表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リセット  作者: ナオ
8/79

8話 待機

 最初は、3か月だけのつもりだった。


 冬が終わるまで。


 家賃の更新月を越えるまで。


 カードの支払いが落ち着くまで。


 そうやって期限をつけると、人は少しだけ安心する。


 終わりがある仕事だと思いたくなるからだ。


 白石真帆は、池袋北口の雑居ビル5階にある待機部屋で、膝の上に置いたスマホを見ていた。


 部屋は狭かった。


 壁紙は黄ばんでいて、加湿器の音だけがやけに大きい。


 女が4人。


 年齢は近そうでも、空気が違った。


 喋る女。

 黙る女。

 メイクを直し続ける女。

 寝たふりをしている女。


 みんな同じ店に籍を置いているのに、同じ場所にいる感じはしなかった。


 真帆は24歳だった。


 埼玉の実家を出て、池袋の外れで1人暮らしをしていた。


 昼はアパレルの販売をやっていたが、店が潰れた。

 次を探しているうちに失業保険は思ったより少なくて、家賃と携帯と奨学金の返済だけでだいたい消えた。


 最初はキャバを勧められた。


 ……無理だった。


 酒も強くないし、喋るのも得意じゃない。


 その時、駅前で声をかけてきた男がいた。


「昼やってたなら清潔感あるし、箱よりデリの方が向いてると思うよ」


 男は妙に物腰が柔らかかった。


 急かさない。

 怖がらせない。

 仕事内容もきれいな言葉に言い換える。

 自由出勤。

 日払い。

 顔出しなし。

 短期でも平気。


 最初に会った時、真帆はその男のことをいい人だと少し思った。

 今思えば、あれは善意じゃなく技術だった。


 店の名前は聞いたことがなかった。


 サイトを見せられた。

 女の写真が並んでいた。

 みんな顔は隠れている。

 逆にそれが安全そうに見えた。


 真帆は体験入店だけのつもりで、面接を受けた。


 店長は40前後の男で、やさしそうにも怖そうにも見えなかった。


 1番危ないのは、ああいう顔だと思う。


「無理なプレイは断っていいから」


「嫌なら嫌で大丈夫」


「でも、お客さん選びすぎると稼げないから、そこはバランスね」


 断っていい。


 でも稼げない。


 その2つを並べられると、断れる気が少し薄くなる。


 最初の出勤は、吐きそうなくらい緊張した。


 でも終わってしまえば、金は早かった。


 90分で2万円ちょっと。


 昼職で8時間立っていた時より多い。


 その数字が、全部を鈍らせた。


 無理だった記憶より、手元に残った現金の方が強かった。


 だから続いた。


 3か月だけのつもりが、春を越えた。


 スマホが震えた。


 店の内勤からの連絡だった。


『真帆、次いける?』


 真帆はすぐに返せなかった。


 プロフィール用の名前は別にある。


 でも、内勤は本名の方を使う。


 そっちの方がよく言うことを聞くからだと、何となく分かっていた。


『客、どんな感じですか』


 送る。

 すぐ返ってくる。


『60代、リピ、ホテル近い、オプ相談あるかも』


 オプ相談。


 その4文字で、胃が少し縮む。


 相談という言い方をするが、だいたい相談ではない。


 できるか、できないか。


 飲むか、断るか。


 断ればチェンジか、評価が落ちるか。


 そういう話だ。


 真帆は画面を見たまま固まった。


 隣で、年上の女がコンパクトを閉じながら言った。


「行けるうちに行っといた方がいいよ」


 名前はエリだった。


 たぶん源氏名。


 30過ぎに見える。


 いつも淡々としていて、待機が長くてもあまり顔色を変えない。


「昼間、全然鳴ってないし」


「……うん」


「今日たぶん弱いよ」


 弱い。

 その言い方も、この部屋で覚えた。


 客足が悪い日。

 予約が伸びない日。

 写メ日記を上げても反応が薄い日。

 そういう日は店全体が静かに進む。


 内勤の返事を待たせすぎると、また連絡が来る。


『どうする?』


 真帆は打った。


『行きます』


 そう返すまでに、2分かかった。


 2分で覚悟が決まったわけじゃない。


 ただ、断る理由より、金がいる理由の方が先に浮かんだだけだ。


 ホテルへ向かう途中、真帆は自分のスマホで口座アプリを開いた。


 残高、2万4300円。


 そこから家賃、携帯、奨学金、クレカ。


 見なくても足りない。


 昼だけでやり直すには、どこかで1回生活を止める必要があった。


 でも、止めるための金がなかった。


 そういう人間から抜けられなくなる。


 それがこの仕事の1番うまいところだと思う。


 客は駅近のホテルにいた。


 部屋番号を聞いてエレベーターに乗る。


 鏡に映る自分は、普段より少しだけきれいに見えた。


 メイクも、髪も、服も、全部この仕事用に調整されている。


 調整された自分の方が、普通の自分より見栄えがいい。


 それも少し嫌だった。


 部屋に入ると、男は本当に60代くらいだった。


 腹が出ていて、声が大きくて、馴れ馴れしかった。


「写真より若いじゃん」


「ありがとうございます」


 反射で言う。


 ありがとうございますと思っているわけではない。


 でも、そう返すのがいちばん早い。


