8話 待機
最初は、3か月だけのつもりだった。
冬が終わるまで。
家賃の更新月を越えるまで。
カードの支払いが落ち着くまで。
そうやって期限をつけると、人は少しだけ安心する。
終わりがある仕事だと思いたくなるからだ。
白石真帆は、池袋北口の雑居ビル5階にある待機部屋で、膝の上に置いたスマホを見ていた。
部屋は狭かった。
壁紙は黄ばんでいて、加湿器の音だけがやけに大きい。
女が4人。
年齢は近そうでも、空気が違った。
喋る女。
黙る女。
メイクを直し続ける女。
寝たふりをしている女。
みんな同じ店に籍を置いているのに、同じ場所にいる感じはしなかった。
真帆は24歳だった。
埼玉の実家を出て、池袋の外れで1人暮らしをしていた。
昼はアパレルの販売をやっていたが、店が潰れた。
次を探しているうちに失業保険は思ったより少なくて、家賃と携帯と奨学金の返済だけでだいたい消えた。
最初はキャバを勧められた。
……無理だった。
酒も強くないし、喋るのも得意じゃない。
その時、駅前で声をかけてきた男がいた。
「昼やってたなら清潔感あるし、箱よりデリの方が向いてると思うよ」
男は妙に物腰が柔らかかった。
急かさない。
怖がらせない。
仕事内容もきれいな言葉に言い換える。
自由出勤。
日払い。
顔出しなし。
短期でも平気。
最初に会った時、真帆はその男のことをいい人だと少し思った。
今思えば、あれは善意じゃなく技術だった。
店の名前は聞いたことがなかった。
サイトを見せられた。
女の写真が並んでいた。
みんな顔は隠れている。
逆にそれが安全そうに見えた。
真帆は体験入店だけのつもりで、面接を受けた。
店長は40前後の男で、やさしそうにも怖そうにも見えなかった。
1番危ないのは、ああいう顔だと思う。
「無理なプレイは断っていいから」
「嫌なら嫌で大丈夫」
「でも、お客さん選びすぎると稼げないから、そこはバランスね」
断っていい。
でも稼げない。
その2つを並べられると、断れる気が少し薄くなる。
最初の出勤は、吐きそうなくらい緊張した。
でも終わってしまえば、金は早かった。
90分で2万円ちょっと。
昼職で8時間立っていた時より多い。
その数字が、全部を鈍らせた。
無理だった記憶より、手元に残った現金の方が強かった。
だから続いた。
3か月だけのつもりが、春を越えた。
スマホが震えた。
店の内勤からの連絡だった。
『真帆、次いける?』
真帆はすぐに返せなかった。
プロフィール用の名前は別にある。
でも、内勤は本名の方を使う。
そっちの方がよく言うことを聞くからだと、何となく分かっていた。
『客、どんな感じですか』
送る。
すぐ返ってくる。
『60代、リピ、ホテル近い、オプ相談あるかも』
オプ相談。
その4文字で、胃が少し縮む。
相談という言い方をするが、だいたい相談ではない。
できるか、できないか。
飲むか、断るか。
断ればチェンジか、評価が落ちるか。
そういう話だ。
真帆は画面を見たまま固まった。
隣で、年上の女がコンパクトを閉じながら言った。
「行けるうちに行っといた方がいいよ」
名前はエリだった。
たぶん源氏名。
30過ぎに見える。
いつも淡々としていて、待機が長くてもあまり顔色を変えない。
「昼間、全然鳴ってないし」
「……うん」
「今日たぶん弱いよ」
弱い。
その言い方も、この部屋で覚えた。
客足が悪い日。
予約が伸びない日。
写メ日記を上げても反応が薄い日。
そういう日は店全体が静かに進む。
内勤の返事を待たせすぎると、また連絡が来る。
『どうする?』
真帆は打った。
『行きます』
そう返すまでに、2分かかった。
2分で覚悟が決まったわけじゃない。
ただ、断る理由より、金がいる理由の方が先に浮かんだだけだ。
ホテルへ向かう途中、真帆は自分のスマホで口座アプリを開いた。
残高、2万4300円。
そこから家賃、携帯、奨学金、クレカ。
見なくても足りない。
昼だけでやり直すには、どこかで1回生活を止める必要があった。
でも、止めるための金がなかった。
そういう人間から抜けられなくなる。
それがこの仕事の1番うまいところだと思う。
客は駅近のホテルにいた。
部屋番号を聞いてエレベーターに乗る。
鏡に映る自分は、普段より少しだけきれいに見えた。
メイクも、髪も、服も、全部この仕事用に調整されている。
調整された自分の方が、普通の自分より見栄えがいい。
それも少し嫌だった。
部屋に入ると、男は本当に60代くらいだった。
腹が出ていて、声が大きくて、馴れ馴れしかった。
「写真より若いじゃん」
「ありがとうございます」
反射で言う。
ありがとうございますと思っているわけではない。
でも、そう返すのがいちばん早い。
