73話 場内だけ
営業前から、今日も本指は弱かった。
あかりはロッカーの前でスマホを見ながら、それをもう分かっていた。
昨日の客から返事はない。
一昨日の客は既読だけ。
先週来た客は、ストーリーだけ見て何も送ってこない。
店の中で笑ってる時は、みんな少しは脈がある顔をするのに、外へ出ると急に普通の男へ戻る。
その切り替わりに、もう何度も腹が立っていた。
でも完全には慣れない。
だから毎回少しだけ傷つく。
あかりは24歳。
池袋西口のキャバクラで働いて1年半になる。
売れてないわけじゃない。
でも売れてるとも言えない。
フリーにつけば場内はそこそこ取れる。
席では盛り上がる。
笑わせるのもうまい方だと思う。
でも、本指に変わらない。
そこが苦しい部分だった。
完全にダメなら、たぶんもっと早く辞めていた。
でも毎回少しだけ手応えがある。
今日のあの客はいけるかも。
次は指名で来るかも。
LINEの返し方がいつもよりよかったかも。
そういう“あと一歩”だけを何回も食わされる。
だから逆に抜けられない。
ヘアメが終わって、店に入る前に鏡を見る。
巻いた髪。
濃いめのまつげ。
輪郭を削るシェーディング。
口紅の色もちゃんと作ってある。
顔だけ見れば、今日もいけそうだった。
でも、いけそうな顔でいけなかった夜を、あかりはもう何十回も持っていた。
控えに入ると、売れっ子の蘭がすでに座っていた。
スマホを見ながら、黒服と少しだけ話している。
声は小さい。
でも、聞こえる単語だけで十分だった。
「今日2本目、10時半くらいに来るって」
「じゃあ最初は軽くでいいね」
軽くでいい。
その言い方が腹立たしいのは、多分あかりだけじゃない。
本指が何本もある子って、最初の営業から“軽くでいい”が成立する。
こっちは違う。
フリーを取って、場内を引いて、その場の空気をつないで、ようやく今日の数字を作る。
作っても、それが翌日に残らない。
そこが全然違った。
黒服の涼介がフロアを見ながら入ってくる。
「今日、最初フリー多いから頼むわ」
あかりは小さくうなずいた。
頼むわ、の時点でだいたい分かる。
今日も便利に使われる日だ。
嫌じゃない。
いや……本当は嫌だ。
でも、フリーにつけてもらえるだけまだましだとも思う。
何もないよりは、場内の可能性がある。
そうやって自分を納得させるのも、もう慣れていた。
出勤時間になった。
最初の席は3人組だった。
会社帰りっぽい男が2人と、少し年上の落ち着いた男が1人。
こういう席は悪くない。
ノリだけで終わる若い2人組より、少し年上が混ざる席の方が場内の気配が出やすいからだ。
あかりは最初の3分で、その真ん中の男へ少し寄せた。
笑いすぎない。
でも冷たくもしない。
池袋のキャバって、歌舞伎町みたいに露骨な営業をすると引く客がいる。
特に西口はそうだ。
だからあかりは、“話しやすい女”の顔を作るのがうまくなっていた。
「仕事帰りですか」
「まあね」
「池袋よく来るんですか」
「いや、今日はたまたま」
たまたま、って言う客ほど次も来る時がある。
本当にたまたまのやつもいる。
でも、少しでも店の雰囲気が合った男は、その一言を最初に使う。
そこを拾えるかどうかで場内の空気は変わる。
10分後、その男が場内を入れた。
あかりはそこで少しだけ気持ちが上がった。
やっぱり今日いけるかも、と思う。
毎回思う。
思って、だいたい外す。
でも思わないとやっていられない。
それももう分かっていた。
そのあとも、あかりはうまく回った。
フリーで1本。
ヘルプを挟んで、また別の席で場内1本。
店の中では忙しい方だった。
ドリンクも出る。
笑う回数も多い。
黒服もちゃんと使う。
たぶん端から見れば、今日は売れてる女に見えたと思う。
でも、あかりは自分で分かっていた。
これは本指の忙しさじゃない。
全部その場だけの忙しさだ。
その証拠に、席を外れるたび客の目が軽い。
名残惜しさがない。
また戻ってきて、くらいの顔をする。
次いつ来るとか、次は指名でとか、そういう気配が薄い。
でもその薄さって、席の最中は見えにくい。
楽しい空気で全部少しぼやけるからだ。
中盤、場内を入れてくれた最初の男が言った。
「次来たらまた呼んでいい?」
それを聞いた瞬間、あかりは少しだけ胸の奥が動いた。
また呼んでいい。
この言い方をする客は多い。
本当に来るかは別だ。
でも、その瞬間だけは“次”がある顔をする。
「もちろん」
あかりは笑って返した。
「約束ですよ」
その言い方も、客が重く感じない程度には軽くした。
