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リセット  作者: ナオ
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74話 飛べない

 売れてるホストは、朝の街で消える。

 

 姫とホテルへ行くやつ。

 タクシーでどこかへ流れるやつ。

 高い靴のまま笑ってるやつ。

 

 売れてないホストは、朝の街に残る。

 

 コンビニ。

 牛丼屋。

 始発待ち。

 潰れた仲間。

 吐いた跡。

 

 それが新宿じゃなく池袋なのが、海斗には少しだけ救いでもあり、余計に情けなくもあった。

 

 池袋のホストっていうのは、歌舞伎町みたいな派手さを真似しているくせに、金の流れだけ妙に細い時がある。

 

 見た目はそれっぽい。

 

 スーツ。

 セットした髪。

 細いネクタイ。

 香水。

 

 でも中身はだいぶ貧しい。

 

 海斗は22歳だった。

 

 池袋東口寄りのホストに入って半年。

 売上はほとんどない。

 指名も細い。

 初回でついた客も、次にはだいたい売れっ子へ流れる。

 

 残るのはヘルプだけだ。

 

 コール。

 盛り上げ。

 酒。

 笑い声。

 場を冷やさないこと。

 

 客は自分の名前を覚えない。

 

 でも酒だけは飲まされる。

 

 店の先輩は言う。

 

「お前みたいなのは、まず飲めるようになれ」

 

 その言い方が腹が立つ。

 

 売れろじゃない。

 飲めるようになれ。

 

 つまり、自分の役目はまだ商品じゃない。

 

 売れっ子の席で酒を引き受ける、店の部品みたいなものだ。

 

 営業前、寮の洗面台で顔を洗う。

 

 寮といっても、呼び方だけだ。

 

 実際は古いワンルームに男が3人転がっているだけだった。

 

 床にマットレス。

 脱ぎっぱなしのスーツ。

 空き缶。

 コンビニの袋。

 湿ったタオル。

 誰のか分からない整髪料。

 風呂は狭い。

 キッチンは汚い。

 冷蔵庫には水と酒しかない日もある。

 

 でも家賃は寮費として引かれる。

 

 給料から。

 給料なんてほとんど残らないのに。

 

 海斗は先月も前借りしていた。

 

 スーツ代。

 美容院。

 携帯代。

 食費。

 

 全部が足りなかった。

 

 店は前借りを出す。

 そのかわり、給料日にほとんど消える。

 

 だから働いても金が残らない。

 でも前借りしないと、その月が越せない。

 

 越せないから借りる。

 借りるから辞められない。

 その順番がもう、首輪みたいだと海斗は思っていた。

 

 営業前のミーティングで、内勤が言う。

 

「今日、初回そこそこ入るから」

「ヘルプの連携ちゃんとしろよ」

「あと海斗、お前昨日潰れたのダサいからな」

 

 店内に少し笑いが起きる。

 海斗も笑ったふりをした。

 でも腹の中は冷えていた。

 

 昨日、海斗は潰れた。

 

 売れっ子の卓で、シャンパンとテキーラを混ぜたような酒を何杯も飲まされた。

 

 断れなかった。

 断ると空気が悪くなるからだ。

 

 空気が悪くなると、先輩に睨まれる。

 

 売れっ子にも嫌われる。

 

 客にも使えないと思われる。

 

 だから飲む。

 

 飲んで、笑って、コールして、最後にトイレで吐く。

 

 吐いても戻る。

 

 戻れなかったら殴られる。

 

 ……昨日は戻れなかった。

 

 バックヤードの床に座りこんだところを、先輩の隼人に見つかった。

 

 そのまま首元を掴まれて、ロッカー横まで引きずられた。

 

「何してんだよ」

「仕事しろよ」

「飲んで終わりか?」

 

 そう言いながら、腹を一発蹴られた。

 大した蹴りじゃない。

 でも潰れてる時の一発は、妙に深く入る。

 

 海斗はその場で吐いた。

 

 隼人は舌打ちして言った。

 

「最悪」

「掃除してから戻れ」

 

 それで終わりだった。

 殴られ続けるわけじゃない。

 

 そこが余計に現実っぽくて嫌だった。

 

 店の中での暴力って、いつも中途半端だ。

 事件になるほどじゃない。

 

 でも、次から逆らいにくくなるくらいには効く。

 

 その夜も、海斗はヘルプばかりだった。

 

 初回の席では笑う。

 

 売れっ子の横では酒を飲む。

 場が止まりそうになると、無理やりテンションを上げる。

 

 客に髪を掴まれても笑う。

 

 名前を間違えられても訂正しない。

 そういうので一晩を回す。

 

 ホストっていうのは、客を落とす仕事だと思っていた。

 

 でも売れないうちは違う。

 売れっ子を気持ちよく見せるための背景になる仕事の方が近い。

 

 1時を過ぎると、フロアの空気が少し荒くなった。

 

 酒が回る。

 客の声がでかくなる。

 売れっ子はさらに売上を伸ばす。

 底辺はさらに飲まされる。

 