シャワー。
会話。
短い沈黙。
男は途中で言った。
「オプ、いける?」
真帆は笑顔を崩さずに聞き返した。
「内容によります」
「そこまで大したのじゃないよ」
そう言うやつほど、大したことを言う。
真帆はもう知っていた。
結局、断った。
男は露骨に不機嫌になった。
「じゃあいいわ」
空気が一気に冷える。
さっきまで軽かった声が、急に金を払った側の声になる。
真帆はその変化にまだ慣れなかった。
どれだけ場数を踏んでも、こっちを人としてではなくコース内容で見る目だけは、毎回ちゃんと刺さる。
時間を終えて部屋を出たあと、すぐに内勤から連絡が来た。
『何かあった?』
『客、ちょい機嫌悪い』
その文で、もう伝わっているのだと分かった。
『オプ断ったからかもです』
少ししてから返事。
『あー』
『次から先に確認しといて』
確認しといて。
真帆は歩きながら、小さく息を吐いた。
店は無理をするなと言う。
でも、断るたびに空気で損をさせる。
それでも強制じゃない顔をする。
そのズルさが、この仕事の本体だった。
待機部屋へ戻ると、さっきまでいた女が1人いなくなっていた。
代わりに別の若い子が入っていた。
たぶん体入だろうとすぐ分かる。
目が泳いでいて、バッグを膝の上に抱えたまま座っている。
数か月前の自分みたいだった。
エリがタバコも吸わずに言った。
「初?」
若い子が小さくうなずく。
「大丈夫ですよね」
その聞き方が、もう危うかった。
大丈夫と言われたい時は、だいたい大丈夫じゃない。
エリは少しだけ笑った。
「何が」
若い子は答えられなかった。
たぶん、全部だ。
仕事。
客。
金。
自分。
……この先のこと。
全部ひっくるめて聞いている顔だった。
真帆はスマホを見た。
母からLINEが来ていた。
『元気?』
その2文字だけで、胸の奥が少し痛くなる。
実家には、派遣の事務で繋いでいると言ってある。
夜職の話はしていない。
言えるわけがないとも思う。
でも、じゃあ今の自分は誰なんだろうとも思う。
真帆はしばらく返信しなかった。
何を書いても少し嘘になる気がした。
代わりに、店のサイトを開く。
自分のプロフィール写真が上がっている。
加工された目。
少し明るくされた肌。
写メ日記の文面には、当たり障りのない可愛さが並ぶ。
『今日もがんばります♡』
『優しいお兄さん待ってます♡』
自分で書いた文なのに、自分の声に見えなかった。
この仕事を続けるうちに、金のための声と、本当に疲れている時の声が、少しずつ離れていく。
そのうち、どっちが本当か分からなくなる。
夜になっても、予約は思ったより伸びなかった。
内勤が苛立っているのが、LINEの短さで分かる。
『次、22時』
『90分』
『北口ホテル』
真帆は鏡を見た。
口紅が少し落ちている。
クマはコンシーラーで消している。
でも、疲れた目だけは残る。
その疲れを隠すための仕事で、さらに疲れているのが、少し笑えた。
エリが横で言った。
「真帆、今日飛びたい顔してる」
「してる?」
「してる」
飛ぶ。
店に連絡を返さず、そのまま消えること。
この部屋では珍しくない。
でも、本当に飛べる女は少ない。
飛んでも生活が残るからだ。
家賃も、請求も、携帯も、口座残高も、飛んだあとまで追いかけてくる。
だからみんな、飛びたいと言いながら出勤する。
真帆は少しだけ笑った。
「まだ飛ばないよ」
「そ」
エリはそれ以上言わなかった。
優しさというより、たぶん経験だった。
誰かの限界は、本人より少し先に見える。
でも見えたところで、止められるわけじゃない。
22時前、真帆はまた部屋を出た。
雑居ビルの階段は狭くて暗い。
下まで降りる途中、壁に貼られた求人の紙が目に入る。
高収入。
日払い。
未経験歓迎。
どこも同じ文句だった。
使う言葉まで、みんな似ている。
外へ出ると、池袋の夜はいつも通り明るかった。
北口の路地。
コンビニの白い灯り。
呼び込みの声。
知らない男たち。
知らない女たち。
誰もが何かを売っていて、誰もが何かを隠している。
真帆はスマホを握ったまま歩いた。
次の客の部屋番号が画面に出ている。
ポケットの奥では、母からの『元気?』がまだ光っている。
その2つの通知は、どちらも消せなかった。
ホテルの前で、真帆は1度だけ深く息を吸った。
そして、そのままエントランスへ入る。
3か月だけのつもりだった。
でも今では、自分がいつから本当に困っていたのかも、もう少し思い出せなかった。
待機部屋に戻れば、また誰かが呼ばれて、誰かが残る。
その繰り返しの中で、自分の番が来るたび、少しずつ値段だけがはっきりしていく。
人間としてのことは、だんだん曖昧になるのに。




