしれませんが、贅沢をしなければ生きていくことはできます。
ボクは手紙を内ポケットにしまって、歩き出した一風変わった夜の学園は昼とは別の場所に見えました。
翌朝になっても、ボクは学園の外に出ることができませんでした。 学園から一歩でも足を踏み出そうとすると「ここを卒業したら、また会いましょ」と、お嬢様の言葉がボクの足を引き戻してしまいます。
寝ずに歩いて、着いた場所は女子寮の前でした。 結局ここに戻って来てしまいました。 自分でも、もうどうしたらいいのか判断ができません。 下の立場であるボクだったら、お嬢様の命令には従わないといけない。 上賀茂 歩としての立場だったら、一果のそばを離れたくない。 父と母と同じく、もう会えなくなりそうだから。
ボクはどちらに従えばいいのでしょうか。
とある本にこうありました。
『自分のしたいようにしたらいい』
ボクはどちらもしたい。 その場合、どうしたらいいのでしょう。
一人の作者の考えが、いかにも全てにおいての常識であり、こうすればうまくいくように書かれます。 では、書かれていないことに直面した場合どうしたらいいのでしょうか。
自分でどうにかして本にしろ。
いきなり突き放して、次は不特定多数のために見本になれ、と。
答えはありません。 自分で考えて、もう一つの選択肢を用意しなければなりません。 お嬢様の命令に従いつつ、そばを離れることのないもう一つの選択肢を。
決意したとき、ドアが開きかけました。 咄嗟に茂みに入って隠れました。 学校が始まるずっと前なのに、お嬢様が純白のドレスを着て出てきました。
あれは、パーティに行くときによく着るお嬢様のお気に入りの……。
お嬢様は校舎に向かうことはなく、校門に向かっていきました。 ボクは気づかれないようにお嬢様の後について行きます。
校門にはリムジンが一台止まっており、モーニングコートをきた白髪の老人が後部座席のドアを開けて、しずしずと立っていました。
あの人は、旦那様専属の使用人の————。
「おはようございます、お嬢様。 お迎えにあがりました」
お嬢様は軽く会釈をして、リムジンに乗り込みました。
いけない。 ボクには移動手段がありません。ここで行かせてしまったら、追い付くことがてきません。
「お待たせしてすみません!」
このようにするしか、他ありませんでした。 茂みの中から飛び出して、お嬢様のそばに駆け寄ります。 ドライバーは「おや」と声を漏らし、お嬢様は一瞬だけ怖い顔をしました。
ドライバーと簡単に挨拶を交わすと、旦那様が車から顔を出して「早く乗りなさい」と言いました。
ボクは助手席でドライバーの代わりにカーナビを見て道案内をすることになりました。 後ろの席とはプラスティックの壁で遮られていて、姿は見えても声まで届くことはできないようになっています。
「最近、また目を悪くしまして。 特にカーナビのような画面を見ると、視界が滲んでしまうのです。 歩殿が来られて助かりました」
「遅くなってすみません」
「……私は『来ない』とお嬢様から伺いましたが、調子はいかように?」
「良くはないと、思い、ます……。 おそらく」
「自信がないのですか?」
「自分から何かをすることに慣れていない、せい、かもしれません……。 昨日、お嬢様からお屋敷に戻るように言われてしまいました。 ですが、旦那様にはお嬢様のことを守るように言われています。 ……ボクはどうしたら良いのですか……」
「……先程、自分から何かをすることには慣れていない、とおっしゃいましたが、私からしたら大胆で的確に動けているように見えますよ。 この車にも、うまく乗り込めたではないですか」
「…………」
「自信が持てないのですか?」
「はい……」
「他人の評価が必要ですか?」
「自信とはそういうものではないですか……。 受験だっていくつも模試を受けて、その結果をもとに行く学校を決めるではありませんか」
「まったく仰るとおりです。 では、それ以外では? 模試がない今日のようなときは、どう他人に頼りますか? 指標になる評価をしてくれる企業様を知っているのですか?」
「…………」
「歩殿は、いつになったら一人でできるようになるのですか? 明日ですか? 来年ですか? 五年後ですか? プレッシャーに負けてしまうような使用人は、この世界では生きていけません。 私のほうから旦那様に、歩殿の解雇のお話をさせていただきます」
「ま、待ってください……、まってください……、まって……」
「歩殿は自信とはどういうものなのか、考えたことはありますか」
「いえ……、ただ、堂々とできる根拠とぐらいしか……」
「私はこう考えています。 自信とは意識しないでもできることである、と。 自分はこれをやる自信があると言っているようでは、いつか誤りを犯します。 使用人に誤りは許されません。 初めてやることでさえも。 酷なことを言いますが、替えがきいてしまうのです。 この恐ろしい世界に歩殿は幼いころからいたのです。 私は感嘆しましたよ。 幼いながら一人でお嬢様の世話をし、立派に勤めを果たしていました。 ですが、今はどうです? なぜ、そんなことになっているのですか」
「着替えさせたり、お茶を淹れただけです……。 誰にでもできます……」
「お嬢様は多くの衣服をお持ちになっておられます。 その中から、お嬢様がご満足していただける一着を選ぶことは並の人にはできません。 お茶にいたっても、熱くもなく冷めているわけでもなく香りをたてて、お出しすることも誰もができることではありません。 ですが、それを当たり前のようにこなしたのです。 私は今になっても、歩殿のようにお茶を淹れることができず、たまに旦那様にお叱りを受けます。 教育は受けたのですが、受けてない歩殿のほうがおいしく淹れることができるのです。 正直に申しますと、妬みもしました」
それからボクはいろんなことを聞かされました。 主人との仲のうち解け合い方、タイミングを読んだ世話の仕方など妬みの話を聞きました。 嫌な気は一切しませんでした。 誰にでもできることだと思っていたことが、自分にしかできなかったことであったと初めて実感しました。
「もう一度、問います。 他人の評価は必要ですか?」
「ボクにとって当たり前のことをするだけです」
「期待しております。 さて、今からどこに行くかご存じで?」
「いえ……、次の信号を左です」
「これから豊国家に向かい、一果お嬢様の婚約の話をされます。 いかがなされますか?」
お嬢様のドレスはそういうことですか。
「旦那様はなんと?」
「苦渋の決断でした。 旦那様も古いお方ですから、そういう考えが抜けていないと思います」
「……ボクが口を出すことではないと思いますが、様子を見て声をかけようと思います」
お嬢様は口もきいてくれないかもしれませんが。