 シャワー。

 会話。

 短い沈黙。


 男は途中で言った。


「オプ、いける?」


 真帆は笑顔を崩さずに聞き返した。


「内容によります」


「そこまで大したのじゃないよ」


 そう言うやつほど、大したことを言う。


 真帆はもう知っていた。


 結局、断った。


 男は露骨に不機嫌になった。


「じゃあいいわ」


 空気が一気に冷える。


 さっきまで軽かった声が、急に金を払った側の声になる。


 真帆はその変化にまだ慣れなかった。


 どれだけ場数を踏んでも、こっちを人としてではなくコース内容で見る目だけは、毎回ちゃんと刺さる。


 時間を終えて部屋を出たあと、すぐに内勤から連絡が来た。


『何かあった?』


『客、ちょい機嫌悪い』


 その文で、もう伝わっているのだと分かった。


『オプ断ったからかもです』


 少ししてから返事。


『あー』


『次から先に確認しといて』


 確認しといて。


 真帆は歩きながら、小さく息を吐いた。


 店は無理をするなと言う。


 でも、断るたびに空気で損をさせる。


 それでも強制じゃない顔をする。


 そのズルさが、この仕事の本体だった。


 待機部屋へ戻ると、さっきまでいた女が1人いなくなっていた。


 代わりに別の若い子が入っていた。


 たぶん体入だろうとすぐ分かる。


 目が泳いでいて、バッグを膝の上に抱えたまま座っている。


 数か月前の自分みたいだった。


 エリがタバコも吸わずに言った。


「初?」


 若い子が小さくうなずく。


「大丈夫ですよね」


 その聞き方が、もう危うかった。


 大丈夫と言われたい時は、だいたい大丈夫じゃない。


 エリは少しだけ笑った。


「何が」


 若い子は答えられなかった。


 たぶん、全部だ。


 仕事。

 客。

 金。

 自分。


 ……この先のこと。


 全部ひっくるめて聞いている顔だった。


 真帆はスマホを見た。


 母からLINEが来ていた。


『元気?』


 その2文字だけで、胸の奥が少し痛くなる。


 実家には、派遣の事務で繋いでいると言ってある。


 夜職の話はしていない。


 言えるわけがないとも思う。


 でも、じゃあ今の自分は誰なんだろうとも思う。


 真帆はしばらく返信しなかった。


 何を書いても少し嘘になる気がした。


 代わりに、店のサイトを開く。


 自分のプロフィール写真が上がっている。


 加工された目。


 少し明るくされた肌。


 写メ日記の文面には、当たり障りのない可愛さが並ぶ。


『今日もがんばります♡』

『優しいお兄さん待ってます♡』


 自分で書いた文なのに、自分の声に見えなかった。


 この仕事を続けるうちに、金のための声と、本当に疲れている時の声が、少しずつ離れていく。


 そのうち、どっちが本当か分からなくなる。


 夜になっても、予約は思ったより伸びなかった。


 内勤が苛立っているのが、LINEの短さで分かる。


『次、22時』

 『90分』

『北口ホテル』


 真帆は鏡を見た。


 口紅が少し落ちている。

 クマはコンシーラーで消している。


 でも、疲れた目だけは残る。

 その疲れを隠すための仕事で、さらに疲れているのが、少し笑えた。


 エリが横で言った。


「真帆、今日飛びたい顔してる」


「してる?」


「してる」


 飛ぶ。


 店に連絡を返さず、そのまま消えること。


 この部屋では珍しくない。


 でも、本当に飛べる女は少ない。


 飛んでも生活が残るからだ。


 家賃も、請求も、携帯も、口座残高も、飛んだあとまで追いかけてくる。


 だからみんな、飛びたいと言いながら出勤する。


 真帆は少しだけ笑った。


「まだ飛ばないよ」


「そ」


 エリはそれ以上言わなかった。


 優しさというより、たぶん経験だった。


 誰かの限界は、本人より少し先に見える。


 でも見えたところで、止められるわけじゃない。


 22時前、真帆はまた部屋を出た。


 雑居ビルの階段は狭くて暗い。


 下まで降りる途中、壁に貼られた求人の紙が目に入る。


 高収入。

 日払い。

 未経験歓迎。


 どこも同じ文句だった。


 使う言葉まで、みんな似ている。


 外へ出ると、池袋の夜はいつも通り明るかった。


 北口の路地。


 コンビニの白い灯り。


 呼び込みの声。


 知らない男たち。

 知らない女たち。


 誰もが何かを売っていて、誰もが何かを隠している。


 真帆はスマホを握ったまま歩いた。


 次の客の部屋番号が画面に出ている。


 ポケットの奥では、母からの『元気?』がまだ光っている。


 その2つの通知は、どちらも消せなかった。


 ホテルの前で、真帆は1度だけ深く息を吸った。


 そして、そのままエントランスへ入る。


 3か月だけのつもりだった。


 でも今では、自分がいつから本当に困っていたのかも、もう少し思い出せなかった。


 待機部屋に戻れば、また誰かが呼ばれて、誰かが残る。


 その繰り返しの中で、自分の番が来るたび、少しずつ値段だけがはっきりしていく。


 人間としてのことは、だんだん曖昧になるのに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