 海斗は隼人の卓にまた呼ばれた。

 

 客は30代の女だった。

 顔はきれいだったが、目だけがかなり酔っている。

 

「この子、弱いの?」

 

 女が笑いながら海斗を見た。

 

「弱いっすよ」

「でも飲ませると面白いんで」

 

 隼人がそう返す。

 面白い。

 

 その言葉が、海斗にはきつかった。

 

 客も笑う。

 海斗も笑うしかない。

 

 グラスが回る。

 

 飲む。

 喉が熱い。

 胃の奥がすぐ痛くなる。

 

「もっといけるでしょ」

 

 女が言う。

 

 隼人も横で笑っている。

 

 海斗は飲んだ。

 また飲んだ。

 途中から味は分からなかった。

 

 ただ、ここで止まるとまたあとで何か言われる、それだけで動いていた。

 

 席を外れた瞬間、視界が揺れた。

 

 バックヤードの壁に手をつく。

 

 呼吸が浅い。

 

 胃が跳ねる。

 

 若い内勤が横を通って、小さく言った。

 

「また?」

 

 その“また”が恥ずかしかった。

 もう店の中で、自分は潰れるやつとして定着し始めている。

 

 でも潰れるほど飲まされる位置からは、まだ抜けられない。

 

 トイレで吐いた。

 何も出なくなっても吐いた。

 

 水で口をゆすいで、鏡を見る。

 顔だけはまだ若かった。

 でも目の下は暗い。

 

 スーツも少しよれている。

 

 この顔でフロアへ戻るのかと思うと、少しだけ死にたくなった。

 

 でも戻る。

 戻らないと終わるからだ。

 

 フロアへ出ると、隼人がすぐ気づいた。

 

「おせえよ」

 

 それだけ言って、海斗にまたグラスを持たせる。

 さっき蹴ったことなんて、もう終わった話みたいな顔だった。

 

 その軽さが嫌だ。

 殴った方はすぐ忘れる。

 殴られた方だけが、次の一発を気にして酒を飲む。

 

 営業が終わったのは朝5時前だった。

 

 売れっ子は客と消えた。

 先輩も何人か消えた。

 

 残ったのは、売れてないやつと内勤と、フロアの汚れだけだった。

 

 海斗は床を拭いた。

 テーブルを直した。

 空のボトルを片づけた。

 

 吐きそうな胃のまま、黙って動いた。

 

「今日、給料日だっけ?」

 

 同期の蓮が聞く。

 海斗は少しだけ笑った。

 

「給料日って言っても、ないけど」

 

 本当にそうだった。

 前借りがある。

 寮費がある。

 スーツ代も引かれる。

 細かい立替もある。

 

 今月の明細を見ても、多分手元に残るのは1万もない。

 

 それでまた食って、また足りなくなって、また前借りする。

 

 その繰り返しだ。

 

「飛びたい?」

 

 蓮が小さく聞いた。

 

 ……海斗は少し黙った。

 

 飛びたい。

 辞めたい。

 寮も店も全部切って、どこかへ行きたい。

 

 でも飛べない。

 

 前借りがある。

 店に身元も割れてる。

 スーツも寮も全部向こうの管理だ。

 

 客にだって中途半端に連絡先が残ってる。

 完全に売れてないくせに、完全に消えるほど軽くもない。

 

 そこが気になって仕方ない。

 

「飛びたいけど、飛べない」

 

 海斗が言うと、蓮は少しだけ笑った。

 

「だよな」

 

 それで終わりだった。

 

 朝の池袋は、夜より少しだけ残酷に見える。

 酔ってる言い訳が消えるからだ。

 ホストの髪も、スーツも、朝の光だと急に安っぽくなる。

 

 売れっ子はその時間にはもう街から消えている。

 

 残るのは、牛丼屋へ入る底辺だけだ。

 海斗と蓮は東口の牛丼屋へ入った。

 

 朝定食のメニューが光っている。

 

 味噌汁。

 卵。

 海苔。

 

 そういう普通の朝の食べ物が、妙に遠かった。

 

 海斗は牛丼の並だけ頼んだ。

 

 ほんとはもっと腹が減っている。

 でも金がないから並にする。

 ホストのスーツのまま、朝の牛丼を節約している自分が急に滑稽に思えた。

 

「今日も寝たらまた夜か」

 

 蓮が言う。

 

「寝れたらな」

 

 海斗が返す。

 

 酒が残ってる朝って、眠いのに浅い。

 

 目を閉じても卓の音が戻る。

 コールが戻る。

 蹴られた腹の鈍い痛みも残る。

 

 それでも夜になればまた店へ行く。

 前借りがあるから。

 給料がないから。

 辞める金すらないから。

 

 底辺ホストの地獄って、売れないことそのものじゃないのかもしれないと海斗は思った。

 

 飲まされる。

 潰れる。

 殴られる。

 金は残らない。

 

 でも次の日も普通に出勤する。

 

 そうやって、地獄みたいな日々がちゃんと日常の顔をして続いていくことの方が、ずっと深い。

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