そこまでは完璧だったと思う。
でも、完璧でも残らない夜がある。
その男は結局、会計の時に名刺だけもう1回見て、「またね」と言って帰った。
またね、の顔だった。
次回また来る顔でも、本指の顔でもない。
その場が楽しかったから言うだけの“またね”。
あかりは何回もそれを見てきた。
見てきたのに、毎回少しだけ期待してしまう。
23時を過ぎる頃には、蘭の卓にシャンパンが入っていた。
派手な額ではない。
でも、ちゃんと本指の流れで入ったシャンパンだ。
あかりの場内2本分より、そっちの方が店の中では強い。
分かっている。
数字でも、空気でも、全部そうだ。
でも分かっていることと、平気でいられることは違う。
ヘルプで蘭の卓についた時、あかりはその差が嫌でも見えた。
蘭は少し疲れていた。
でも余裕があった。
本指の客が“蘭ちゃんは次いついるの”と自然に聞く。
蘭はカレンダーなんて見なくても答えられる。
次があるからだ。
あかりの客は違う。
その場で盛り上がる。
場内も入る。
でも次の話になると急に薄くなる。
店の中だけで消費される感じがする。
ラスト前、涼介が伝票を持ってきた。
「今日、場内2」
「フリーの拾いは悪くない」
悪くない。
その言い方がまたきつかった。
褒められてるようで、立場は上がっていない。
フリーの拾いが悪くない女っていうのは、店からすると一番便利だ。
最初の食いつきは取れる。
場内も引ける。
でも看板ではない。
だからどこへでも回せる。
その便利さの中に、自分がもうきれいに入っているのが分かった。
「今日の最初の客、次ありそうだったけどね」
涼介が言った。
あかりは少しだけ笑った。
「ありそう、で終わるんですよね、だいたい」
涼介は返さなかった。
返せないのだろうと思った。
付け回しは女をよく見ている。
でも、どうにもならない線があることも知っている。
場内だけの女って、がんばりが足りないわけじゃない。
むしろ席ではうまい方だ。
でも、本指になるための“何か”が薄い。
それが愛嬌なのか、店外感なのか、危うさなのかは、人によって違う。
あかり自身にも、何が足りないのかははっきり分からない。
だから余計に苦しい。
営業が終わって、控えで売上表を見る。
忙しかったわりに、数字は悪くない。
……でも強くもない。
蘭の本指1本とシャンパン1本が、今日のあかり全部よりきれいに上へ残っている。
その現実が、一番静かに刺さる。
「今日どうだった?」
紗理奈がロッカー前で聞いてきた。
「場内だけ」
あかりが言うと、紗理奈は少し笑った。
「でも取れるだけいいじゃん」
その言葉も、本当だ。
でも、本当だから余計にきつい。
取れないよりいい。
でも、本指にならないなら、結局ずっと“取れるだけの女”のままだ。
家に帰る前、あかりは駅前のベンチで少しだけスマホを見た。
今日の客のLINEを開く。
最初の男。
地方から来たと言っていた男。
少しおとなしかった2人組の片方。
誰に何を送るか考える。
今日はありがとうございました。
またお話したいです。
次来る時は連絡くださいね。
そういう文を何パターンか作る。
送れば既読はつくかもしれない。
でも、それで終わるかもしれない。
それでも送るしかない。
場内だけの女っていうのは、多分そこが一番リアルなのだ。
席では笑う。
その場では選ばれる。
でも店が終わると、自分から“次”を作りにいかないと何も残らない。
しかも、作りに行っても残るとは限らない。
あかりは最初の男のトーク画面を開いたまま、しばらく送信ボタンを押せずにいた。
今日は楽しかったです、の文がやけに軽く見えたからだ。
楽しかったのは多分本当だ。
でも、その本当は本指には足りない。
池袋のキャバと言うか、この業界できついのはそこかもしれない。
一瞬だけちゃんと楽しそうな空気ができることだ。
だから毎回、あと一歩いける気がしてしまう。
そして、その一歩がずっと残らない。
駅前には、まだ店帰りの女が何人かいた。
巻いた髪のまま、スマホだけ見ている。
あかりはその中に自分も混ざっているのを見て、少しだけ笑いそうになった。
売れているわけじゃない。
でも売れていないとも言い切れない。
場内だけの女って、多分そういう顔をしている。
今日も忙しかったのに、何も決まらなかった顔だ。
あかりは結局、最初の男へ短い文を送った。
『今日はありがとうございました』
それだけ。
送信のあと、すぐ既読はつかなかった。
でも驚きもしない。
その驚かなさが、もうベテランでもある。




